ニコラス・G・カー「ネット・バカ」という本を読んで

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito)

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 図書館で「ネット・バカ」という名の本を目にした

 「ネット・バカ」という名の本[1]が図書館にあることには気づいていた。そのときの私は完全な「ネット・バカ」であったはず。自分のことを否定されるようで、こんなタイトルの本を読みたいとは決して思わなかった。インターネットの世界にかかわり、自分のホームページを開き、ユニークだと信じこんでしまうページをせっせと生み出していたのだから、「バカ」なはずはないと思い込んでいたのだった。
 それから何カ月もたっていない。私は自分が「ネット・バカ」であることが分かった。著者が定義している状態に一致しているかどうかはよく分からないが、自分のことが「バカ」であることは、しみじみと分かるようになっていた。自分が生み出していたページが、たいした意味をもっていないものであると、まるで、人ごとのように眺めることができるようになった。もっと大切なものがあるというのに、そのことを忘れて、こんなページを生み出すことに、貴重な時間や資力や精神的なエネルギーを注ぎ込んでいたのだ。気がつくまで、よく分からなかった。そのような「時代」だったからだろうか。
 世の中は大きく変わってしまった。私自身も変わらざるをえなくなった。しかし、これ以上悪くなってゆくわけにはいかない。何もすることがなくなってしまうことだけは、なんとしても避けなければならなかった。
 生活のための「綱渡り」のロープをなんとか見出すことができたとき、ふと、図書館で、この本を目にした。なんということだろう。読んでみようと思った。他にも借りていた本として、もっとやさしいものもあった。それは平凡な内容のエッセイだったのだが、この平凡さが心地よかった。これに比べ、「ネット・バカ」のほうは、けっこうむつかしい。論述調の文体だ。かつては、このようなものばかり読んでいたはず。そのころのコンディションへと戻れなくなっているものの、読みだしてみると、細かなところにこだわらなければ、なんとか読み進んでゆける。まだ、全部を読み切ってはいない。以前のように、体系的な要約や批判のような感想文は無理だ。もっと断片的なものについて、いくつかまとめてみよう。


 「第1章 HALとわたし」について

 この章は導入部分。HALというのはスタンリー・キューブリック監督による「2001年宇宙の旅」に登場する、スーパーコンピュータの名前。HAL独自の判断によってHALが行動しはじめ、生命があぶないと判断した宇宙飛行士のボーマンが、HALの記憶回路のユニットを引き抜いてゆくシーンがある。
 著者は、自分自身を、ボーマンのほうにではなく、HALの消えかかってゆく意識のほうへと向けてゆく。「誰かが、または何かがわたしの脳をいじり、神経回路を組み換え、記憶をプログラミングし直しているかのような、不快な感覚を覚えていた」と。
 この「何か」というのが「インターネット」なのだ。
 この章では、著者のこれまでの人生における、コンピュータとのかかわりようが詳しく述べられている。著者は私より5歳若い。ほぼ同世代である。私たちがコンピュータと直接つきあうようになったのは、ほぼ大人になってからのことだった。もちろん、私よりずうっとコンピュータに近いところで著者は生きていたらしい。いろいろと詳しいエピソードが語られる。その幾つかについて、私も、そうだったなあと思うことがある。私たちが生きてきた時代は、コンピュータの分化が大きく成長し、社会に浸透し、何もかもを変えてきたものだった。その流れに乗ってゆくことにより、これまでは不可能だったことができるようになっていったはずでもあった。観測したデータを調べ、そこから何らかの意味を見出すため、コンピュータを使って解析する仕事をしていたこともある私にとっては、コンピュータの処理能力の発展が、とても好ましいものに思えていた。
 やがてコンピュータの世界にインターネットが現れ、世の中の仕組みが、どんどんと変わってゆく。ここから、著者は何か変だぞと思いだす。「インターネットはわたしを、高速データ処理機械、いわば人間版HALへと変えたのだ」と気がつく。


