RaN27 カー体・プラーナ体・エーテル体が弱まっているときの病気
RaN27 Disease Comes From Weak Ka-Plana-Ethel Body
黒月樹人のランダムノート (Random Note by Kinohito KULOTSUKI)

 これはRaN26で書き始めた文献調査の一項目。

 カー体やプラーナ体の文献調査を進めようと考え、私は、蔵書の豊富な、森の図書館に行った。図書館へ入るまえに、ドングリを何個か拾った。今度はこれを調べようと思う。

検索のためのコンピュータのディスプレイを指でなぞって、何冊かの資料をチェックし、それらを書庫から取り出してきてもらって、借りた。この中に、ルドルフ・シュタイナーの本も何冊か含まれていた。確か、シュタイナーは、種子の中に秘められている、霊的なボディを見るようにトレーニングすると良いということを、どこかの本で書いていたはず。それを探しだそうと思っていたのだ。検索カードの中に、書庫ではなく、公開されている書棚にあるというものが含まれていた。そこを探すようにと指示された。シュタイナーの本は何冊かだけ並んでいたが、その中に、これは面白そうだと思った本があった。「人間の四つの気質」[1] というタイトル。何がおもしろそうかというと、目次のところに「なぜ服を着るか」とか「何を食べるとよいか」という項目があって、まるで、最近のハウツーブックや、雑学の文庫本にありそうな、ごくごく平凡な、それでいて、生活に結びついたものであったからだ。

 これに先立って、私は、「ハトホルの書」[2] を、少し読み返し、カー体もしくはプラーナ体を弱らせてしまうと、どのような状態 (病気のこと) になってしまうかということが説明される部分を読んでいた。第二章の「エネルギー体としての人間」のところである。ハトホルたちが「カー体」と呼んでいるものを、シュタイナーは「エーテル体」と呼んでいる。エーテルという用語は、現代の化学や少し過去の物理学で、よく現れることがあり、混乱しやすい。また、ハトホルらは、「エーテル空間」を、これらの、カー体などがふくまれるところより、さらに精妙なものとして使っている。また、プラーナ体というのは、インドのヨガに伝わっている用語である。このあとの説明に関しては、ハトホルらからエジプト文明に伝えられた「カー体」という言葉を優先して使おうと思う。

 シュタイナーの「人間の四つの気質」の中にあるエピソード。これは「心身を元気にする七つの方法」という章にある「A別の字体で書く」という節にある。シュタイナーが取り上げた「病人」というのは、「郵便局の窓口に座っている職員」や「ものをたくさん書く人々」である。そして、彼らのクセのようなものとして、書きだす前に、彼らが空中で何かを書く動作をやっているということを指摘している。文字を書きすぎていて、腕が痙攣しているのだそうだ。

私は、それほど速く、大量に文字を書く仕事についたことはない。文字をたくさん並べることを、何度かやっていたが、文字を書く時間より、考えている時間の方が長かった。そういえば、生活のためにやらなければならなかった仕事の中で、右手だけを激しく動かすものがあった。金属鋳造のための砂型のバリ取りというものだ。私はアルバイトだったのだが、朝の8時から夜の8時まで、昼の休憩以外は、ずうっと続けた。一つの製品を何秒で仕上げるか。これが私たちの評価の基準だった。はじめは、技能を高めてゆく工夫を、いろいろと思いつき、上達してゆくのが誇らしいと思えていたが、このようなことは、あっというまに収束してしまう。それからは、毎日が嫌でたまらなかった。休日には、コンピュータに向かった。何も考えずに、時間を過ごしてゆく、単調な仕事の反動で、私は、ホームページを、可能なかぎり知的なものとして構成しようとがんばった。かくして、私の右手は、平日も休日も酷使されたのだった。そして、ある日、この右手が自由に動かなくなってしまった。肩より上へと、自力でもちあげられなくなったのだ。左手で補助して持ち上げたとき、痛みは何も生じなかったので、いわゆる五十肩ではなかった。平日の仕事を始めようとしたが、まったく仕事にならなかったので、早退した。数日たっても同じだった。病院にゆき、検査してもらったところ、首から肩へとのびる神経の一部が圧迫されているという診断だった。これの治療には数カ月かかった。アルバイトの仕事はやめた。早退するとき、「左手も動かなかったらたいへんなので」と言ったのだが、この仕事に復帰して、右手や左手が、同じように動かなくなったら、たいへんなことだからだ。

