RaN11 ポール・デイヴィス「幸運な宇宙」 第10章について
黒月樹人のランダムノート (Random Note by Kinohito KULOTSUKI)

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10章「どうして存在するのか?」

とうとう最終章へとたどりついた。ここに、どのような結論があるのだろうか。ここまで来たら、ここを読み進めなければ終われない。各節のタイトルリストは以下のとおり。

「生物は宇宙の諸法則のなかに書き記されているのだろうか?」「生物について真剣に考える」「心について真剣に考える」「目的論に対処する」「プラトン主義を放棄すれば目的論のための余地が生じる」「有限のコンピュータとしての宇宙は、理想化された法則の虚構を暴露する」「ひとつのものとして出現する数学と物理学」「量子力学は、精妙な形の目的論を容認しうる」「宇宙と心は、遠い遠い未来にひとつになる」「時間のなかのループ」「自らを説明する宇宙?」「存在は説明されたのか? 未解決の問題」

 

「生物は宇宙の諸法則のなかに書き記されているのだろうか?」 「宇宙」に対する「生物」の関係をほぼ3パターンに分類している。@「ホーキング説」A「弱い人間原理」B「強い人間原理」。@「ホーキング説」とは、「生物は偶然生じた装飾のようなもので、特別な意味を持たない」とするもの。A「弱い人間原理」では、「生物と心を自然の中の特別な地位に押し上げる」もの。B「強い人間原理」では、「宇宙」と「生物」は、もっと強く結び付いており、「宇宙は、その発展のどこかの段階で観察者を必ず生み出さなければならない」とするもの。

 

「生物について真剣に考える」 科学において「基本的なもの」という言葉を、まず定義している。「基本的」とは、「自然の核心にあり、物理的宇宙の理解が、大きく依存している」ということである。雨雲や岩より、電子やクォークのほうが「基本的」である。また、「真に基本的」とは、「それよりもっと基本的なものによって記述できない」ものにつけられる。かつて、「電子」は「真に基本的なもの」であったが、今日では「弦」が「真に基本的なもの」となっている。

「生物は基本的なものなのか」という問題がある。これに対して、ポール・デイヴィスは、次のように説明している。

「二百年ほど前は、多くの科学者が生命を基本的な現象と見なしていた。」なぜなら、当時は、生物には「何らかの生命的な力」もしくは「生命のエッセンス」があったとされており、この要素が「真に基本的なもの」と信じられていたからである。「今日では、生命的な力などというものは存在しないことが明らかになっている。生物は言わば機械であり、生物が持つ驚異的な性質は、そのとほうもない複雑さから生じているのだ。」

ここの記述の判断が正しいのか間違っているのかという点だけで、この本の意味が大きく変化する。ポール・デイヴィスの考え方は、もちろん、地球上での公的機関で職を得ている者の、代表的なものであろう。しかし、どのような理由によって「明らかになっている」というのだろうか。地球人よりも、高度な知性を持っていると思われるハトホルたちは、肉体よりも軽くて、精妙な体を、地球人も有していると述べている。その一つは「カー体」と呼ばれている。古代エジプトにおいては、これらのことも知られていたらしい。また、チベットなどの僧侶たちにも、このような知識の体系が伝えられているようだ。これらの体系の中で、「魂」とも呼ばれている体まで判別するのは難しいが、「カー体」の証拠のようなものなら、画像を解析して識別できるかもしれない。「カー体」は、「オーラ」とか「バイオプラズマ」と呼ばれているものに対応するのかもしれない。これらが見える人もいるようだが、私をふくめ一般の人には見えない。微妙な色差のものであるようだ。しかし、デジタル画像には写っていて、それを巧みに画像解析すれば、これらも見ることができるかもしれない。私は、このように考えて、何枚かの、「カー体」らしいものを見出している。手の周囲などに、かすかに現れることがあるし、人の頭に角のように出現することもある。人や動物だけでなく、植物を撮影すると、実体の周囲に、ぼんやりとしたものがあることが分かる。水蒸気の層だろうか。そんなものは、たちまち拡散してしまうはずだ。これらは、強い光のもとでは識別できない。やや暗い、夕暮れあたりの光の状態で撮影すると、うまく見出せることがある。このような光のときは、見たことがないものが写っていることもある。私たちの周囲の空間には、均一に散らばった空気の分子だけではなく、物質としては取り扱えないものが、ぎっしりと漂っている。それらは、赤と緑と青の隙間だらけの幕のようにも見える。生命体の「オーラ」だけが特別なものであると考えるのは、精妙な世界における「人間原理」なのだろう。ひょっとすると、私たちは、精妙な生物がぎっしり泳いでいる海のようなところに沈んでいる、比較的重くて汚れた、濃い目の生物なのかもしれない。