 「第2章 生命の水路」について

 フリードリッヒ・ニーチェという哲学者が、「健康状態の悪化」のため、大学教授の職を辞することとなって、病状回復のためヨーロッパ中を放浪したというエピソードが語られる。視力も落ち、本のページを集中して読むことにも苦痛を覚え、執筆もむつかしくなっていたとき、ニーチェはタイプライターを注文して使い始めたのだそうだ。そして、ブラインドタッチを覚えたニーチェは、執筆活動を再開したのだという。
 このことにより、ニーチェの文体は変化した。このことを指摘されて、ニーチェは「執筆の道具は、われわれの思考に参加するのです」と答えた。
 同じころのこと。今度はジームクント・フロイトの物語へと移る。そして、脳に関する古くからの仮説が問題となる。その仮説というのは、「成人後、脳の構造はまったく変化しない」というもの。これは私も聞いたことがある。20代のころのほうが、記憶力に優れているのは確かだ。でも、総合的な思考力については、どんどん発達してきたように思える。私自身については、40代や50代になってから生み出したものがあり、それらは、若かったときにはとうてい考えつかないほど複雑なことであった。飲酒により脳細胞がダメになってゆくということもあるにはあるだろうが、成人してすぐのときが脳の機能のピークであるとは思えなかった。
 この章では、このような疑問に対する回答が、いくつもの科学的な事実によって説明されてゆく。結論を述べると、成人後も、脳の構造は変化してゆくのだ。
サルを使った実験により、脳における神経細胞の役割が組みかえられることが確かめられている。脳は「可塑性」をもった組織であり、感覚器官の一部が失われたとき、たとえば目が見えなくなったとすると、そのために使われていた神経細胞が、聴覚などの機能を発展させるために変更されるのだそうだ。
私たちの脳というものは、かなりのゆうずうが効くもののようで、使っている道具などに対応して、いろいろと機能を変化させ、新しい状況へと対応してくれるようだ。
 ところが、このことにより、私たちは、やりようによっては、どんどん「バカ」になってしまい、脳が、それに対応して変化してしまうことにもなるわけである。


 「第3章 精神の道具」について

 この章のはじめは、小さな女の子が、クレヨンで太陽や山、そして自分の家などを描くことから始まって、学校へとゆくと、自分の国や州や町を地図として描き、大きくなって測量技師になったとして、土地の正確な図面を描くところが説明されている。
 地図のようなものを含む、人々が関わってきたテクノロジーについて、これを四つのカテゴリーに分けている。
 @「力や器用さ、回復力を拡張するもの」(例)鋤、かがり針、戦闘機
 A「感受性や感覚の範囲を広げるもの」(例)顕微鏡、アンプ、ガイガーカウンター
 B「われわれの必要性や欲求に合うよう自然を仕立て直すもの」(例)貯水槽、避妊用ピル、遺伝子組み換えトウモロコシ
 C知的テクノロジー「知的能力の拡張や支援に用いられるもの」(例)地図、時計
 この「知的テクノロジー」として、さらに、タイプライター、そろばん、計算尺、六分儀や地球儀、本や新聞、学校や図書館がとりあげられ、「そしてコンピュータやインターネットもそうである」と続く。
 このような知的テクノロジーの使用によって、脳内の回路が形成され、変化している。
 「言語自体はテクノロジーではない。人間という種本来のものだ」と書いているが、この「言語」について、思考のための道具としての役割について述べている。


