RaN10 ポール・デイヴィス「幸運な宇宙」 第7章~第9章について
黒月樹人のランダムノート (Random Note by Kinohito KULOTSUKI)
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 第7章「生物に適した宇宙」

 ようやく、この本のテーマが語られ始めるところまで、たどりついた。

もっとも根幹となる問題は、この宇宙を構成している、素粒子や力の、微妙な定数の値が、まさに、この宇宙で生命が生存してゆくために、最適の値となっているということである。この章での結論は、このようなことであるが、ここへとたどり着くステップのことが、少しずつ説明されてゆく。

「観測者の役割」 ここでは、「宇宙」と「観測者としての生物」のことが考察される。この関係から、「人間原理」という視点が現れた。これは混乱を呼ぶので、できれば「生物原理」としたほうがよいようだ。

「宇宙にはわたしたちしかいないのだろうか?」 まあ、このような発言は、地球の公的な機関で職をもつ者たちの、共通した言い回しなのだろう。戦争ばかりやってきた人類としては、私たちを上回る科学力をもつ存在のことを、身近に感じたくないのだろう。しかし、すでに観測されている、この太陽系の、さまざまな惑星や衛星の画像を調べてみると、あちこちに、知性をもった生命が構築したとしか思えない、文明の証拠が見つかる。ほんの近くの、この太陽系でさえ、文明と生態系があふれていることが分かる。ときどき、太陽系の外にあるという、星雲などの画像を調べてみると、やはり、文明や生態系の証拠が見つかる。なんとなく、NASAなどが、知らんふりをする気持ちも、分からなくもない。私たちを虫けらのように見るはずの、巨大な生命体や、低級な種族とみなすはずの、高度な文明のことを知ると、いったい私たちが生きている意味は何なのかと考えてしまうことだろう。このような疑問に、地球の科学者たちは、あまり答えてくれない。答えを持っていないので、知らんふりをしているのかもしれない。

「化学元素の誕生」 ここでポール・デイヴィスは、恒星の内部で核融合が起こっていて、それにより、水素しかなかった状態から、さまざまな元素が生み出されてきたという、定説を繰り返している。私は、この説も信じられなくなってきた。このような説の根底には、太陽を含む「恒星」というものが、ガスの塊であるというベースがある。ところが、ときどき流れてくる情報の中に「太陽には固い地表がある」というものがある。地球の科学者からのものではない。

最近、遠方の「恒星」の観測画像を調べてみたところ、輝く光の、最も強い光のところだけを残して描き直した「光核像」において、幾何的な色パターンを何度も観察することになり、このようなパターンは、ガス体では不可能だと考えるようになってきた。

また、空の太陽を撮影して調べてみると、コンター解析画像において、太陽の表面あたりに、完全に四角い影が現れるのを観察した。これは不思議だ。まるで、アーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」などに登場する、巨大なモノリスのようだ。他の部分は、複雑なパターンとなっているのに、どうして、一部分だけが四角くなるのだろうか。画素のモザイクではない。それらの縦横数十ピクセル程度の大きさがある。

このような、幾つもの観測画像における証拠から、「恒星」や「太陽」がガス体で、その内部で核融合が生じているという、これまでの定説を、ただちに信じられなくなってしまった。それでは、多様な元素は、どのようにして生み出されたのか。それは、まったく別の問題である。一から証拠を探して、別のルートを探さなければならない。

「宇宙はいかにして炭素という生命の基礎となる元素を形成したのか」 ここのエピソードには、フレッド・ホイルが登場する。ここの物語にも、実は、恒星内部での核融合が組み込まれている。しかし、核融合が、どこで起こっているのかということは、ここでは別問題である。炭素の原子核の質量は、ヘリウム3つ分の原子核の質量より、少し小さい。フレッド・ホイルは、ヘリウムから炭素が生み出されるプロセスにおいて、この差をプラスし、さらに少し大きなエネルギーをもつ、炭素原子の励起状態があるはずだと考えた。これなら、ヘリウムから炭素への合成が、「共鳴」によって進むというわけである。この予測は、まだ実験的に調べられていなかった。そこで、ホイルはアメリカの実験物理学者に、これを調べてほしいとアピールした。やがて、この願いが聞き入れられ、調べてみると、ホイルの言うとおりだったという。ひとたび炭素が形成されると、酸素やネオンやマグネシウム、そして、鉄に至るまでの元素は、たいした問題もなく生み出されるのだそうだ。