「生物について真剣に考える」の節で、ポール・デイヴィスは、さらに自説を展開している。これについて要約しておこう。生物には目立った性質が三つある。@「ダーウィン的進化の産物」A「自律性」B「情報処理能力」。このあと、デイヴィド・ドイッチュの考えが詳しく説明される。ドイッチュは「知識」を「質量」や「電荷」と並ぶ基本的な物理量とみなし「生物の目的は、知識を物理的な形に表現することだ」と述べている。

このような、変換ステーションのような機能を生物が持っているとしたら、宇宙の中での生物の地位も、かなり高いものと考えられる。このあたりからは、私の意見。身近な例でいうと、「地球」は、この上に存在する「微生物から始まる生物」の活動によって、ともに変化してきた。大気の成分や地表の様子、そして、気候などは、生物がいたのといなかったのとでは、大きく異なっていたはずである。「宇宙」に眼を向けると、オリオン座に馬頭星雲があるが、ここに巨大なエイリアン像が見つかっている。この画像は、やがてNASAによって加工され、エイリアン画像のピクセル位置が入れ替えられて、姿を確認できないものになっている。しかし、それ以前の画像が保存されているサイトがあって、それに基づいて調べてみると、ほとんど骨格標本のようになった生物を確認することができる。この馬頭星雲は、全体的に顔の長い頭がついていて、手前に、爪をもった手があるような、かなり動物的な形になっている。しかし、頭の部分や手の部分は未完成のようにも見える。この手にある爪の部分を調べてみると、骨格標本となっていたエイリアンの頭蓋骨のようなパターンが見えてくる。かつて、地球上でも、シベリアでは、狩猟したマンモスの牙を柱のように使って家を造っていた。木造住宅の材料である木も、実は植物という生物を乾燥させたものである。「宇宙」にあるものが、無機質な元素の集まりや、それらのガス体であるという視点は、ひょっとすると、「宇宙知らず」の「地球人原理」に基づくものであるのかもしれない。「宇宙」には、私たちが想像している以上に、「生物」がしみわたっていて、あふれかえっていて、多くの現象をコントロールしているのかもしれない。

 

「心について真剣に考える」 この問題は難しい。ポール・デイヴィスも扱いかねているように見える。物理学者だけでなく、心理学者でも、かなり難しいのではないだろうか。何か対象物があって、人がそれを認識したという「意識」を、物理的な手法で、脳のどの部分が強く反応しているかという関係を調べることができる。哲学者たちは、これを「イージー・プロブレム(簡単な問題)」と呼ぶそうだ。もっと人の意識の中へと向かって、対象物が赤いと感じることと、青いと感じることの違いを問題にするとしよう。このような「意識される感覚そのもの」は「クオリア」と呼ばれる。この「クオリアを説明する」ことのほうを「ハード・プロブレム(難しい問題)」と呼ぶそうだ。こちらの解決策は、まだ現れていないらしい。

ポール・デイヴィスは、これらの問題に立ち入らないで、視点をまったく変えてしまう。「心が宇宙の特徴として考えなければならない」とポール・デイヴィスが考える理由を「さらに二つ挙げるにとどめたい」としている。@「科学的な理由」A「哲学的な理由」。

@「科学的な理由」は、量子力学の分野で、人間の測定や観測という「意識」の影響が、素粒子や電子などの振る舞いに及ぶということに結びついている。この問題は、かなり古くからしられており、物理学者を悩ませてきた。

A「哲学的な理由」のほうの論点は、どうも、はっきりしていない。いろいろ読み込んで考えてみたが、何が「哲学的」であるのかも、よく分からない。おそらく、「宇宙はある意味、自意識を自ら作り上げたのだ」とポール・デイヴィスが断定しているあたりの表現が、のちのちの論点に影響しているようだ。

このあと、「生物が化学物質の滓」なのか、「生物は宇宙の必然」なのかを、はっきりさせるための方法を二つ提案している。A「地球の生命とは独立した、他の宇宙での生命を見つけること」B「地球上の生物は、二回以上発生したという証拠を探すこと」。