 「第4章 深まるページ」について

 この章では、「言葉にかかわる知識」が記録されるものについての、材料やテクノロジーについて語られる。
「つるっとした石」「木のかけら」「樹皮」「布切れ」「骨」「陶器の破片」などが「書かれた言葉の最初の媒体」となったという。この中で「陶器の破片」について述べるまえにとりあげておかなければならないのは、シュメール文明における「粘土版」であろう。次は、エジプト文明の「パピルス」。それから、「羊皮紙」や「ロウ板」が現れる。「巻物」のスタイルだったものから、「本」のようなものへと変化したのはローマ時代だったらしい。
 このようなころの文章においては、単語が「続け書き」されていたのだそうだ。ギリシャ文字で確立しだしたアルファベットの単語が、スペースなしに、続けて書かれていたのだという。英語でたとえば、This is a pen というところを Thisisapen と書くようなもの。話し言葉では、続けて発音していたので、これでよかったのだそうだ。文章は「黙読」されるものではなく、声に出して読まれるものであったという。
 書き言葉の変化についての歴史が説明されたあと、1445年ごろの、ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷術の発明について語られる。グーテンベルクの発明は3つの要素として取り上げられている。一つ目は、バラバラにして組み合わせることのできる、アルファベットの金属印を生み出したこと。二つ目は、ワイン製造でブドウをしぼるために用いられていた圧搾機を改良したこと。三つ目は、「金属製活字にぴたりとくっつく油性インク」なのだそうだ。ところが、グーテンブルクは、この活版印刷機を生み出すための資金を、ヨハン・フストから借りていたのだが、それがうまく返せなくて、けっきょく、この機械や印刷システムをフストに手放すこととなったのだそうだ。そして、このあと、事業の展開をフストが行い、聖書をはじめとして、さまざまな本を販売したのだという。グーテンベルクは経済的に報われることがなかったそうだ。
 著者の説明はまだまだ続き、ここから、「本」と「人間の意識」についてのかかわりについての変化が説明されてゆく。それから、20世紀に発達してきた、ラジオ、映画、レコード、テレビなどのテクノロジーを横に見て、コンピュータやインターネットへと向かうことになる。


 「第5章 最も一般的な性質を持つメディア」について

 デジタル・コンピュータについての歴史について語られる。出だしはイギリスの数学者、アラン・チューリングの服毒自殺について。私が生まれた1954年春のことらしい。このような数字を見るとドキッとしてしまう。アラン・チューリングがコンピュータの発展のためになしとげたことが紹介される中で、「最も一般的な性質を持つ機械」としての「解析機関」のことが持ち出される。これはチャールズ・バベッジによるもの。チューリングは、それをさらに発展させたのだそうだ。
 チューリングが考案した「ユニバーサル・マシン」が、やがて、言葉、数字、音声、図像、動画といった、デジタル化されて取り扱われるようになった、「ユニバーサル・メディア」を生み出すことになる。このとき、これらの処理に関するスピードが、大きな要因であった。それと、記録媒体としてのメモリーの容量や、インターネットになったときの、回線容量のコストが、コンピュータの発展の要因であった。これらの要因が、どのように変化していったか。同時に生きてきたものにとっては、とても信じがたいペースであった。いつのまにか、「こんなことまで出来るようになった」と、何度も驚かされた。
 インターネットと、それまでの他のメディアとの大きな違いは、インターネットが双方向的であるということ。情報についての、ダウンロードもアップロードも可能なのである。そして、私たちとインターネットとがかかわる時間も、どんどんと増えてきた。テレビとの時間が減ったのだろうか。そうではないらしい。インターネットとの時間が増えたことによって減ったのは、印刷物を読むのに使われていた時間である。こうして、これまでのメディアが大きく影響されるようになってきた。新聞、雑誌、映画、ラジオ、CDやDVDも。これらについての詳しい変化について論じられている。なんとか生き残ろうとして、インターネットの世界にあるもののスタイルへと変化しようとしたようだが、それで「流れ」をくいとめることはできないようだ。


 「第6章 本そのもののイメージ」

 「それでは本自体はどう変化したのか?」という一文で、この章は始まる。
 本はインターネットの影響力にもっとも抵抗してきたようだ。本についての利点が数多く指摘されている。電子書籍が現れているものの、ほとんどの人は、あまり興味をもっていないとも書かれている。しかし、これから、少しずつ変わってゆくことになりそうだ。電子書籍には明らかな利点もある。これについて、具体的に論じられてゆく。
 日本での流行としての「ケータイ小説」についても触れられている。他にも多くの可能性について考察されてゆく。ここのところは、ひとつひとつ要約する気力がわかないが、ようするに、本に対する人々の対応が、これまでのものとは変わってゆくだろうということだ。