 シュタイナーの例へと戻ろう。文字を書きすぎている人も、「文字を書くまえに、絶えず指をぴくぴく動かすほどに重症」になるという。これに対して、おそらく、神経症の医者は、「休暇をとって、しばらく書かないこと」という処方をするだろう。ところがシュタイナーは、この処方では「半分しか的を射ていない」と述べて、もっと良い方法を提案している。それは、「別の書体で書く」ということである。すべての書く文字を、このようにするわけではない。肉体を使うときの準備体操や、気分転換の散歩をするようなものなのだろう、「一日十五分か三十分でじゅうぶんだから」と説明している。ただし、時間はわずかだけれど、神経を使う程度は、無意識に文字を書くときより、ずうっと大きなものになっている。「いままでの筆跡とは異なる、まったく別の書体の <F> を、注意を払って書いてみなさい。文字を入念に書くようにしてごらんなさい」とある。休ませるということの、これは、まったく別の方向だ。しかし、これまでの習慣的な動作とは、ひとつ違っている。それは、動作と意識とがつながっているということである。

 シュタイナーの説明を読んでも、現代科学や現代医学の視点だけにとらわれている人は、いったい何のことかと思って、笑い飛ばしてしまうかもしれない。しかし、カー体を見ることができ、このような、精妙なボディというものが、ほんとうに存在しているのだということを知ったら、シュタイナーやハトホルらが淡々と説明している、人間の肉体に重なっている、さらに希薄な疑似物質体があるということを、まだ確認するほどの能力をもたなくても、このような視点から考察したほうが、つじつまが合うことに気づくだろう。

 シュタイナーの説明は、次のように展開されてゆく。

 @書体を変えるとき、注意を、自分の行為に向けることになる。Aこれは、自分の存在の核を、自分の行為と、密接に関係させることとなる。Bこのことが、私たちのカー体 (シュタイナーの文献ではエーテル体) を強めることになる。Cよって、私たちは健康になる。

 この説明は、いくつかの要素が省略されており、かつ、抽象的になっているので、分かりにくい。ここでの意味を、もう少し分かりやすく、私が補って説明しよう。シュタイナーは、人間と言うものが、幾つかの断面に分けられると述べている。(A)もっとも物理的な肉体としての身体、(B)カー体(エーテル体)(C)意識としての自分、(D)自分の存在の核、ここでは、このような分け方だろうか。文字を書きすぎていて、腕が思いのままになっていない人は、おそらく、(A)だけが切り離されて、独自に活動するようになっており、このとき、(B)が弱くなっていた。そこで、(C)が、意図的に異なる筆跡で文字を書くことにして、このために必要な、(D)からの、(C)(B)(A)への何らかの作用を呼び起こし、その結果として、(B)を強めることとなり、(B)から(A)への指令のメカニズムのところにたまっていた、塵のようなものを取り除いた。

 最近、私の部屋のデシタルテレビの映像にノイズがのるようになって、これは、アンテナにおけるコードが、長年外にあったため、何らかの劣化を起こしているものと考え、このコードを取り換えた。ところが、ノイズは、いっこうに減らない。アンテナそのものがおかしいわけではないということは、別の部屋にある、同時期に買ったデジタルテレビの映像がおかしくないということから、判じることができる。コードの接続部分を切り裂き、銅線をねじって結びつけるだけではなく、ハンダを溶かして接続した。それでもだめ。わけがわからなくなって、私は、そのデジタルテレビに向かって「しっかりしろよ」とつぶやきながら、友人の肩を叩くように、そのテレビの上部を叩いた。すると、突然、画像のノイズが消えたのだ。上部だけとは限らない。両横を叩いても、同じように、ノイズは消えた。こいつは昔のテレビと同じなのか。かくして、私は、部屋のほこりが、このテレビの内部に入り込んで、どこかの電気リレーの接続部分へと集まり、何らかのわるさをしているのだという考えに至った。テレビを叩けば、その振動で、そのほこりが落ちるのだ。しかし、静電気の作用か何かで、しばらくすると、また、ほこりが集まって、ノイズが現れる。