NASAAについての証拠を、かなり数多く隠しているはずである。漏れ出ている画像を精密に調べるだけでも、幾つかの証拠を見つけることができる。もちろん、いずれも画像からの推定なので間接的なものである。木星や土星の衛星や、水星の、より高精度の探査画像がNASAの外へ流れてくれば、もっと色々なことが明らかになる。近くでは、月でもよい。こちらは、地表からの観測でも、かなりのことが分かるはずである。ただし、これらの外宇宙が、私たちが予想している、単なる真空の宇宙であって、物理的な物質が見当たらないからといって、何もないと判断していては、見えるものも見えなくなってしまうことだろう。空間に対する認識を、もう一度整理しなおすため、何か観測できることを手掛かりとして、詳しく調べ直す必要があると、私は考える。

 

「目的論(テレオロジー)に対処する」 生物と宇宙の関係が、強く結びついているものだとすると、これまでの科学で排除されてきた「目的論」が復活することになる。これは、かなり嫌われることである。

ニュートンの時代以来、物理学においては、「目的論」の影は消えてしまった。

ダーウィンの進化論によって、生物学においても、「目的論」は撲滅された。

しかし、「強い人間原理」や「生物は宇宙の必然」という視点は、「目的論」を抱え込んでしまう。

 

「プラトン主義を放棄すれば目的論のための余地が生じる」 「プラトン主義」というのは、物理法則などが、これを適用する実際の宇宙とは、まったく別の、抽象的で理想的な世界に属していて、そこから指令を出しているという関係を表現したものである。その抽象的な世界に属する物理法則は、やはり、そこに属する数学の法則などととともに、実数を道具として生み出した指令を出すという。ところが、適用される側の宇宙のほうは、大きなサイズの銀河から小さなサイズの量子まで、ほとんど離散的なものである。すると、抽象的な空間の物理法則は、現実の宇宙を正しく表現しているわけではなく、それらの近似的な状態を示しているにすぎない。このような視点に基づいて、物理法則というものを、抽象的な理想世界から引っ越させて、あいまいで漠然とした現実宇宙の変化とともに、徐々に出来上がってゆくものと見なせば、「生物」と「宇宙」が強く結びついているような世界を説明する法則となるのではないか。おおよそ、このような論法のようだ。そして、このような視点を支持する研究者たちのコメントなどが、たんまりと飾られている。

 

「有限のコンピュータとしての宇宙は、理想化された法則の虚構を暴露する」 ここのタイトルは直訳そのままである。文章の内容はかなり難しいが、あらすじは次のようなことである。観測できる宇宙の情報に法則を適用して、いろいろと計算できる、超巨大なコンピュータがあったとする。ポール・デイヴィスは、このコンピュータが扱える情報量を推定しているが、あまりに巨大な数であるが、観測できる宇宙が有限であるということから、これも有限の値となる。このときのコンピュータは、有限とはいえ、多くの情報を処理する、ち密で精巧な法則を組み込んでいる。ところで、宇宙のビックバンが起こった時、有限な宇宙は、もっともっと小さかったので、その領域に含まれている情報量も、それに応じて少ない。このとき、ち密で精巧な法則があったとしても、これに入力する情報量が無いのだから、計算して何かの結果を生み出すことができない。だから、宇宙の初期では、少ない情報量に見合った、もっとおおざっぱな法則でなければ、うまく機能しなかったはずである。この物語が、この節のタイトルの意味となる。まるで、おとぎ話である。

 

「ひとつのものとして出現する数学と物理学」 「宇宙」と「物理法則」が連携して複雑に変化してゆくという物語で満足してはいられない。なぜかというと、大部分の「物理法則」のベースには「数学」があるからである。「物理法則」がプラトン的な抽象的で理想的な空間から飛び出したとしても、「数学」は居残ったままである。このとき、「宇宙」と「物理法則」は、ともに変化してゆくことができない。このような問題は、「数学」が完全なものとして、はじめからプラトン的な抽象的で理想的な空間にあって、それを「発見する」ということになっているのか、それとも、知的な生物により「発明されて」ゆくものとなっているのかということで、見方が変わってくる。このような物語が難しく述べられているようである。ますます、おとぎ話のようになってくる。

 