 「第7章 ジャグラーの脳」

 この本の核心の一つが、ここで論じられる。ジャグラーというのはジャグリングをする人のことであり、ジャグリングとは、3つ以上のお手玉などを、二つの手で、真上に交互に投げあげることを繰り返す芸のこと。だとすると、「ジャグラーの脳」とは、幾つものテーマについて、細切れに、一つの脳で取り扱い続けることを意味しているのだということになろう。この第7章では、生物学や生理学の科学論文からの引用が多く現れる。
 具体的な科学知識による論理をたどるのはやめて、ごく大雑把なことだけをまとめるとしたら、つまりは、インターネットに関わることにより、私たちは、ひとつのことに集中して考えるような状態から遠いものとなって、何かを考えようとしているときでも、やってきたメールのことが気になってチェックし、また、張られたリンクの先へと向かってゆくことで、いつのまにか戻るところがあることを忘れてしまったりする。いろいろな「情報のお手玉」を投げ続けてしまうわけだ。
 「注意散漫」というキーワードが記されている。「絶え間ない注意散漫」とも表現されている。インターネットによる文化が、「われわれと脳との関係に変化を与える」ことにより、この文化は「異なる脳を作りだしている」と語られている。そうかもしれない。このような現象が起こりうることは、第2章で詳しく論じられている。インターネットに応じた神経回路のニューロンやシナプスが脳において再構成されることにより、「旧来の知的機能・知的活動を支えてきた神経回路が失われてゆく」のである。
 このあと、「短期記憶」と「長期記憶」についての問題も論じられてゆく。インターネットの使用に伴う、途中の参照リンクなどへのチェックなどは、長期記憶をもたらさない要因となる。このようなことの、科学的な実験や調査の事例が、詳しく論じられる。
 インターネットのページによくある、リンクだらけのハイパーテクストと、リンクが何もないテキストとを使った実験によれば、テキスト内容の把握という点に関して、リンクが張ってあるほうの成績のほうが悪くなるのだそうだ。ハイパーテクストやマルチメディアによる、「より多くの情報は、より少ない思考活動につながりうるのだ」とまとめられている。
 論述はまだまだ続く。このようなことを示唆する実験結果のオンパレードとなっている。よくぞ、ここまで集めたものだと思う。ひとつの結論のために、なんと多くの証拠が集められていることか。要するに、インターネットが目指してきた「多情報」のシステムにより、私たちの考える能力が弱くなってきたということなのだ。
インターネットに存在するページの多くを眺めてみると、このことが納得できるかもしれない。ページが幾つにも分割されて、どこに主要な情報があるのか分からなくなっている。広告のジャングルにテキストが隠されていることもある。テキストだけを見ても、気まぐれな色分けや段落わけ、あるいは、無用なフレーズの繰り返しなどもあり、旧来の文化におけるテキストページを基準としたとき、まるで精神に異常があるものによる構成物であるかのように思えてしまう。