ホイルはさらに考えた。「ちょうどいいエネルギー状態の共鳴が炭素原子に存在しなかったなら、宇宙には炭素なぞほとんど存在しなかっただろうし、生命も存在しなかっただろう」と。「ゴルディロックス因子」は、ここにもあったわけである。

「弱い核力これも『八百長』か」 恒星の大爆発という現象において、弱い核力とニュートリノの微妙な関係が関わる。このとき、弱い力の大きさが、今のものと違っていたら、このような爆発は起こらなくなってしまい、恒星内部で作られた炭素などの、生命の基礎となる元素がばらまかれるメカニズムが生じなくなってしまう。

「初期宇宙における弱い核力」 ここでも、弱い核力の大きさが違っていたら、宇宙の化学元素の組成が大きく異なってしまい、生物が登場する可能性が低くなってしまう。

「ほかの力に見られる微調整」 重力と電磁力について、同じように、これらの強さが少しでも違えば、宇宙の様子が大きく変化することが説明されている。

「さらなる微調整の不思議」 ここでは、素粒子における質量比についても、語られている。

「宇宙最大の八百長」 ここではダークエネルギーについてのある数値が、飛びぬけて精度の大きな調整値であると述べられている。しかし、まだまだ仮想の「ダークエネルギー」について、このように論じられても、ピンとこない。ポール・デイヴィスは、かなり尖った塔の上にこもって、ときどき空を見上げ、この本を書いているようだ。

 

8章「多宇宙(マルチバース)は宇宙の謎を解決するのか?」

生命そのものの進化をダーウィンが説明したような、適応放散の結果として、幾つもの多様な宇宙がある中で、たまたま、私たちのような生命が誕生している宇宙があるのだという、「多宇宙(マルチバース)」について詳しく語られてゆく。

ここのところは、ポール・デイヴィスが「ハイ」になって書き込んだところのように思える。やがて、この「多宇宙(マルチバース)」の視点が、あまり満足するものではないということを、ポール・デイヴィスは主張するのであるが、そこへ至るまで、なかなか、普通では考えつかないようなことを、たっぷりと書いている。

ここのところの内容のようなものを、小説として読んだことがある。スタニスワフ・レムの小説「新しい宇宙創造説」だ。これは、仮想のノーベル物理学受賞者の受賞講演というスタイルをとっていたと思う。ここには、私たちが観測している宇宙そのものを作り上げた、先史宇宙文明の行動指針のことが述べられている。ポール・デイヴィスは、このような、SF小説の中の発想と、ほぼ同じようなことを書いている。レムが予想した未来が、さっそくやってきたかのようでもある。どこだったか、ポール・デイヴィスは、オラフ・ステープルドンの「スターメイカー」という小説のことにも触れている。ごくわずかな記述であったが、この小説を読んでいることを宣言しているわけである。そして、この小説の中で語られているようなことが、今では、ほんとうのことかもしれないという雰囲気も生み出している。この章においては、映画の「マトリックス」のことも取り上げられている。この映画のように、この「宇宙」が、どこかの巨大なコンピュータシスタムが作り出している、ヴァーチャルな世界なのだという考え方も、一つの学説として現れているのだそうだ。

この章の内容について、これまでのように、比較的詳しく解説しようすると、とても、図書館の返却期限を守ることができなくなる。「宇宙」が「多宇宙」になっているかどうかという問題は、まだ、証拠が集まっていないので、あまり論じることができない。ただし、文献などからの情報でなら、いくらか機論はできるが、ここまでの流れにそぐわないだろう。

 

