RaN28 ヒーラー・カー・吸血鬼Healer Ka Vampire
黒月樹人のランダムノート (Random Note by Kinohito KULOTSUKI)

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 これもRaN26で書き始めた文献調査の一つ。

 「ハトホルの書」[1] は、ハトホルらによって、直接語られたものではなく、地球人のトム・ケニオンがチャネラーとして、この星での受信機の役目をしている。この書物の内容が、非常に質の高いものであるのは、もちろん、これらの知識の源泉であるハトホルらに大きく依存しているが、インタビューアーとしての、ヴァージニア・エッセンの、質の高い質問に負うところも大きい。ハトホルらは、私たちの視点や観点を大きく包み込んで、私たちのためにならないと思われることには、やんわりとカバーをかけて、婉曲に表現しようとしている。そこのところを、巧みな質問によって、ヴァージニア・エッセンは、ハトホルらから、ずいぶん重要な内容を引き出している。

 たとえば、ヴァージニア・エッセンは、「カー」の増幅に役立つことを、もっと教えてほしいと、ハトホルらに頼んでいる。これに対して、ハトホルらの返答は、非常に意味深いものとなっている。この質問に対して、ハトホルらは、儀礼的な返答に続き、このように語っている。

 「しかし人間の性質を知っているわたしたちとしては、あなたがたの強い抵抗感への配慮から、つつしむべき事柄を列挙することはあまりしたくないのです。」

 ここのところを、もっと無神経に語るとすれば、次のようになるかもしれない。

「人間が知ってしまうと、ショックが強すぎて、驚きのあまり拒否反応を生じてしまうので、言いたくない。」

 このような返答に対して、ヴァージニア・エッセンは、次のように、切り崩してゆく。

 「わかります。ただ、それが役に立つ人々のためにできれば全部お話いただけませんか。」

 うまい。全部明らかにしてほしいとまで要求している。こうして、引き出された内容については、このあと、私の編集により、かんたんにまとめることにしたい。

 (A) 人工的な興奮剤や刺激剤にたよっての無理で「カー」が枯れてしまうことがある。

 (B)「カー」の枯渇により、体の故障へとつながる。

 (C)「カー」が尽きると、上昇らせんに沿って意識が進むことができなくなる。

 (D)「カー」の枯渇を防ぐ方法

    D1 休息

      D2 エクササイズ(ハトホルらによるカー体強化のトレーニング)の実践

      D3 適度な運動

      D4 正しい食事と水(RaN27参照)

      D5 ボシティブな思考と行為を意識的に保つ

 (E) 関わる人の種類によって、カーが強化されたり、消耗したりすることがある。

 このあとヴァージニア・エッセンは、「癒しのエネルギーを分かち合おうとしている人々のために」と切りだして、ヒーラーについての注意点を聞き出そうとしている。ハトホルらの回答を次にまとめておこう。

 (F) 自分以外の人のエネルギーを扱うとき、そのヒーラーの純粋性が高まっていないと、危険なことが生ずる。

 つまり、ヒーラーのエネルギーのほうが枯渇してしまい、ヒーラーそのものの健康や生命が危険な状態になるということである。たとえ、患者とヒーラー(あるいは治療者)という関係が成立していなくても、エネルギーを必要としている人は、得られる可能性のあるところから、エネルギーの移動にかかわる双方が気づかない状態で、エネルギーを引き込んでしまうという現象が起こる。ここでのエネルギーとは、「カー」によって保持されている、生命をつかさどるエネルギーのことであり、すなわちプラーナのこと。

 人のエネルギー場は、「光の卵」と呼ばれることもある。これらの「光の卵」のエネルギー場がつながるとき、エネルギーを求める側から、エネルギーをもつ側へと、いくつもの「ひも」が送られる。これを介して、エネルギーの移動が起こる。このようなことは、互いの意識が知らない状態でおこなわれる。このことが「吸血鬼」の象徴的な意味である。つまり、吸われるのは「血」ではなく、「プラーナのエネルギー」である。

 私は超能力を使ってのヒーラーになろうと思ったことはない。しかし、若いときの最初の職業が教師だったので、このような現象の、具体的なあれこれといった現象を、何度も体験している。エネルギーを吸われた相手を吸血鬼と呼ぶつもりはないが、あまりの問題の多さや大きさに耐えられず、私のエネルギーは、何度も枯渇していたのだろう。実際に、慢性的なものと、急性の、肺炎もしくは結核を抱え込みながら、教師という仕事を続けていた。今から思うと、むちゃだった。採用前の、検診結果を提出するためのX線写真で、肺に結核の影があると言われたとき、教師になるための検査なので、なんとか見逃してほしいと訴え、「所見なし」と書いてもらった。今から思うと、訴えられそうなことだ。精神的にまいっていたとき、周囲のだれかから、エネルギーを吸い取ったかもしれない。もちろん、意図的なものではなかっただろう。生徒や、その親に対しては、それほどの疲労を覚えた記憶はない。ただし、同僚の教師や、先輩や管理者らに対しては、いろいろと悩まされた。あんな若造だったのに、背負いこむものが重すぎたようだ。私は、あっとうまにつぶれてしまった。あのとき、これらのエネルギーの収支のことを知っていたら、もっと注意深く行動していただろう。