 「第8章 グーグルという教会」

 グーグルはウェブのデザインを行うとき、科学的な実験による検証を基礎としているらしい。どのように配置をすれば、より効果的な成果が得られるのかということを、実験的にテストするのだという。
 グーグルが成長する基礎となったシステムについての解説もなされる。科学論文の評価と、ウェブページの評価についての類似についてである。これは有名な物語だ。サーチエンジン最適化(SEO)と呼ばれる技術のスタートとなることがらでもある。しかし、現在のグーグルにおけるシステムは、どんどん複雑なものとなっているはずで、ウェブページの評価を決める指標も、2000項目になっているとか。ただし、詳しいことは分からない。完全に企業秘密となることがらだからだ。幾つかページをつくって、それをグーグルに確認してもらい、その評価の上がり下がりを観察してみると、確かに、ことはそれほど簡単なものではないということが分かってくる。かつて支配的だった「外部リンクの質と量」という指標が、どうやら、最近はほとんど無意味なものとなっているような気がする。外部リンクのようなものがないはずの、ウェブにアップしたてのものであっても、あるキーワードの世界において、トップ10の上位に位置することがある。そのための秘訣のひとつは、「コンテンツの充実度」だろうか。ほかには、「出典ホームページの活動性」というものも指標として重みづけられているのかもしれない。これらは、単なる技巧ではなく、より本質的なものである。それを、どのようにして評価するのか。おそらく、2000もの項目を検討することができるのだから、そのような技法を生み出すこともできるようになるのだろう。
 グーグルがやろうとしていることの中に、「かつて刊行されたすべての本をデジタル化し、オンラインで発見し、検索できるようにする」ことがあるという。これは壮大なチャレンジだ。これに対して訴訟も起きたらしいが、和解に至ったらしい。その過程のことに詳しく触れている余地はないが、このようなことが推し進められている。これはいったい、私たちの世界に、どのように影響してくるのだろうか。かつて私は、有名な人の研究を調べようと、原論文などを集めることにしたことがある。あまりに有名な論文であったので、グーグルを利用して調べると、かんたんに入手することができた。あるていど古典的で有名なものについては、ほぼ無償であるが、比較的最近のものについては有償となっている。アメリカ国内相手のものについては、支払いシステムを利用できないので、そこでストップとなってしまう。大学などの研究者なら、何らかのシステムを利用できるのかもしれないが、私のような素人には、遠い世界でのことだ。
 知識や情報は、できるだけ公開されていて、できるだけ低コストで取得できるようになっているべきなのだろう。大きな図書館や大学の図書館へ行って、リストを調べ、コピーをとって、特殊な知識の「鎖」や「樹木」のようなものを見出してゆくということも、研究的な仕事をしていたときは、やっていたことがある。そのような人にとっては、グーグルのチャレンジは心強いものなのかもしれない。
 ことはグーグルだけのことではないが、インターネットにおいて、さまざまな情報がちりばめられており、検索サービスによって、それらをすばやく見出すことができるようになる。これは、もちろん、よいことだろう。しかし、それだけで、私たちの世界は、すばらしいものとなってゆくのだろうか。知識の多くは、それを利用できる専門家だけのものである。そのような必要性のために、インターネットの世界が発達してきたということも分かる。でも、もっと大きな要因のようなものは、それぞれの知識にあるのではなく、それらを使う人間の資質のほうにあるのではないか。問題を解決するための知識が必要だとされることもある。知識があっても、答えが出ないこともある。それでも、人間は何かを決定して、行動してゆかなければならない。そのような判断をしなければならないとき、いったい、どれだけの知識や情報があればよいというのだろうか。未来のことが、もっと分かっていたら、もっと正しい判断ができたとしても、そのような知識を得るための時間が限られており、それまで待てないことだってある。世界は複雑すぎるし、問題は難しすぎる。人間が生み出した知識や、集められる情報だけで、どのような問題にも対処できるとは限らない。しかも、そのように判断しなければならないものたちが、私たちと同じくらいの、たいした能力しかない。人間の能力なんて、特殊なものならすごいということもあるだろうが、何もかもを見通して正しく判断できるほど優れたものではないようだ。
 インターネットにおいて、人々の総意のようなものが表現されることがあるのだろうか。それは、政治とかの人間社会におけるものとしてなら、ある程度可能なものかもしれないが、自然などの、もっと大きくて無意志であるかのようなものについては、何の意味ももたないものかもしれない。大きく脱線してしまった。
インターネットの世界や、グーグルなどの検索サービスが、どのように現実世界とかかわってゆくのか。そんなことを判断できるほど、時は経過していないし、それらの変化は、まだ始まったばかりなのかもしれない。