 人間というものも、上記の(A)(D)のように、いくつかの要素があって、それぞれのつながりがうまくいっていないと、病気になるということなのだ。私たちの電子機器の制作者がテレビのメカニズムを知っているのと同じように、シュタイナーは、人間の幾つもの要素や、それらの関係を、よく知っていて、人間のシステムにおける故障としての病気を、ごくシンプルなモデルによって説明しているのである。

 シュタイナーと同じような視点で、もっと広く、人間の健康や病気と、カー体との関係を、ハトホルたちは説明している。「ハトホルの書」の第二章「エネルギー体としての人間」へと移ろう。

 「肉体」と「カー体」は、よく似た形であることから、「エーテル的ツイン」と呼ばれている。「カー体」は「プラーナ体」と呼ばれることもあるが、この「プラーナ」というのは、これらの「体」とは独立したもので、「酸素のなかに存在する生命維持に不可欠な力」であるが「酸素と呼ばれるものとは異なる」と、ヨガでの説明を引用している。「プラーナは広大な植物繁茂域や水流域において増強」するとある。なんだか、現代文明で述べられている「マイナスイオン」と似ている。同一視できるものかどうかは分からない。このあたりの説明を、もう少し具体的なイメージに置き換えてみたい。まず、私たちの肉体は、ガンダムとかエバンゲリオンのような、ロボットだと考えてみよう。たたし、このロボットは、水中にある。このとき、このロボットを、ゼリーによく似たものがシールドしており、このロボットが動くための、エアーや電気のような動力を提供している。このゼリーによく似たものが「カー体」ということになる。「エアー」や「電気」に相当するものが、「酸素」や「プラーナ」ということになろう。

 シュタイナーもハトホルたちも、この「カー体」を活性化させる、より精妙なボディがあると説明している。それらのボディは、より高次のボディによってコントロールされているのだそうだ。ただし、ある程度の自動操縦ができるようになっている。このあたりのことは、スポーツのトレーニングをやっていると、よく分かる。私たちは、いつも、そのすべての動きをコントロールしなくても、走ることができるし、自転車に乗ることもできる。もっと難しい、ハードル走や棒高跳も、慣れると、ほぼ自動的に行うことができる。上記の郵便局員のように、数多く文字を書く人は、この自動化作用を駆使しているはずだ。ところが、このことがきょくたんに進んでゆくと、肉体をつつんでコントロールしているカー体が弱まるというのだ。「スポーツには生産的な意味が何もない」というのは、このあたりの事情を知らない、間違った考えだ。スポーツには、肉体とカー体との結びつきを強化するためのプログラムが数多く用意されている。

 「肉体」「カー体」のほかにも「感情体」「コザール体」「アストラル体」というものがあると、ハトホルらは述べている。シュタイナーの用語では「アストラル体(感受体)」と表現されており、ハトホルらの「感情体」と「アストラル体」のところが識別されていないのかもしれない。

 「プラーナは広大な植物繁茂域や水流域において増強」するという記述は重要である。私は、このような状況からは、ほど遠いメガロポリスで生活していたことがある。仕事がいそがしくて、ときどき海や山での「現場」の仕事があったときには、あまり感じなかったのだが、政治や社会の変化の波にさらされて、リストラで仕事を失い、一人になったとき、ふと、街を歩いて、強い夏の日差しをさえぎる木立が、ほとんどないことに気づいた。大きな河の近くに住んでいて、河へと向かうこともできたが、そこには、住むところをなくした人々がいて、空き缶などを集めて暮らそうとしていた。おそらく私のカー体は、どんどん弱っていったのだろう。住むところがなくなったわけでもなく、貯金が空っぽになったわけでもなかったのだが、この領域でのハローワークで、新たな仕事を見つけようという意欲が、どんどんなくなっていった。どこか、もっと自然の多いところで、仕事を見つけようかとも考えたが、色々と条件があわないのだった。かくして、無条件で受け入れてくれるところへと戻ることになったのだった。そのとき、私のカー体は、ほとんど瀕死状態だったと思える。まったく生気のない顔をしていたようだ。やがて、コネのようなもので仕事を得、この、自然が豊かで、水もきれいなところで生活してゆくにつれ、「元気」を取り戻すことができたのである。「元気」を取り戻すとは、シュタイナーやハトホルらの観点から説明すると、「カー体」が強くなったということなのだろう。なんとなく、そうだったのかと納得する。