「量子力学は、精妙な形の目的論を容認しうる」 ここでは「後戻り因果関係」を示唆する物理法則のことが述べられる。「後戻り因果関係」とは、「未来の出来事が、過去の出来事に対して、その原因となる力を持つような関係」と説明されている。SF小説の中に登場しそうな文章であるが、物理学の分野では、実験的にも検証されたことだという。

ただし、何もかもが、このような関係にあるのではなく、今のところ、光が粒子として現れるか、それとも波として現れるかということに関して、観測者の心が影響するときという、ごくごく限定された状況でのことである。この節では、このような実験のことが詳しく説明されている。光が波としてふるまうか粒子としてふるまうかという問題にかかわって、このように不思議なことが起こるのは、ひょっとすると、光という量子を含めた、素粒子全般についての理解が、まだ不十分なことによるのかもしれない。「電子」を「弦」で説明するというが、この描写体系も、まだ完成していないようであるし、「光」という、最も基本的な粒子についての、筋道の通った説明が不十分な状態で、これらの不思議な現象を、宇宙のすべての物語にまで広げてしまうのは危険なことではないだろうか。

ポール・デイヴィスは、光についての「後戻り因果関係」の現象を、宇宙遠方のクエーサーからの光が、途中にある銀河の重力レンズ効果によって、経路を変えて地球に届くという状況に適用し、この「後戻り因果関係」の時間を何億年のレベルまで広げている。これも、飛躍しすぎのように思える。私が、ハッブル宇宙天文台が撮影した重力レンズによる天体画像を、ゴブリンアイの機能を使って画像解析したところ、遠方からの像だと言われている部分は、レンズの機能をしている天体と、さほど変わらない位置にあるということが分かってきた。それらの近くや背景には、ぎっしりと、壁のようになっている「ダークマター」の群れが存在していたからである。宇宙は、地球の科学者たちが信じ込んでいるほど透明なのではないようだ。これらの「ダークマター」が、質量的に、光るものの何倍もの量で存在しているはずだということは、かなり受け入れられているようだが、こんなに重要なものの存在を、アインシュタインリングだとか、重力レンズのときには、あっさりと忘れてしまっている。

これらの「ダークマター」が、宇宙全体の22%の質量で、これまで観測されている、光で見える天体の質量が4%で、のこりの74%は、まったく見えない「ダークエネルギー」の何かであると見積もられている。「ビックバン」の根拠となっている、遠い銀河のほうが、赤方偏移が大きいという現象は、これらの「ダークマター」や「ダークエネルギー」が満ちている宇宙空間の「闇」に見える部分を、光が通ってくる間に受けた影響によるのではないだろうか。夕日が赤く見える現象を、太陽が遠くへ向かっていると考えないのは、間に大気があるという認識があるからである。これまで何もない「真空」だと信じ込まれていた宇宙の「闇」にも、宇宙全体の96%の「ダークマター」と「ダークエネルギーの何か」があるわけだ。地球の質量に対する、地球大気の質量の比より、はるかに大きな値である。このようなものを無視するわけにはいかない。ここのところは重要である。「重力レンズ」の現象が空論であるだけではなく、「ビッグバン仮説」も空論である可能性が出てきた。「インフレーション理論」は、「ビッグバン仮説」が無意味だったら、何の意味もない。この地球における「宇宙論」は、エドウィン・ハッブルが観測した1929年まで戻って、あらゆることを検討しなおさなければならないことになる。「アインシュタインの特殊相対性理論」の1905年についても、ここまで戻って、ここに記されている「ローレンツ変換」がまったくの空論であったことの「理論構築のやり直し」をやらなければならない。おそらく、ポール・デイヴィスの、この本に書かれていることについても、チーズの穴のように、あちこちに無意味な議論が含まれていることだろう。この本の中にも述べられていることだが、色々な仮説があって選択にこまっているとき、「単純なものを優先させよ」という規範を持ち出すことがよいとされている。1929年のハッブルの観測結果を解釈するとき、「宇宙の闇には何もない」と考えるのではなく、「宇宙の闇の中にも、地球大気のように、目には見えなくとも、光を散乱させたり吸収させたりする、何らかの成分がある」と考えれば、もっと「単純に」解釈できたのではないだろうか。そして、そのような「何らかの成分」は、現在、光っているものを4%として、96%分もの質量比で、宇宙の闇に存在していると理解されている。しかも、その中の22%分に相当する「ダークマター」の一部については、ハッブル宇宙天文台による観測画像を、私が開発したゴブリンシリーズのゴブリンアイ機能を使えば見えてくる。「ダークマター」の候補をMACHOだとかWIMPだとかの、かなり特殊なものに限定する必要はない。幾つか「ダークマター」を観察したところ、それはおそらく、強く光り出す前の星のようなものと考えられる。広場の芝生かコケのような分布状態の「ダークマター」から、花を咲かす草や木が伸びてゆくように、「ダークマター」が集まって、やがて、強く光り出す、いろいろな中間段階の画像が得られている。「宇宙の暗闇」は「ダークマターの海」もしくは「ダークマターの草原」のようなものである。「海の中のタコやクジラ」あるいは「草原の中のバオバブの木」などが、これまで観測されてきた「星」や「星雲」や「銀河」だった。とても「単純なこと」である。