 「第9章 サーチ、メモリー」

 この章においても、生物学的な神経回路や記憶についての科学的な知識が数多く使われてゆく。タイトルの「サーチ、メモリー」が、単純な単語の並列で、分かりづらいものとなっている。この章での中心的なテーマを要約しよう。
 インターネットの世界を利用すると、知りたかった知識を手早く検索することができる。それなら、あまりに詳しく、さまざまな知識を「備忘録(コモンプレイス・ブック)」や脳に詰めこんでおく必要はないという考え方がある。しかし、これに対して著者は、人間の記憶において、短期記憶が長期記憶となるプロセスがあって、それらの長期記憶というものが、決して、インターネットの世界に外部保存しておけるものではなく、一人ずつの人間にとって特殊なものであり、それらが人間の文化の基礎となっていることを述べている。私たちの長期記憶の総体は「複雑で濃密な構造をもった」ものであり、「ボタンひとつでアクセス」できるような薄っぺらなものではないということだ。
 少し脱線しよう。インターネットの世界に近づき、参加し、親しんで何年かになるが、ウェブの世界でサーフィンして、これは面白いと、何時間も楽しむことは、ここ最近、あまりないように思えてきた。たどり着いたところのページにある知識や情報が、あまりに形式的であり、表面的でもあり、さらには、無変化でもあることが、しだいに分かってきたからかもしれない。面白いのは、自分がどのように変化してゆけるかということだったようだ。ところが、それは、自分自身の気分しだいの、空しい現象にすぎなかった。気分が変わるほど、周囲の世界が変わり、自分の状況が見えだしてくると、こんな「夢」みたいな気分ではいられないぞ、もっときちんとしてゆかなければ、と思うことになる。「目が覚めた」のかもしれない。現実世界の問題は、もっともっと複雑なものであり、解決できるかどうかも分からず、自分自身を含めて、状況はきびしく、「崖っぷち」ぎりぎりのところまできている。このような認識になってしまえば、どんなに寝ぼけ眼(まなこ)でも目が覚めてしまうに決まっている。


 「第10章 わたしに似た物」

 ここはまず人工知能について論じられる。1964年ごろ、コンピュータ科学者、ジョゼフ・ワイゼンバウムが、入力文に対して自動応答するプログラムを生み出した。このプログラムはイライザ(ELIZA)と名づけられた。人間とこのプログラムによる会話の実例文が載せられている。まるで、二人の人間が話をしているかのようだ。生身の人間が二人いたとしても、このような、ときとして連想で流れ、ときとしてストレートに応答し、単なるあいづちなどをはさんだ、とりとめもない会話をするものなのだ。このプログラムは「セラピー用ツール」としての可能性を見出されることになる。
 アラン・チューリングは「計算機械と知能」という論文で「機械は思考できるか」という問題に取り組んだ。ここから、「チューリング・テスト」というものが発案される。「質問者」がコンピュータに向かってタイプするかたちで二人の人物と対話を行う。一人は本物の人間だが、もう一人は人間になりすましたコンピュータである。このとき、質問者が本物の人間とコンピュータとを区別できなければ、このときのコンピュータには知性があると見なすことになるというもの。
 これは映画の「ブレードランナー」でのシーンに用いられたことがある。このときの偽物はレプリカントと呼ばれる人造人間で、見かけも話し言葉も人間そっくりなのであるが、微妙な論理の差異によって、本物ではないと判断されていた。現代のロボット技術では、まだ、このレベルには達していない。見れば分かるし、話し方の口調などでも、違いは分かる。しかし、チューリング・テストの条件としての、スクリーンなどで言葉が表示されるだけだったらどうだろうか。別の本になるが、「コンピュータが仕事を奪う」[2](新井紀子著 日本経済新聞出版社2010)には、Jabberwackyというコンピュータソフトが、このような人工知能の一種としてネットで公開されていると紹介されている。英語のサイトであるが、上記の本では日本語訳となっている。