9章「インテリジェント・デザインと、あまりインテリジェントでないデザイン」

この章の、各節につけられたタイトルを次に並べてみる。実に哲学的なものである。ここの部分は、この本の「山場」である。ここは、簡単に通ってゆけないようだ。

「時計職人説」「『隙間の神』復活す」「生物学においては、インテリジェント・デザインは魔術であって科学ではない」「設計された法則」対「多宇宙における人間原理的な選択」「宇宙の設計者は、時間の外側に存在していなければならない」「自然な神についての推測(突拍子もない推測も含む)」「必然的な存在としての神」「多宇宙を設計したのは誰なのか?」「唯一の最終理論があったとしたら、神は余計なものとなるだろう」「唯一無二の最終理論という概念は間違っていると証明されている」「何が存在し、何が存在しないかを決めるのは、誰、もしくは、何なのか?」「すべてが存在するなどということがありえるのだろうか?」「存在するものを存在しないものと区別する規則の期限」「象の塔」「多くの人が宇宙はばかげていると考えている」「宇宙に関する究極の説明は、単純でなければならない」

それでは、各節の内容をかんたんにまとめてゆこう。

「時計職人説」 時計が道に落ちていたのを拾ったとする。これを調べたとき、この装置が、何かの目的のために人間が作ったものであることはすぐに分かる。このような喩えを、「自然の仕組み」に適用する。さらに具体的には「生命体」を調べてみる。「生きた細胞」まで焦点をしぼってゆく。すると、細胞の中には、「精巧なナノテクノロジー製品」の道具にあふれていることが分かる。時計以上に複雑な装置である。このような「生命体」が、「時計職人」に対応する何らかの設計者によって生み出されたとするのが、「時計設計説」という言葉の意味。しかし、これほどまでに精巧な「生命体」の成り立ちについては、「時計職人説」に対抗する、べつの「仮説」がある。「ダーウィンの進化論」である。この理論を組み立てられた仮定は、「種の個体差」「性質が次世代に継承されること」「生存競争による選択」の三つ。もう一つの重要な要素として「時間」。

「『隙間の神』復活す」 ダーウィンの進化論では説明できないものとして、たとえば「人間の眼」があると考える立場の者がいる。これを手掛かりに、「パートタイムで生物学的修理を行う神」という考え方が現れた。「隙間の神」の別名である。しかし、「人間の眼」に至る進化のプロセスに関しては、「光感受性をもったパーツ」のようなものから、「人間の眼」へと進化する、各段階の変異があることが調べられるようになってきた。「隙間の神」がいるのかどうかということは、あいまいになっている。

「ハトホルの書」などの、公的な科学界では認められそうもない資料を調べると、私たち人間も、「神」と同じように、何もないところから、新しいものを生み出す能力を持っているということが述べられている。ただし、私たち人間のやることは、それなりの時間がかかる。また、道具や材料も限られてくるという。なるほど、思ってもみなかった自分に変化することや、思ってもみなかったものを生み出すことが、いつか実現することがある。「時間」の世界の中にいる私たちには、「未来」が存在していると考えるのは難しいが、それでも、その「未来」を変えることができると説明される。これまでと同じように、間違っているものを、そのままにしておかずに、それは間違っているのだから、正しいものを見出さなければならないと「行動」してゆくと、いつのまにか、何かが大きく変化していることがある。ひょっとすると、これまでの「未来」を変えたのかもしれない。私が、このようなホームページを立ち上げ、100年間も間違って信じ込まれてきたものを訂正し、新しい視野を手に入れようと、oz906から始まるゴブリンシリーズの画像解析プログラムを、まったく何もないところから生み出してきたのは、少しでも、この「未来」を変えたいと思ったからだ。私自身のささやかな「未来」を変えることにより、この「さざなみ」が、どこかへと広がってゆくかもしれないと想像して。