 「ハトホルの書」においては、さらに詳しいことが述べられてゆく。平たく言うと「カー体」を強めるためのトレーニングということになるが、もう少し専門的に言うと、これまでの宗教において伝えられてきた、修行の方法ということになろう。座禅や滝行というものは、このハトホルらのトレーニング法を、そのまま伝えたものか、あるいは、独自に解釈して、より強化しようとして、逆に、横道にそれてしまったものかもしれない。

 シュタイナーが「異なる書体で文字を書く」ことを、文字を書きすぎて神経症になった人への、より効果的な治療法であることを述べたが、このときの説明を読んで、私は、これが、バグワン・シュリ・ラジニーシが「瞑想」として再定義したことの、ほんとうの意味だということに気づいた。スポーツのトレーニングほどシビアーなものでなくてもよいから、何かの運動を、意識的に行う状態を、いくつも提案し、それが、ほんとうの「瞑想」となるということを、バグワン・シュリ・ラジニーシは述べたのだった。これについてのメカニズムのようなものを、私は、読まなかったし、知らなかったが、シュタイナーの説明を読んで、ようやく分かった。「瞑想」とは、「肉体」や「カー体」や「意識」や「核」のつながりを、より強くし、それらの各々を高めてゆくことなのだ。かくして、肉体は健康なものとなり、意識や精神は安定したものとなる。人生において、何らかの問題が現れたしとても、なんとか、それを解決してゆけるだろう。

 人生における現在の状況はとんでもないものだから、自殺したいと人が考えるとき、おそらく、その人の「カー体」は弱っているはずだ。弱っているのは、もっと高次のところかもしれない。「感情体」とか「アストラル体」とか。これらのすべてを組み合わせた「自分という存在」の、いろいろなものの機能がおかしくなっているのだ。これに近い状態に、私も、何度かおちいってきたので、このことは、よく分かる。健康な人にとったら何でもないようなことが、カー体より高次のボディを病んだ人にとっては、命をかけるほど重要なことに思えてくる。これまでに、私は、何度も「うつ状態」になったが、頭で分かっていても、身体や気分が変わるまで、どうしようもないのだった。不思議なことに、およそ6ヶ月が経過すると、頭と気分の意思疎通がうまくいくようになり、前向きな何かをすることができて、この泥沼から這い出せるようになっていた。肉体の骨折などの傷が治るまでに時間がかかるのと同じように、目に見えない「カー体」や「感情体」も、それらが治るには時間がかかるのだろう。生き方や視点や価値観のようなものを、頭で変えたところで、これらのボディが壊れたままだったら、全体としての自分は、まだ完治していないということになる。一日や二日で治るものではないのだ。

 私が若いとき、「うつ病」はまだ精神病の一種で、特別なものであると考えられてきた。ところが、何度も「うつ病」から、普通の状態へと戻ってくると、「うつ病」は精神病の分類から追い出され、まるで、ウィルスによる伝染病であるかのように、何人に一人という確率で、多くの人に広まってきている。知っているところでは、隣近所に住む人や親戚のおばさんなど、何人かリストアップすることができる。なぜだろうか。おそらく、この「うつ病」の本質的なことがらが、現代文明の治療師(あるいは祈祷師)たちに、正しく理解されていないからだろう。カー体と肉体の関係なぞ、診察室で、患者のほうから言い出したら、さっそく、拘束服を着せられて、まるで法定伝染病者であるかのように、隔離されてしまうかもしれない。あげくのはては、脳みそを切り取られ、すべての社会生活から遠ざけられてしまう。治療薬によって、どんどん、病状がひどくなり、すっかり麻薬中毒状態のようになってしまう。これが、どうやら、現実なのだ。

