心が楽になるホ・オポノポノの教え/潜在意識から超意識へ向かう

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito)

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 「もっと良くなるように世界を変えよう」というのは、おごった考えなのかもしれない。そのようなことは不可能なこと。あるいは、間違った方向へと向かっている。確かに何かがおかしいと感じているとき、それをどのように変えてゆくのか。そのとき、外の何かを変えようとすると、外の誰かが原因だと考えると、たちまち、ものごとがおかしくねじれてしまう。問題はどんどん複雑になってしまって、身動きできなくなってしまう。

 このようなとき「ホ・オポノポノの教え」というタイトルの本[1]を読んで、私はたちまち行動する指針を見出すことができた。身動きできなくなっていた原因を、外に探しても、どうしようも出来ない。しかし、自分自身の記憶の中を探してゆけば、それに対応する、もう一つの原因を見つけることができる。私という存在は、偉そうなことを言っていても、けっして完璧な生き方をしてきたわけではない。気分や意識の大きな波にほんろうされなくなってきたのは、ここ何年かのこと。とにかく、ここは「問題だらけの世界」なのだ。それについての影響を受けて生きるしかなかった。すると、たちまち、何らかの「波」にもまれることになる。それらのことが、私の「記憶」を「くちゃくちゃ」にして、けっきょくは、しわだらけの「記憶」となる。ゆがんだ「記憶」の表と裏を比べてしまい、さあ、どちらの「地図」にしたがえばよいのかと迷ってしまい、けっきょくは、何もできなくなってしまったのだった。具体的な問題は、幾らでも浮かんでくるが、それらを抽象して考え直してみると、このようなことになる。

 何か「道」を見出そうとするなら、このような「記憶の地図」から目をそらさなければならない。これまで、私は、そんなことはできないと言いはって、ずうっと立ちすくんでいたか、同じところをぐるぐる回っているだけだった。そのような迷路から逃れる方法を、私は「ホ・オポノポノの教え」によって学ぶことができたのかもしれない。

 「私」という「顕在意識」は、見えないけれど、よく分からないけれど、もっと大きな情報量をもつ「潜在意識」という「隠れた記憶」をもっている。それがときには役だってくれることもあるが、じゃまをすることもあるわけだ。過去のことを何も考えずに、素直になって、すんなりと行動できないのは、この「隠れた記憶」が現れてくるから。

 「ホ・オポノポノの教え」はシンプルなこと。たった4つの言葉を、ただ唱えつづけるというもの。「ありがとう(Thank you)」「ごめんなさい(I’m sorry)」「許して下さい(Please forgive me)」「愛しています(I love you)」の4つだ。たしかに、これは、心の向きを変えてしまう。これは、外の「何か」や、外の「誰か」に向かって言うのではなく、「自分自身の潜在意識」というものに対して言うのだという。そうか、問題を見つけて、それを何とかしろと言ってきているのは、「自分自身の潜在意識」だったのだ。この問題に立ち向かって、なんとかしてみろと要求されている。そのとき、さっさと両手を挙げてしまう。それは無理です。「ごめんなさい」「許してください」と言ってしまう。すると、それでは、「これならどうか」と、まったく違う、もっと取り組みやすい問題が現れてくる。そこで「ありがとう」「愛しています」とつぶやく。

 外に向いていた心が、とげや角(つの)を突きだして、ぷんぷんしていたのが、いつのまにか、おだやかで、どこにでも転がってゆけるほど丸くなっている。ジョギングをするとか、単純な作業をもくもくと続けるとかで、むつかしく「瞑想」と呼ばれる状態に至ることがある。しかし、そのときでも、むずむずと現れてくる「潜在意識のつぶやき」を振り切ることができなくて、やっぱり、「悟り」なんて無理なはなしだと思ってしまう。それは、けっきょく、こちらの心の持ち方がおかしかったからなのだ。潜在意識と、もっと仲良くして、まるで、それが生きた動物であるかのように、ていねいに接してゆかないといけないのだろう。顕在意識の私のほうが、潜在意識の「記憶」より、上に立っていては、やっばり、まずい。対等なのだ。いっしょにやってゆかなければならない。だから、きちんと言葉をかける。「ありがとう(Thank you)」「ごめんなさい(I’m sorry)」「許して下さい(Please forgive me)」「愛しています(I love you)」と。