「生物学においては、インテリジェント・デザインは魔術であって科学ではない」 「隙間の神」を支持する側は、生物学において「インテリジェント・デザイン」が行われていると考えている。「隙間の神」と「インテリジェント・デザイン」は、同じ陣営のキャッチコピーのようだ。かつて、この陣営の「武器」は、「人間の眼」であったが、これの効果がなくなると、つぎに「バクテリアがもつ鞭毛」を持ち出してきた。これらに対立する側は、「ダーウィンの進化論」である。ポール・デイヴィスは、インテリジェント・デザイン陣営の問題点を指摘している。また、進化論陣営の強化として、「自己組織化」という、最近現れた科学の分野を補っている。これは、非生物系の物理や化学の現象において、進化のメカニズムや隙間の神の関与によらず、自然と、複雑なパターンや複雑な組織構造を生み出すことがあるというものである。このことから「ダーウィン的進化とは異なる進化」の現象が、色々なところで生じていると説明している。

私は、この「自己組織化(SOM)」に関する、より使いやすい解析プログラムを生み出している。何年か前知った、この分野の解析プログラムの原型は、解析領域の境界付近で、うまく作用しなくて、そのため、何千回と計算を繰り返す必要があった。そこで私は、上下の境界や左右の境界を接続して、ほぼ無境界の領域で計算できるプログラムを作った。これなら、計算は1回で済む。当時のプログラムはF-BASICで作っていたので、現在、それをTurbo Cで構成し直している。すると、F-BASICのときには無かったバグがあちこちに現れて、なかなかうまく動かなくなってしまった。

「設計された法則」対「多宇宙における人間原理的な選択」 「生物学」における「インテリジェント・デザイン陣営」と「ダーウィン進化論陣営」との論争を、「天文学と宇宙論」においてのものに拡張している。ここで、ポール・デイヴィスは、「個体差、遺伝、そして選択からなるダーウィンの進化メカニズムは、宇宙論には簡単には適用できない」、なぜなら、宇宙には「生存競争なぞ存在しない」し、「資源を巡る競争」や「宇宙どうしの『食うか食われるかの争い』」も存在しないと述べている。

私は、ここのところの判断は誤っていると思う。「宇宙」では広すぎるが、「銀河」や「恒星」や「星雲」などのレベルで、何らかの「資源を巡る競争」や「食うか食われるかの争い」が存在しないと判断することができるほど、私たちや、私たちの文明の、観察と記憶に使える時間は長くないからである。

私は、ハッブル宇宙天文台による、星の集団の画像を調べていて、ある星から、捕獲網のような構造がのびて、となりの星の一部に引っ掛かっているものがあることに気づいた。星と星は、こんなに近くに位置しているのかということと、これらの星が、何らかの行動に出ているところかもしれないということを、これを見て考えた。これらの星域には、赤い星と青い星がある。それらは、まるで、森林のなかの、針葉樹と広葉樹のように、せまい空間で、みずからの勢力範囲を広げようとしているところであると考えて、何がおかしいのだろうか。あるいは、赤い星と青い星は、それなりの遺伝情報をもっていて、捕獲網のような構造は、バマテリアが核を交換するように、一部の物質を交換するなどして、別のタイプの星へと変化しようとしているところかもしれない。もし、何億年か何十億年、それらの星の変化を観察し続けることができれば、これらの疑問の答えを見出すことができるのだが。

かくして、星たちが、実は生きていて、私たちが知っている「生物」と、同格でありつつ、はるかに巨大なものであるとしたら、ポール・デイヴィスの議論は、まったく無意味なものになってしまう。このことは、まだ判断できない。「星」も生きているかもしれないし、「宇宙」も、ある種の「生物」なのかもしれない。また、「生物」は、この物理的な3次元の空間だけに存在しているのではないのかもしれない。これらのことも、まだ、きっぱりとは判断できない。それなのに、この惑星の公的な科学者たちは、「思考」に対して、自分勝手な制限を設けており、それが「科学」であり、それだけが正しいと主張している。私は、ある情報が、「科学」から出たものか「宗教」から出たものかということで区別して、それなりの重みづけをしてから考察するのでは、ほんとうのことは分からないのではないかと考える。あるいは、「SF小説」や「おとぎ話」の中のアイディアについても、検討の余地があると考えておくべきだと思っている。なぜかというと、本当のことを、何らかのシステムで感じ取って、それを表現している可能性もあるからだ。かくして、ポール・デイヴィスも読んでいる、オラフ・ステープルドンの「スターメイカー」は、「宇宙」を研究するときの重要な資料となる。これらの内容がすべて正しいと判断するわけではない。このような視点もあると考え、その可能性も検討すべきなのである。