1929年のハッブルの観測結果というのは、星や銀河から来る光のスペクトルが赤い方へと偏って移動するということだ。これを、光の発信源が遠方へと遠ざかるときのドップラー現象と考えて「ビックバン理論」が生まれた。この観測結果を、星間物質による散乱や吸収によると解釈することは、はたして可能なのだろうか。ウィキペディアの「ビックバン」のサイトには、次のような記述がある。

 

遠方の銀河とクエーサーの観測から、これらの天体が赤方偏移していることが分かっている。これは、これらの天体から出た光がより長い波長へとずれていることを意味する。この赤方偏移は、これらの天体のスペクトルをとって、それらの天体に含まれる原子が光と相互作用して生じる輝線や吸収線の分光パターンを実験室で測定したスペクトルと比較することで分かる。この分析から、光のドップラーシフトに対応した値の赤方偏移が測定され、これは後退速度として説明される。

 

「輝線」や「吸収線」の配置における間隔が変化しているのだろうか。それは「光源の運動」だけに由来することで、「星間物質による吸収や散乱」とは無関係なのだろうか。少し調べてみたところ、「輝線」や「吸収線」の配置の間隔は変化せず、全体的に波長の長いほうへと平行移動するようだ。

「赤方偏移」の項目に関連して「重力赤方偏移」という現象があるそうだ。ここでは、強い重力場から出るときの光が、エネルギーを失って、赤色偏移を起こすとされている。光は、エネルギーを失ったとき、「輝線」や「吸収線」の位置情報を保ったまま、全体として、波長の長いほうへと移るのだろうか。

それなら、出発点だけでなく、宇宙空間の「ダークマター」や「ダークエネルギー」の影響で、それらの近くを通る光がエネルギーを失って、「重力赤方偏移」と同じように、普通の赤方偏移を起こすということは無いのだろうか。もし、このことが成立するのなら、「ビックバン仮説」は否定されるだろう。

これらの疑問に答える簡単な方法がある。それは、日中の太陽の光と、夕日の太陽の光における、「輝線」や「吸収線」の位置を調べることである。ここに書いたコメントが空論になるのは、「輝線」や「吸収線」の位置は変化せずに、青や緑のあたりが弱くなっているというものである。コメントが生きてくるのは、「輝線」や「吸収線」の位置も平行移動して、波長の長い方へとずれるというものである。

しかし、宇宙空間にあるものと、地球の大気とが、まったく同じ対応をするものだと考える必要は無いかもしれない。これらの対応は「喩え」である。宇宙空間の「ダークマター」や「ダークエネルギー」が、これらを、もしくは、これらの近くを通ってゆく光に、何らかの「負荷」を及ぼし、光のエネルギーを奪って、「重力赤方偏移」という現象と同じ効果を及ぼし、「観測された赤方偏移」を生み出すというシナリオが存在するかもしれない。このシナリオが、わずかでも作用していたとしたら、遠方の銀河から出た光の方が、より長い距離で、このシナリオの影響を受けるのだから、観測された現象をうまく説明することになるだろう。

ここのところ、C言語でプログラムを組みたてることに追われて、このような問題へとエネルギーや時間を注げなくなっている。また、ゆきがかり上、このページをまとめてしまわなければならない。あとわずかなので、この「読書感想文」のまとめへと進もう。

 

「宇宙と心は、遠い遠い未来にひとつになる」 ここでポール・デイヴィスは、次のように書いている。

「多くの科学者たちが、時間軸が無限に伸びていくにつれて、今出現しつつある、厖大な領域に広がった知性体は、ますます神に似たものとなっていき、したがって、最終段階においては、この超心は宇宙と一体化するだろうと考えている。」

