RaN25 「前世」とイアン・スティーヴンソンの仕事
RaN25 Reincarnation & Ian Stevenson Work
黒月樹人のランダムノート (Random Note by Kinohito KULOTSUKI)



 「前世」という言葉で、もっとも強く連想されるのは、ブライアン・L・ワイス著の「前世療法」[1] だろうか。単行本での初版を買ったと思うが、現在手元にあるのは文庫本のものである。これはドキュメント本であり、催眠により、患者の前世を呼び出し、現在の人生における問題点を明らかにしようとする著者がめぐり合った、数々のドラマのことがまとめられている。このときの患者の中に、互いに思いあっていたにもかかわらず、前世で結ばれなかったカップルを、偶然にも、ワイス博士が治療していることに気づいたものの、そのような患者のプライバシーを、他の患者に語るわけにはいかない。そこで博士は、二人の治療の順番を意図的に連続させておいた。すると、待合室で出会った本人たちが、自然と互いに引かれてゆく。まるで、映画のストーリーのように、なにもかもがハッピーエンドへと向かって。事実は、小説より、うまく組み立てられるものなのだ。

 もっと一般的に、「前世」についての、いろいろな物語を集めてある本もある。「輪廻体験」(片桐すみ子編訳)[2] が、このような本の典型である。私が持っている本は1996年のものであり、この年に読んで、そのあとは置きっぱなしだったから、細かな内容のことは、ほぼ忘れてしまっている。

 同じ訳者で、「輪廻を越えて」という本[3] も出版されている。アフとベドウィンが語る、この世界のほんとうのことをやさしく説明してある、いわば、霊的な世界についてのテキストのようなもの。宇宙の全体像や、その中での、私たちの生の意味についてまとめているのがアフによる部分。ベドウィンの講義では、一つ一つの個別の人生において、取り組むべき課題が、どのようなものであるのかということを説明している。

 少し宗教的な分野となるが、チベットの仏教の観点から、「前世」について述べられている本として、「チベットの生と死の書」[4] というものがある。著者のソギャル・リンポチェは、中国によるチベット占領時に国外へと逃れ、デリー大学、ケンブリッジ大学で比較宗教学を学んだ後、現在は、リクパ(RIGPA)と呼ばれる世界的規模の仏教徒センター・ネットワークを創設し、指導しているらしい。これは、この本を読んだ1997年での情報であり、現在のことについては確認していない。この本のなかでは、英国のアーサー・フラワーデューという男性の物語が詳しく述べられている。彼は、ヨルダンの古代都市ペトラが栄えていたころに、そこで衛兵として生きていたという記憶をもっており、現地の考古学者も知らない、具体的な事柄を、いくつも知っていて、人々を驚かせたということである。

 ようやく、このページのタイトルにつながってゆくことになる。著者のイアン・スティーヴンソンは、前世研究の先駆者であり、重鎮とか巨人と呼ばれるにふさわしい仕事を続けてきた。「前世を記憶する子どもたち2」の日本語版[5] は平成17年に出版されたが、どうやら、これが遺作になったようだ。最近亡くなられた。この本の一作目である「前世を記憶する子どもたち」[6] を私は20代か30代のころに読んだと思う。主にアジアの子供たちについての調査文献であったように思う。これに対して、「前世を記憶する子どもたち2」では、ヨーロッパの子供たちについて調べられている。これは、西洋文明にとっては、かなりショックな内容だ。西洋で広く教えられているキリスト教では、「前世」や「生まれ変わり」を否定もしくは無視している。このような「偏見」とも「誤解」とも見なせるキメラミームに、イアン・スティーヴンソンは挑戦したのだ。

 「前世を記憶する子どもたち2」でイアン・スティーヴンソンは何十人もの事例について、科学的な調査のスタイルを維持しながら報告している。その中で、前世を記憶していた子供が書いた絵の一つを、この本の表紙や中表紙のデザインに転用している。イラストが強化するのだろう。この事例のことは、比較的詳しく、私の記憶に残っている。

 「ゲデオン・ハイハーは、192137日に、ハンガリーのプタペストで生まれた」との記述から、この事例の調査報告の章は始まってゆく。イアン・スティーヴンソンの、もっと以前の、他の本も私は持っていて、生活を立て直すために、単調な仕事に耐えてゆかなければならなかったときの、ほんのわずかな休憩時間に、それを読むことにしていたが、あまりに論文調の文体で、何が本質的なことかを、言葉の迷路の中に隠しておくような、何もかもを、まるでテープからおこしたような調子で書かれてあったので、私の読む気力が続かず、途中で投げ出していた。しかし、この「前世を記憶する子どもたち2」のゲデオン・ハイハーのところの物語では、まるで、ちょっとした短編小説であるかのように、重要なことが簡潔にまとめられ、淡々と述べられる。そのくせ、全体が小説のように、だらだらと進んでゆくのではなく、適度なタイトルによって、まとまりよく分類されており、語り手だけの都合だけでなく、読み手のことも十分考慮された、見事な表現になっている。