「宇宙の設計者は、時間の外側に存在していなければならない」 ここでのテーマは、ずばり「神」である。ポール・デイヴィスは、「空間」や「物質」と「時間」が、「物理的な宇宙の一部」であるとし、「時間を超越した設計者」の存在について、宗教側の考えと言い争っている。ここには確かに難問があるが、「時間」というものを、ポール・デイヴィス側の科学者陣営も、宗教側の陣営も、よく理解していないので、この問題をすっきりと議論することができない。もちろん私も「時間」のことは、よく分からない。お手上げである。

「自然な神についての推測(突拍子もない推測も含む)」 ここに「スターメイカー」の記述がある。ここには、SF小説にも使えそうな、さまざまなエピソードが書かれている。なかなか興味深い。要約してみよう。創造者の創造者という難問を回避する方法として、次のようなものをあげている。「エドワード・ハリソン説」「デミウルゴス説」「ホイル説」「アンドレイ・リンデ説」「ハインツ・パージェル説」「ジェームズ・ガードナー説」。小説「スターメイカー」は、「ホイル説」と同格だとされている。

「エドワード・ハリソン説」 ①たくさんのランダム宇宙において、いくつかのポケット宇宙で、まったく偶然に生物と知性が生じた。②これらの一つの宇宙が、高度な知性を発達させて、宇宙創造メカニズムをコントロールすることができるようになり、思いどおりのポケット宇宙をつくることができるようになる。③このようにして生まれたベビー宇宙が、生物と観察者にとって最適なように作られた。

「デミウルゴス説」 限定された能力をもち、この世界を創造したとされる神「デミウルゴス」を想定する説。プラトンによる定義。

ここで私のコメント。「エドワード・ハリソン説(1995)」は、スタニスワフ・レムの小説「新しい宇宙創造説(1971)」の内容と、まったく同じである。明らかにプラトンの「デミウルゴス説」のほうが古いので、レムのアイディアも、ここに由来しているのかもしれないが、エドワード・ハリソンは、レムとプラトンのうち、どちらの考えをコピーしたのだろうか。「新しい宇宙創造説」の刊行年を調べようとして「スタニスワフ・レム 新しい宇宙創造説」をキーワードにしてウェブで調べてみたら、私のホームページの一つがランキングのトップであった。これでは分からない。ずうっと下の方にある「完全な真空」のウィキペディアを開いて、ようやく確認できた。自ら邪魔をして、申し訳ありません。

「ホイル説」 フレッド・ホイルは「物理法則をわざといじくった『超知性体』」について言及している。ホイルの疑問として、「神が宇宙を自由に創ったとして、その宇宙が独立しているとすれば、神はなぜ、そのようなことをしたのか」というものがある。そこで、さらに条件を加え、「神が『宇宙から得られる支援によってのみ』存在するのなら、神は、この宇宙を創る理由がある」と考えた。これが「ホイル説」のようだ。つまり、「神は宇宙を超越しているのではなく、宇宙の中に存在している」ということになる。あるいは「宇宙そのものが神である」と。この考えは、最近の宗教関連の情報として、たびたび現れる。科学的な説なのか、宗教的な説なのか、はっきりと分類できない。

「アンドレイ・リンデ説」 生物に好適な宇宙を生み出した超文明についての説。あまりユニークな、新しい視点のものではない。

「ハインツ・パージェル説」 あまりに生物にとって好適な宇宙というものは、この宇宙を創造した「デミウルゴス」あるいは「知性をもった異星人」からの、隠されたメッセージであるという説。