 あまりに孤立して生きているように見えている「私という顕在意識」とは違って、どこにいるのか分からない「潜在意識」のほうは、私たちの両方を、さらに大きく包んでいる「超意識」とも連絡を取り合っているそうだ。「ホ・オポノポノの教え」では、これらの「意識」のピラミッドが説明されている。私たちの「顕在意識」をハワイの言葉でウハネと呼ぶ。「潜在意識(ウニヒビリ)」は、この下部にある、より大きな部分を占めている。ウハネの上部にあるのが「超意識(アウマクア)」。ピラミッドの頂点にあるのは「神聖な存在(ディヴィニティ)」である。整理すると、ピラミッドの下から、「潜在意識(ウニヒビリ)」→「顕在意識(ウハネ)」→「超意識(アウマクア)」→「神聖な存在(ディヴィニティ)」となる。

 この構図には、心理学と宗教の知識が入り混じっている。これが、これまでの知識の体系で、このような問題にとりくむことが困難だった理由の一つなのかもしれない。科学の一種である心理学と、科学とは一線を引く宗教との知識を総合してゆかないと、このような架空のピラミッドについて、理解のイメージを構築することは難しい。一つ目の手掛かりは、私がまとめたページの「外なる自己と内なる自己」[2] にある。ここで「外なる自己」と呼んだものは「顕在意識(ウハネ)」であり、「内なる自己」は「潜在意識(ウニヒビリ)」である。このページでは、これらのつながりについての「科学的な証拠」の一つである「0.5秒の遅れ」という現象を、心理学という分野で明らかにしたということ。

 もう一つの手掛かりは、まだ「地球の科学」とは、はっきりむすびついていない。私たちのリアル世界とは、何が違うのかよく分かっていないところからの、テレパシーによるコンタクト現象となるもの(日本では憑依と呼ばれているもの)により、幾つかの「文献」が存在している。「ラー」 [3] [4] [5] 「ハトホル」[6] 「セス」[7] といった存在のイメージを描くのは難しい。しかし、そのような存在が知らせてくれるものは、意識のピラミッドの上のほうに関わるものである。あるいは、そのような意識のピラミッドの中における、私たち、顕在意識がどのように考えて行動してゆくべきかということ。

 「ホ・オポノポノの教え」では、このような意識のピラミッドにおいて、私たちが密接につきあわなければならない「潜在意識(ウニヒビリ)」との関係を、より詳しく、さらに具体的に、そして、まったくシンプルな言葉にまとめあげて、説明している。とても親切で、分かりやすい。けっきょくは、これらのことによって、私自身の顕在意識の「姿」が変わってゆくのだ。そのとき私たちは「心が楽になる」と感じる。宗教の世界で述べ伝えられていた「悟り」の状態へと、すこし近づいた気がするようになる。

 いやいや「悟り」なんて、どこにあることやら。私たちの世界と、私自身に関しては、問題と迷いと混乱と失敗だらけが「まだら」になって広がっている。私たちが手を伸ばして感じとれるのは、かろうじて、「潜在意識(ウニヒビリ)」のあたりまでなのかもしれない。あるいは、私の隣に存在する、強固な殻をもった、他の「顕在意識(ウハネ)」の群れ。

 「ホ・オポノポノの教え」における4つの言葉を、心の中でよいから、誰にというわけではなく、自分の「潜在意識(ウニヒビリ)」に語るのだそうだ。すると、いつのまにか、「奇跡」が起こるという。なるほど、私に「奇跡」が起こっていないのは、このせいだったのかもしれない。私にとって「潜在意識(ウニヒビリ)」は、目覚ましの時刻の数分前に私をどこかから呼び戻してくれていることは知っていたものの、明らかに対等のものではなかった。私は私の顕在意識だけで生きているわけではないのだ。このことを思い出すためも、次の4つの言葉を繰り返してつぶやこう。「ありがとう(Thank you)」「ごめんなさい(I’m sorry)」「許して下さい(Please forgive me)」「愛しています(I love you)」と。

(2011.02.12 Written by KULOTSUKI Kinohito)

 参照資料
[1] 「ホ・オポノポノの教え」、 イハレアカラ・ヒューレン、インタビュー 丸山あかね、イースト・プレス刊2009

[2] 「外なる自己と内なる自己」
[3] 「ラー文書」について
[4] ラー文書「一なるものの法則」第一巻 セッション01〜13
[5] ラー文書「一なるものの法則」第一巻 セッション14〜26
[6] 「ゾクチェンの教えとハトホルからのメッセージ」
[7] 「セス」/呪術や魔術はほんとうにあるのか――幻のようなものと幻ではないもの(4)

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