 シュタイナーの視点が、現代文明の、精神を取り扱う治療師たちに少しでもあれば、こんなに多くの人々に「うつ病」が広まることはなかっただろう。おそらく、日本で激増している自殺者の数も、もっと減ってゆくことだろう。確かに、仕事がなくて、経済がドン尻で、夢も希望もなくて、おまけに、政治がガタガタであるのだから、追いつめられてしまったとき死にたくなるのも、なんとなくわかる。これらの周囲の状況の中で、このような自殺候補者たちの、ほんとうの状況を理解できないでいるということが、この問題を難しくしているように思えてくる。精神を取り扱う治療師たちだけでなく、生活を安定させるための相談者たちも、もっと学習して、いったい私たちに欠けているものは何かということを問い直してほしい。あまり強くですぎると、せっかく完治している、私のカー体や感情体の状態が不安定になりそうだ。ハトホルらのコメントへと戻ろう。

 「ハトホルの書」には、「カー」に影響を与える、他の要素のことが書かれている。「食べ物」や「飲み物」である。「カー」を強いものとして築くためには、「生命力」の強いものを食べるべきだとハトホルらは言っている。ここで、現代文明に浸っている人々は、ヤキニクやステーキを食べればよいのだと、勝手に解釈してしまうかもしれない。ところが、ハトホルらの説明では、この「生命力」の強いものの具体的な例は、「生の野菜や果物、あるいは発芽穀物」である。「ファーストフード」は死んでおり、たいていの「コンビニ・フード」も、「カー」を激減させるとも書いている。さらに、「肉」は、逆の効果をもっており、「肉類を消化するには、大量のプラーナが必要になる」とある。表現はシンプルだが、しっかり読めば分かるだろう。私たちは間違った考えをしているのだ。

 牛や豚や鳥のような、人より体温の高い動物の脂肪が、人の血液をドロドロにするが、体温の低い魚の脂肪は、その逆の作用があるという、ごくシンプルなメカニズムが、あまり広まらないのは、経済や政治の、何らかの力学のせいだろう。

 シュタイナーは、これらの動物の肉を食べるということは、これらの物質体だけではなく、ここに付随している「カー体(シュタイナーによればエーテル体)」も、いっしょに取り込んでいることになり、さらには、より高次なボディの影響も、いっしょに取り込んでいるという視点で、幾つかの問題点を指摘している。これらのことが明確に確認され、一般的な知識として広まれば、この社会を構成している人の、肉体だけではない、全体的なボディが、もっと健康になって、思考や行動において、より好ましい選択がなされるようになるかもしれない。

 ハトホルらは、肉食についての問題点を、ごくごくわんきょくな表現で伝えたあと、次のようにまとめている。

「したがって、食べものに気をつけ、できるだけ汚染されていない清潔な食物を摂ることによって『カー』は強められるのです。汚染されていない水を飲むことも(中略)非常に大切です。」

ここのところの表現は意味深である。ハトホルらが、私たちに対して、このように言うのは、私たちの食物や水が、おおよそ汚染されているということを示している。

ハトホルらの注意は、こうも続いてゆく。

「できるだけ自然の近くで暮らし、汚染されていない新鮮な空気を吸い

私は、ふと、政治や社会の自己中心的な流れによって、メガロポリスでの仕事をリストラされ、そこから追い出されたことを、今ようやく、幸せだと思うようになれた。仕事や地位や栄光を奪われ、収入も激減し、生きる希望も失ったかに思えていたかもしれないが、今の私には、これまで持っていたものが、ほとんど無いにもかかわらず、これからも、できるだけ生きて、やるべきことが、たくさんある。法律的な意味での財産とよべるものは、ほとんどない。しかし、知的財産と呼べるようなものは、ずいぶんと増えてきた。このページというものも、ほんのささやかな「おすそわけ」のようなものかもしれない。

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参照資料

[1] 「人間の四つの気質」,  ルドルフ・シュタイナー著, 西川隆範訳, 風濤社2000

[2] 「ハトホルの書」, トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著, 紫上はとる訳, ナチュラルスピリット 2003