「ジェームズ・ガードナー説」 宇宙は自己組織化し、自己複製するシステムであり、その中で生物と知性が現れ、次の新しい生物と知性のための宇宙を創るものであるという説。これも、あまりユニークな、新しい視点のものではない。

ポール・デイヴィスは、多くの科学者が「デミウルゴス説」を支持しているということを強化するため、知りうる限りの情報を集めてきたようだ。

 

「必然的な存在としての神」 デミウルゴス説では、究極の説明にならない。デミウルゴスという神を生み出す、もっと先祖の神が必要となる。そのような「神は必然的な存在である」と考えて、それより先のことを考えないことにするというもの。ポール・デイヴィスは、ここでは、すっかり意気消沈している。この問題には、手を加える余地がないようだ。

 

「多宇宙を設計したのは誰なのか?」 多宇宙のアイディアは、一つだけの宇宙の創生についての問題を、多宇宙のレベルへと移しただけで、今度は、「多宇宙を設計したのは誰なのか?」という問題が生じるということ。ここの考察も、あまり、すっきりとしたものではなく、何の解決策もない。

 

「唯一の最終理論があったとしたら、神は余計なものとなるだろう」 ここでは「唯一の最終的な万物理論」すなわち「宇宙はひとつしか存在しないとする理論」のことに触れている。「自由なパラメータを一切含まない理論」とも表現されている。もし、このようなものが見つかったとしたら、「神は何も選択することができない」ので、存在する必要がないとしている。ここの議論も、多くの仮定に満ちた、空想物語である。ポール・デイヴィスの意識は、どこかに浮かんでいるようだ。

 

「唯一無二の最終理論という概念は間違っていると証明されている」 ここの論法は難しいが、要約すると、次のようになるだろう。「唯一無二の最終理論」というものがあったとしても、数多くある「可能な理論群」の中で、どうして、「唯一無二の最終理論」が「選ばれしもの」になったのかという謎が残る。すると、このことが、やはり、「ゴルディロックス因子」となり、生物と心が存在する宇宙の成り立ちを説明することができない。

 

「何が存在し、何が存在しないかを決めるのは、誰、もしくは、何なのか?」 ポール・デイヴィスは、「この議論全体の核心」として、「何が存在するのかを決めるのは何なのか?」という問題を提示している。おそらく「神」という答えがあることを知りつつ、このように書いている。ここの議論も、仮定が多すぎて、あまり実のあるものではない。

ここの説明で、ポール・デイヴィスは、次のような疑問をだしている。「どうして宇宙は、たとえば、ぷるぷるした緑色のゼリーや、絡んだ鎖や、肉体から分離した思考など……..で満たされていないのだろう?」 ここの部分には、ドキリとさせられてしまう。やはり、現代の公的機関に所属している科学者の思考は、伝統的な習慣によって制限されていると思えてしまう。ポール・デイヴィスは、なぜ、この疑問の文末を否定してしまうのだろうか。「ほんとうの宇宙」の姿を、私たちは、どこまで知っているというのだろう。とくに、最後の「肉体から分離した思考」で満たされた、私たちの肉眼で見ることのできない「宇宙」というものが在るのか無いのかという問題は、まだ明らかになっていないはずである。科学的に明らかになっていないものを、すべて否定してしまうというのは、あまり論理的な思考ではない。ここで考えている「肉体から分離した思考で満たされた宇宙」というものを想定しないと、エマヌエル・スウェーデンボルグEmanuel Swedenborg)が幽体離脱をして、水星の霊とも会ってきたというエピソードを解釈することができない。NASAによる水星の観測画像を調べると、まるで「田園都市」としか思えないような、人工的な建築物が多く見られる領域が現れた。水星には、何らかの知性による文明が存在しているのだ。このことを確認するまで、スウェーデンボルグのエピソードの中で、「水星の霊」というところが、大きな問題になっていたのである。スウェーデンボルグが幽体離脱をして見てきたことは、ほんとうのことだったのかもしれない。もちろん、これは、信じるか信じないかというレベルでの判断である。