 ゲデオンは、前世のことを語り出したというのではなく、四歳のころまで、いとこと絵を描いて遊んでいるとき、「いとこはいつも人の肌をピンク色に塗ったのに対して、ゲデオンはいつも黒褐色に塗ること」に、母親が気づいて、そのことをゲデオンに注意したということだが、「ゲデオンは、何も言わずに、焦げ茶色で塗り続けた」という。

 このような物語の中で、ゲデオンのイラストは、前世の記憶の証拠として、重要な伏線として取り扱われてゆく。これらの詳しいことを、すべて、ここでなぞるわけにはゆかないので、おおまかなあらすじを述べてしまうと、ゲデオンの前世は、おそらく、アフリカの熱帯で暮らしていた、肌の黒い人だったらしい。そのような結論へと進むためには、いろいろな事実の断片を積み上げてゆかなければならないが、これも、実際に調査し、それについて考察したイアン・スティーヴンソンの展開に勝るものはないので、詳しくは、この本を読んでもらいたい。

私が強く印象づけられたのは、ゲデオンが十三歳のときに、20メートル以上もある木に登っていたことを、大人に注意されたとき、「ぼくがジャングルにいて、これよりずっと高い木に登って動物を見はってたころ」と言って、不満げな反論をしたところである。

前世の記憶があるかどうかということも驚くべきことだが、こんな子供でありながら、20メートル以上の木にやすやすと登ってしまえるということに、私は強く印象づけられた。

子供は意外と身軽で、自分の身体を支えるだけの筋肉が発達すれば、器械体操や鉄棒の技も、高度に発達させられることがある。生まれてからの指導という観点もあるのだろうが、ゲデオンの場合は、前世における体験というものが、木のぼりの技術に、DNAや親の素質とは、まったく関係なく、魂がもっているものとして、独自に「遺伝」していたのだ。

生まれつきの才能が優れているとか、親の性質を受け継いでいるとか、遺伝や発育にかかわる多くの謎が、この物語によって、あまりにシンプルに解決されている。人の才能や性質に生まれつきの違いがあるのは、両親からのDNAによるのではなく、その魂の、前世における経験やトレーニングにもとづくことなのだ。

 ここから、次のように考えることができる。人生において目指すことは、もちろん、生まれてきたからには、何らかのテーマがあって、そのことに取り組む必要があるのだろうが、そのこととは別に、次の人生のために、繰り越してたくわえておけるものを、余力があるのなら、できるだけ、そのことのために、時間や機会を向けてゆくべきだということである。それは、お金をはじめとする資産のことではない。そのようなものを、あの世にもってゆけないことは、よく知られている。

しかし、あの世へも、つぎのこの世へも、もって行けるものがある。携帯電話の料金のように、繰り越しできるものが、私たち自身にもあるのだ。そのことを私は、ささやかな小説のなかで、「ミームは繰り越し可能」と表現した。木のぼりの技術だけではない。弓矢の技術、川や湖で泳ぐ技術、すばやく走る技術、鳥や獣の鳴き声をまねる技術、などなど、一つの生から、あの世を中継して、次の生へと、それらの技術を習得するときの「才能」というミームは、魂のどこかに、きっと、刷り込まれたまま、消えることはない。

もちろん、生活のために必要なお金というものはある。ある程度の資産のようなものが必要なこともある。しかし、それらが最終の目的であると考えて、一つの人生において、使うことのできる時間と機会を浪費すべきではない。よくよく見極めて、必要最小限のもので満足することとし、それよりも、これからの、何度も何度も繰り返される生のためにも、そして、現在の生のためにも、いったい何に取り組むべきなのかと、しっかりと考え、悪いことではないということを条件として、何か、自分がやりたいことに取り組むべきなのである。

そのような生き方が、現在の生を豊かにし、さらには、次の生へも、魂のミームとして、自分自身の生において「遺伝」してゆくのだ。歌がうまくなること。上手に踊れること。もっと速く走れること。なんでもいい。

死んだら何も残らない。せめて、自分の葬式代だけは貯めておこうと考えて、貴重な時間を、やりたくもないことに費やすべきではない。死んだら何も残らないというのは、悪魔か何らかの自己中心主義者が、自分たちのために広めたプロパガンダにすぎない。

死んでも、ミームは残ってゆく。子供を作らなければDNAは残らない。私たちは、そんなDNAのために生かされているだけの存在だというのも、間違った考え方だ。DNAなんて、この宇宙のどこにでもあるだろう。乗り物としての肉体も、待ち時間はあるかもしれないが、形態の好みを問わなければ、いくらでもあるだろう。