 この章の内容へと戻ろう。イライザ(ELIZA)を生み出したワイゼンバウムは、人間とコンピュータの違いについて考えている。「われわれの最も計算不可能な部分」が、「われわれを最も人間的にしているもの」であり、その部分とは、「精神と身体とのつながり」「記憶や思考を形成する経験」「感情や共感の能力」であるという。さらに、やや抽象的になって分かりづらいが、「知を必要とする作業」とある。このときの「知」とは何だろうか。前記の3条件も、さらにかみくだいてもらわないと分かりにくいかもしれない。人間として、はたして私は、このような条件をもって生きているのだろうか。
 続いて著者は、道具と人間の脳との関係について論じている。「大工がハンマーを手にすると、大工の脳にとって、ハンマーは手の一部となる」という一例からはじまって、「兵士と双眼鏡」「サルとペンチ」などの例を示し、新しいテクノロジーと脳との関係を考察してゆく。かくして、私たちは、新しいテクノロジーとして、「ワープロ」や「コンピュータ」を使ってゆき、それに応じた脳へと変化することになる。
 テクノロジーの力を身につけるとき、私たちは何かを捨てることになる。時計や地図を使うようになって失ったものもある。GPSを使うようになったタクシードライバーは、頭の中に組み立てておいた地図をうまく使えないようになる。
 「われわれの感覚、認知、記憶を拡張するネット・コンピュータ」は「神経増幅器として機能」するが、「鈍らせる効果も同じくらい強力」であると表現されている。このあとの実験的なエピソードは興味深い。コンピュータ上で行うボール移動のパズルを二つのグループで行ってもらう。一方のグループでは、できるだけ支援してくれるソフトウェアを使う。他方のグループでは、何のヒントもガイダンスも与えない、そっけないプログラムを使う。このとき、最初は、支援プログラムのグループのほうが、速く、正確な動きだったが、実験が進むにつれて、そっけないプログラムのグループのほうが熟達して、逆転するようになったのだという。計画を立てて戦略を練ってゆくようになった。支援プログラムのグループでは、単純な試行錯誤に頼る傾向がぬけきれず、考えなしにあちこちクリックすることもあった。このあとも、この実験についての詳細な結果が述べられてゆく。ここでのまとめの一文は、次のようなものだった。「ソフトウェアが賢くなれば、ユーザーはバカになる。」
 この実験を行ったファン・ニムヴェーゲンは、「ユーザーにもっと考えさせるよう、支援の少ないソフトウェアを開発してはどうか」と述べている。だが、現実のプログラマーたちは、これとは逆のほうへと向かうことだろう。検索エンジンにおいても、同じような現象が起こっているようだ。より親切で、支援的なスタイルへと変化してゆこうとしているようだ。著者は、他にも、便利さが人間の能力に制限を加えている事例を、あれこれと集めている。
 もう一つのテーマは、ものごとを深く考えるために重要となる環境のこと。「自然に近接した静かな田園地帯」には優れた効果がある。これは、実際に、そこにいるかいないかだけでなく、「静かな田園風景の写真」と「にぎやかな都会の写真」とだけでも、認知能力のテストに違いが生じるという。
 穏やかで注意力のある精神を必要とするのは、深い思考だけではなく、共感や同情もそうである。注意散漫な状態は、これらに逆らうことになる。