このイメージは、「ハトホル(HATHOL)」や「セス(SETH)」や「アフ(AF)」ら、私たちのような、物質としての生物の段階を終えたとされる存在たちが説明しているものと、とてもよく似ている。

 

「時間のなかのループ」 ここでもポール・デイヴィスは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などのSFを取り上げ、このような作品に現れる「因果関係ループ」のことについて触れている。これらの具体的な現象にとらわれるのではなく、ポール・デイヴィスは、「存在の理由」までをふくめた「因果関係のループ」についての疑問へと、このテーマを発展させている。

 

「自らを説明する宇宙?」 ここでポール・デイヴィスは、次のような記述を加えている。ここの論点もばくぜんとしていて、主要な流れは、よく分からない。

「私たちの宇宙は、自己シミュレーションのみならず、自己理解をも可能にするような法則と状態を持っているのだ。」

 

「存在は説明されたのか? 未解決の問題」 ここの部分は、ポール・デイヴィスによる、これまでの、この本の内容の、おおざっぱな「まとめ」となっている。特別に真新しい問題は議論されていないように思える。

 

「あとがき 究極の説明」

これは第10章を終えたあとにある。あまりに論旨が広がりすぎたので、上記の「…. 未解決の問題」のところの「まとめ」では納得できないと考えたのだろう。いろろな考え方をまとめて、A「ばかげた宇宙」B「唯一の宇宙」C「多宇宙」D「インテリジェント・デザイン」E「生命原理」F「自己説明する宇宙」G「偽宇宙」H「上記以外の説」と分類している。

 

(黒月樹人)のあとがき

コンピュータのC言語によるプログラムを直したり組み上げたりする作業を繰り返していて、論理的な誤りであるバグを見つけるという思考に浸っていると、もう少し、制限のゆるい創作活動をして、気分転換をしたいと思い、「幸運な宇宙」の読書感想文でも書いてみようと考えた。

最初、A41ページほどのものであったのだが、思考言語コアというものを提案し、アインシュタインの特殊相対性理論の論文や、これらを論じたパウリの本などの内容を、ち密な論証で批判している人間が、こんなに、いいかげんなことを書いていてよいのだろうかと思ったのが、そもそもの間違い。

「黒月樹人のランダムノート」は、たくさんある「ブログ」のようなものだと宣言しているのだから、こんなにのめりこむ必要はなかった。

この長い感想文において、いくつかの、私のホームページに由来するエピソードを書き込んでゆくうちに、気分転換だけでなく、これからの指針の幾つかが現れてきたように思えた。

この本「幸運な宇宙」そのものの内容は、あまり重要なものとは思えなかったが、このような問題があるのかということが分かってきて、勉強になった。また、現代の公的な立場にいる科学者が、どのように「制限した視野」のもとで、これらの問題を考えようとしているのかということも、よく分かってきた。

おそらく、この本は古典とはならないだろう。多くの科学啓蒙書だけでなく、多くの科学論文が、消えてゆくか、書き直しをしなければならなくなるだろう。

まず、はっきりしているのは、私が提示している「幽霊変換」という論文により、「ローレンツ変換」が空論であり、そこから、「アインシュタインの特殊相対性理論」や質量とエネルギーの等価式「E=mc2」など、現代物理学における多くの基盤が、まったくの空想であったということである。

そして、まだ、これほど明らかにはなっていないが、宇宙論における「ビッグバン仮説」も検討しなおさなければならないかもしれない。

ウェブで調べてみると、「宇宙定常論」を支持する研究論文を、それなりの学会にではなく、ウェブで公開して、世界中に発信している人がいることが分かった。10年間も、この分野で世界中から支持されているらしい。私の「幽霊変換」は、まだ1年である。ポール・デイヴィスの本の代わりに、私やこの先人の本が、図書館の「科学の棚」に並ぶ日が来るだろうか。私については、公式には、まだ一冊も出版していないのだから、その可能性は、現在0%なのだけれど。

 

 参照資料

[1] 「幸運な宇宙」THE GOLDILOCKS ENIGMA  --- Why is the Universe Just Right for Life? ポール・デイヴィス(Paul Davies)[], 吉田三知世[], 日経BP[], 2008(英文は2006)

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