ゲデオンが、前世での技術をミームとして、自分自身の魂において「遺伝」させてきて、西洋人が恐れるほどの高い木に登れるようになっていたのと同じように、現在の生でやっていることは、いずれ、べつの生で役立つようになる。だから、現在の生と、このあとすべての生につながってゆくように、何か、自分自身の能力を変えてゆくようなことにチャレンジすべきなのだ。

 イアン・スティーヴンソンの「前世を記憶する子どもたち2」から学ぶべきことは、他にもある。これは、本の中に書いてあったことではない。本に書かれてあったのは、「前世」というものの存在が、それを記憶している子供たちの調査によって、明らかにされてゆくということだけである。しかし、このことがひとたび明らかになると、そこから、多くのことを学ぶことができる。そのような意味で、この本は、非常に大きな意味を持っている。

 私の記憶の中に、強く印象づけられている事例は、この本の第3部「事例報告――子供たち」の最後に収められている、「テウヴォ・コイヴィスト(フィンランド)」の物語である。

イアン・スティーヴンソンは、数々の事実を調べ上げてゆく。1971年にフィンランドのヘルシンキで生まれたテウヴォ・コイヴィストは、前の人生では、ドイツの収容所で、他の子供たちといっしょに「オーブン」に詰め込まれたあと、今の母親のもとにやってきたのだそうだ。

 アフリカの熱帯で暮らしていたゲデオンが、肌の白い人ばかりのハンガリーで生まれているというところで、もっといろいろなことに気づくべきだったのだが、私は、このテウヴォのところにくるまで、そのことには、ほとんど気づかなかった。

私たちは、肌の色が黒く生まれることもあれば、白く生まれることもある。戦争の犠牲となって死ぬこともあるし、ガス室に送られて消滅させられることもある。しかし、それで「終わり」ということではないのである。

何の間違いか、すべての罪をヒトラーだけに押しつけることができずに、現在でもドイツに生まれた人々は、そのときの民族の行為の責任を負って生きようとしている。

しかし、そのときユダヤ人だった魂の一人は、フィンランド人として生まれてくるのである。

 ここから学ぶべきことがある。それは、地球の上で、現在所属している国家や人種や性別が、今度は、どうなるかは分からないということである。現在、何らかの特権をもって生きていて、明らかに豊かな地位と暮らしと財産をもっているとしても、次の生では、そんなものは、まったく自由にならないかもしれない。

憎くてたまらない敵のようなものがいたとしても、そいつを消してしまえばいいということには、決してならない。灰も残らないように相手を消してしまったとしても、そいつは、次の人生では、まさに、しかえしをするために、生まれ変わってくる。そのような方法で、問題は、決して解決することはない。

このような、ごくごくシンプルな力学のようなものを、まったく無視して、多くの地球人が生きている。資源をかきあつめ、エネルギーを浪費して、何が豊かなことかと、まったく考えることなく生きている。

 私たちに備わっている国や民族や性別は、いまここで演じられている物語の、単なる配役にすぎないということを、イアン・スティーヴンソンの「前世を記憶する子どもたち2」という本は気づかせてくれる。

そのことを思い出した私は、それでは私は、私のできることとして、いったい何をすべきなのかと考えることになる。そして、私には、することがいっぱいあるということを知る。こうして、私は、何回も落ち込んでしまっていた「うつ病の底なし沼」から、ようやく這い出すことができた。やり方は、一人一人によって違う。できることも違う。それらの違いを問題にしてはいられない。とにかく、私にもやるべきことがあるということに気づかなければ、そこから抜け出すことはできなかった。

 現在の私は、円もドルもユーロも、カランやコロンやイコカといった、あらゆる交換単位を、ほとんどもってはいない。それなのに、これらに結びつかないのが不思議なくらい、豊かな知的財産をたくわえてきている。どうやら、これは、何らかの病気の一種なのかもしれない。極端症あるいは純粋シンドロームといったところか。そろそろ、こんなことはやめて、自分の生活のために生きようとしてもよいのかもしれない。

 (2010.02.27 Written by Kinohito KULOTSUKI)

 参照資料

[1] 「前世療法」, ブライアン・L・ワイス著, 山川紘矢・亜希子訳, PHP文庫

[2] 「輪廻体験」, 片桐すみ子編訳, 人文書院

[3] 「輪廻を越えて」, ジュディー・ラドン著, 片桐すみ子訳, 人文書院

[4] 「チベットの生と死の書」, ソギャル・リンポチェ著, 大迫正弘・三浦順子訳, 講談社

[5] 「前世を記憶する子どもたち2, イアン・スティーヴンソン著, 笠原敏雄訳, 日本教文社

[6] 「前世を記憶する子どもたち」, イアン・スティーヴンソン著, 笠原敏雄訳, 日本教文社