 ヴァージニア・エッセンは、ヒーラーに関して、もうひとつ重要なことを聞き出している。ハトホルらが「別のレベルで起こるエネルギーの消耗」と説明する現象のことである。つまり、ヒーラーの意識がどのようなものであるかということにより、このエネルギーの流れは、大きく変わってくるというのである。

 このプラーナによるエネルギーの流れに関して、「手かざし」という現象が、かつては流行していた。街かどで「あなたのために祈らせてください」といって、ヒーラーになるための修行をしようとする若者がいた。科学の分野では無視されている、このエネルギーの流れという現象を知った者が、これこそ、自分自身を他と区別するものだと意識して、かつての偉大なヒーラーのように、他の人々から信頼され尊敬される、特別な人間になりたいと考えているのだろうか。私も、何の特別な意味も自分に見出せなくなり、教師を辞めて失ったものを、少しでもとりもどしたいと考えたことがある。しかし、私は、そのようなグループに入り、義務か修行として、「あなたのために祈らせてください」と、欺瞞にみちたセリフを放つことはできなかった。何の関係もない他人に対し、「他人のために祈りたい」と願っているのだったら、何も語らずに、こっそり祈っているだろう。そんなことが心からできるまでの「悟り」が開けたと思えたことは、まず、なかったと思う。

 潜在的に、他人のために、何らかの超感覚的な力を使ったのではないかと思えることがある。私が教師をしていたときのこと。下校時刻前だったが、生徒や先生が、自転車置き場のところで騒いでいる。行ってみると、生徒の自転車の鍵が、かけられたまま、どこかに消えていたのだ。これでは、その自転車の持ち主は、遠くまで歩いて帰らなければならない。集まった生徒と教師で、その鍵を探すことにした。そして私は、何も考えず、すたすたと、まっすぐ歩いてゆき、その先にあった、学校の敷地と周囲の田んぼとを分ける低い金網の柵から身を乗り出して下を見た。そこの土の上に、鍵は落ちていたのだった。まるで、これでは、私が隠したところへ自分で向かっていったようなものだった。しかし、そのようなことがあり得ないということは、いっしょにいた教師が知っていた。私たちは、ずうっと職員室にいたのだし、その生徒は、初めて見る相手だった。何の関わりもなかった。同僚たちは、私をエスパー扱いしていたが、このようなことは、いつもおこるようなことではないので、やがて私は、平凡な能力しかもたない人間として教師の仕事を続けた。このとき、私は、口にも出さなかったし、そのように意図した覚えはないが、潜在的に、このように思ったのだろう。「この生徒のために見つけたい」と。

 ヒーラーでもなければ、カーやプラーナのことではなかった。戻さなくては。「手かざし」のことであった。このようなことが可能だということは知っている。手から何か、半物質的なものが出ていて、他人と、空間を隔てて接することができる。他人の身体に何らかの障害があるとき、別のバイパスのようなものとなって、プラーナの流れを補助することができる。このことを本で読み、身近な人に頼んで、テストさせてもらったことがある。もちろん、「あなたのために祈らせてください」などとは言っていない。何度かためして、ほんとうだと分かったものの、このテストが終わったあと、自分の体調が悪くなってしまうので、まったくやらなくなった。他の人を癒して、自分が病気になっている場合ではなかったのだ。まず、自分のことをなんとかしなくてはならなかった。

 ハトホルらの注意は、今の私にはよく分かる。ハトホルらは、次のように述べている。

「なぜ自分が人を『癒す』立場にあるのかを、思考でも感情でもきわめて明確に把握している必要があります。人を助けたい、よい人間でありたい、尊敬されたいなどという罪のない願望でさえ、潜在的な汚染要素ならびに歪みや消耗の原因になる可能性があるのです。」

もちろん私は人を「癒す」立場になぞ、なれはしない。かつての地方公務員としての教師のようには、現在および、この先の生活について、まったく保障されてはいないのだし、いわゆる「民衆の下僕」という地位からは、さっさと逃げ出したわけである。かつては、なんとかしてやらねばと思っていたかもしれない生徒たちも、すっかり大人になっている。こっちがなんとかしてほしいくらいだ。

それなのに、こんなものを書いているって? これはただ、私のもとに流れてくるものを、かろうじて普通に動くようになった右手をつかって、形にのこるようなものへとするために、キーボードをあちこち叩いているだけだ。私個人としては、私のホームページに、新たに異質なページが増えて、これらを見た誰かに、また、「スゴイ」と言われるのを想像して、自分自身のエゴを満足させているだけに過ぎない。そんなことだから、何か行方不明の鍵のようなものがあったとしても、そのときの超能力なぞ、どっかに消えてしまっているのだ。今現在、ホッチキスで閉じた紙束の、そのホッチキスの針を手軽にとることができる道具を探しているのだが、いっこうに見つからない。ホッチキスのほうは、3つも4つも見つかっているというのに。(2010-03-05)

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参照資料

[1]「ハトホルの書」, トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著, 紫上はとる訳, ナチュラルスピリット 2003








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