 「エピローグ 人間的要素」

 さまざまな生物学的な科学知識を集めて、それらを紹介することで論述しようとしてきた著者のスタイルでは、結果的に表現がむつかしいものだらけになって、つたえたいことが分かりにくいものとなっている。わずか3ページの、このエピローグでは、そのことを補おうと、「人工知能を基盤とした、小論文自動採点システム」というものが現れたことをエピソードとして、これを批判することで、人間的要素について表現しようとしている。「能力のなさゆえにではなく、特別な才能のひらめきゆえに、決まりごとから逸脱した書き方をする希少な学生を」上記のシステムは「どうやって見分けるのだろうか」と。これには「答えは分かっている――見分けられまい」と続いている。
 このエピローグの最後の一文も分かりやすい。
 「コンピュータに頼って世界を理解するようになれば、われわれの知能のほうが、人工知能になってしまうのだ。」


 「ネット・バカ」という名の本を閉じて

 分厚い本だなあと思う。ついつい章ごとに要約してしまった。論述的な展開に用いられている、生物学的な脳科学などの知識が、これでもかとばかり紹介されている。むつかしいなあとも思った。私たちの脳の回路が、体験の変化や、新たなツールの使用によって再編成されるということは、しみじみと分かりだしてきた。私の頭の中も、ここ何カ月の間に大きく変化してしまったようだ。かつての私なら、どれだけむつかしかろうと、何らかの手法を使い、組み上げ、分析しようとしたはずだ。ところが、今の私には、そこまでの能力がない。いつのまにか、私も「バカ」になったようだ。
 インターネットがいつのまにか大きく発展していた。私がホームページを開設したのは、ほんの4年ほど前にすぎない。検索サービスのヤフーからは、まったく相手にされなかった。URLを打ち込めば表示することができたが、「黒月樹人」で検索しても、何も起こらなかった。何カ月かして、私はホームページに加えるページを工夫し始めた。すると、それらのページをグーグルが見出してくれた。「黒月樹人」で検索することができるようになった。いろいろなことが起こって、私は外に働きに出られなくなった。やむなく私は、脳の回路が委縮してしまわないようにと、テーマを見つけて、それに取り組むことにし、ホームページを充実させるようにした。
 インターネットは、私とは関係なく、どんどん発展していった。私はC言語を学習し直し、画像解析のプログラムを生み出すようになった。これが売れるようになればと思ってチャレンジしたが、そんなに甘いものではなかった。経済的には何の利益も生み出せなかったが、私のホームページに加えるページのバリエーションは増えることになった。宇宙の画像などの、細部に写っているものを、より明らかなものとして解析表示することができるようになり、私は夢中になった。このような画像解析の技術を応用し、宇宙の画像だけでなく、私たちの周辺にあるものについても調べることにした。すると、植物の、とくに針葉樹の細い葉の周囲に、肉眼では見えないものの、ほぼ透明な、何かがまとわりついていることが分かりだした。
 日本の検索サービスの主流がヤフーからグーグルへと移りだした。やがて、ヤフーはグーグルの検索データを購入することになり、日本の検索ワールドはグーグル一色に染まった。このような検索ワールドにおいて、ある種の検索キーワードにおけるランキングで、最初のページとなるトップ10に入るということが、広告という観点からは、経済的な利益を生み出すようになっていた。私が生み出すページの幾つかは、検索ワールドのトップ10に現れることが多くなっていった。このことで、私はなんとか生きてゆけないかと考えるようになったこともあったが、これは、かんたんなことではなかった。私が生み出すページが、「広告」の要素と、かけ離れていたからかもしれない。
 ニコラス・G・カーが「ネット・バカ」という本の中で想定して、批判していることとは、すこし違うかもしれない。インターネットの世界にかかわる方法として、いろいろなものがある。私がやってきたことは、ページを生み出すということであり、「ネット・バカ」という本の中で想定されているのは、おもに、それらを利用するという局面のようだ。それでも、それらを合わせた総体のようなものとしてインターネットを考察してみると、やはり、私たちの脳は、あまりうまく回路の再編を行えなくなってきているのかもしれない。私たちは、ものごとを深く考えられなくなってきている。私だけのことではなく、私たちの世界で起こっていることに対して、私たちがどれだけ無力であり「バカ」なのかということが、ここにいたって、どんどん分かりだしてきた。現実世界には問題があふれていたにもかかわらず、それが自分の身に降りかかってくるなぞとは思っていなかった人が、それらの問題を見ないようにして、見せかけの「平和」な世界を生きようとしていた。ところが、それらの問題は、あっという間に、私たちのすべてに降りかかってきた。私たちの世界はもう「平和」な状態ではなくなった。これまでと同じように、のんびりと生きてゆくわけにはいかなくなった。「バカ」なままでは、いられなくなった。
 いったい、どうすればよいのだろうか。とりあえず私については、しっかりと働くしかない。このようなページを生み出すための時間は、けっして「余暇」などではない。もし、生活のために使えるのだったら、そうしたいのだけれど、今のところ、そのような手段が見つからない。ただ、何もしないでいると、どこへ向かってゆくのか分からなくなるので、このようにしているだけだ。
 ともあれ私たちは考え直さなければならない。私たちがやろうとしてきたことは、これでよかったと言えるようなものではなく、隠れていたかもしれない問題が一気に現れ出し、私たちの世界は、とんでもなく難しくなってきている。「科学」とか「経済」あるいは「政治」や「文化」と名づけられて分類されているものの、ありとあらゆるものが、どれだけ未熟であり、未完成であり、無力なものであるかということが分かってきた。こんな、えらそうなことを言える立場ではない。私自身が、とんでもなく無力だ。私は、私自身のことを何とかするということさえ、うまくできないのだから。
 (2011.05.04 Written by KULOTSUKI Kinohito)

参照資料
[1] 「ネット・バカ」, ニコラス・G・カー著, 篠儀直子訳, 青土社2010
[2] 「コンピュータが仕事を奪う」,新井紀子著,日本経済新聞出版社2010
Jabberwackyというコンピュータソフトが人工知能の一種としてネットで公開されている
http://www.jabberwacky.com/


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