 

「すべてが存在するなどということがありえるのだろうか?」 ここのエピソードは、「マックス・テグマークの「何でもあり」の多宇宙」である。現在の宇宙が、かなり数学的であるということから、マックス・テグマークは、色々な数学的な構造を考えて、「どの数学的構造も、ひとつの並行宇宙に対応する」と考えた。SF小説の観点からは、なかなか、見事なアイディアである。「時間が離散的に進む宇宙」「空っぽの十二面体の宇宙」「フラクタル次元の宇宙」「離散する点の集合から成る宇宙」などなど、空想は果てない。

 

「存在するものを存在しないものと区別する規則の期限」 ここでは、A「観測可能なもの」、B「存在するすべてのもの」、C「存在する可能性はあるが、実際には存在しないもの」という、ABCの三つについて、集合でのベン図を用いて、議論を進めている。ABに含まれている。BCは並列である。このような図をつかって、「宇宙はたったひとつ」のときと、「テグマークの「何でもあり」の宇宙」についての違いを論じている。

 

「象の塔」 地球は一頭の巨大な象の背に乗っており、その象は、一匹の巨大な亀の背に乗っているというイメージに関するエピソードが語られる。そのエピソードのオチで、亀が乗っているのは、無限に連続した亀の背中だということになる。ここで、ポール・デイヴィスは、幾何学の公理と定理の関係から、この無限の亀の列を、あるところで切って、一番下に、幾何学の公理に相当する立場の、スーパー・タートルがいるというイメージへと変える。このあと、この「スーパー・タートル」という用語が、新しく意味をもって用いられる。「スーパー・タートル」は「最終理論」を象徴しているようだ。

 

「多くの人が宇宙はばかげていると考えている」 ここのタイトルはピンとこない。科学的な説明の裏付けとなるものを、順次たどってゆくことは、象と亀の塔を下へと降りてゆくことに対応する。すると、いつかはスーパー・タートルにたどり着く。そのスーパー・タートルが宙に浮かんでいる理由については、もう問うことができない。公理であり、最終理論であるからだ。すると、「宇宙の数学的秩序そのものである、科学的合理性という堂々たる体系全体」も、究極の基盤はスーパー・タートルなので、「不合理の上に成り立っていた」ということになってしまう。多宇宙のスーパー・タートルも、何の理由もなしに空中浮揚しているので、究極の基盤は不合理である。「一神教の神学者たちにとっては、神がスーパー・タートルの役目を演じる」とも表現している。なるほど、このタイトルは、「宇宙」についての、どのような考え方でも、一番下には「ばかげたスーパー・タートル」があるということを象徴しているようだ。

 

「宇宙に関する究極の説明は、単純でなければならない」 ①「最終統一理論」②「多宇宙」③「一神教」という三つの立場について、いずれも、最下段にスーパー・タートルがいて、それを頭から信じ込むしかないということになった。それでは、これらの三つから、どのような基準で一つを選べばよいのか。ここで「単純なものを優先させよ」という規範を持ち出している。マーティン・ガードナーとリチャード・スウィンバーンは、この規範に基づいて、③の「神」を選ぶとしている。これに対して、リチャード・ドーキンスは、「『全能の神』というもの以上に複雑なものなど考えられない!」と断じて、③を排除している。一神教の神が「無限の精神」とも考えられることと対比して、「無限の多宇宙」のほうも、同じように複雑であるとして、②も排除されることになる。しかし、①にしたところで、結論の単純さへとつながってゆく数学の理論のところで、とびきりの複雑さが潜むこともある。どうやら、この規範も、単純には適用できないようである。

ポール・デイヴィスは、宇宙の生物適合性を説明するための、手掛かりとして、次の視点を提案する。それは、「生物と心が、存在の謎に対して、より積極的な役割を果たす」という立場である。このような記述で、第9章は終わっている。

(2009_12_03)

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