RaN29 ルドルフ・シュタイナーの地球年代記The Earth Chronicle by Rudolf Steiner
黒月樹人のランダムノート (Random Note by Kinohito KULOTSUKI)
RaN29 ルドルフ・シュタイナーの地球年代記

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 ルドルフ・シュタイナーの「地球年代記」[1] という本が日本語に訳されて出版されている。図書館で借りた時、裏表紙の内側にある返却日のスタンプを押す白い紙に何も無かったので、「わあ、第一号だ」と、つぶやいてしまった。「20091225日初版第一刷発行」とある。かなり新しい。古くは、シュタイナーの「アカシャ年代記より」[2] が、国書刊行会から昭和56年に出版されている。1981年のことである。こちらは、かなり難しそうな内容で、「幻想文学」というシリーズの中に含まれている。高橋巌氏の翻訳。なるほど、難しそうに思えるのは、翻訳者の個性にも由来するのだ。高橋巌氏の翻訳で、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」[3] という本が1979年にイザラ書房から出版されている。かつて所持していた本であるが、現在、所在が不明なので、図書館で借りた。白い布張りの装丁で、金文字でタイトルが印刷されている。すでに書庫におさめられているが、「返却日付票」には、1981年から2002年まで15回の借り出しがあったことが記録されている。ところで、今回、図書館でチェックして借り出した本の中に、松浦賢氏の翻訳で、「いかにして高次の世界を認識するか」[4] という名の本が柏書房から2001年に出版されていることを知り、これも借りた。こちらのスタンプをチェックすると、2001年から2009年まで、21回も借りられている。内容を確認すると、これは、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」の新訳であることが分かった。初期の翻訳では、できるだけ原典の内容に忠実にと、こまかな表現まで厳格に翻訳されていたようだが、新訳では、大胆に意訳されている。タイトルを比較するだけで、そのことは分かるだろう。これらの本についての図書館での取り扱いを見ると、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」は「いかにして高次の世界を認識するか」にとって代わられたようだ。まったく同じ内容なので、生態学でいう同じニッチということになる。

 「地球年代記」の翻訳は西川隆範氏によるもので、流れとしては、現代風の、「です・ます調」で大胆に意訳したものとなっている。それでも、この本の内容は難しい。いったい、シユタイナーは、これをいつ書いたのだろうか。「アカシャ年代記より」の前なのか、それとも後なのだろうか。「地球年代記」には、シュタイナーの原典が書かれた時期などの、参照すべき解説は、大胆にカットされている。「訳者あとがき」もない。高橋巌氏翻訳の「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」には、「訳者あとがき」もあるし、「ルドルフ・シュタイナー年譜」も添えられている。現代では、このような資料は、これまでにも豊富に紹介されているので、あらためて載せる必要がないと判断されたのだろう。

なるほど、この「地球年代記」では、西川隆範氏による「緒言」の章が、「訳者あとがき」や「ルドルフ・シュタイナー年譜」の代わりをしているようだ。ここに、私の疑問の答えが書いてあった。この「地球年代記」は、「いずれもシュタイナー60代の講義である」ということだ。「人智学運動のセンター=ゲーテアヌムの労働者を対象に行われた講義」だとも記されている。私が、そのときの労働者だったら、眠らずに、最後まで聞けただろうか。この本は、一度に行われた講演ではなく、「過去の地球状態」「宇宙と人間の創造」「宇宙と人間の発生ならびに人類文化の進化の歩み」という3回の講演から、テーマを細分して、寄せ集められたものらしい。

 私が「アカシャ年代記より」を読んだのは30歳のころのことであり、今から25年も前のことである。高価な本であるにもかかわらず、色鉛筆やボールペンで、こまめに横線を引いている。まるで、この本の内容に関する試験を受けるためのテキストのような状態である。この本の情報量はなかなかのもので、まさに、簡潔に要約された知識がぎっしり詰まっており、このような分野のテキストなのである。

 これに対して「地球年代記」のほうは、具体的な情景のようなものが言葉で表現されていて、もし、これに絵がついていたら、見事な絵本になるだろうし、これらを、ある種の「おとぎ話」と見なして読めば、それはそれで、ひとつの貴重な作品となるだろう。しかし、ここに書かれていることを、シュタイナーは、単なる空想の物語であるとは述べていないし、そのように思われたくはないだろう。これらは、現代科学が取り組んでいる、物質体の観点による事実を、さらにつつむはずの、私たちがまだ知っていない、高次の世界までを含めた観点による「事実」ということなのだ。もちろん、現代科学の視野しかもたない私たちには、高次の世界の「事実」を確認する手法が、ほとんどない。私よりもっと現代科学の世界にいて、まさに、公式な大学で教えている人々にとっては、「超感覚世界」というものがあるということこそが、「物質世界」を否定していることのように思えてくることだろう。

 現代科学で認められている研究者の中には、より高次の世界があるかもしれないということを視野に入れ、現代物理学の謎を、そのような観点で解き明かそうとしている人もいる。ただし、このような現代物理学の研究者たちは、アインシュタインの特殊相対性理論あたりで、これらの理論体系に、いくつもの空虚な仮説が組み込まれ、いつのまにか、それらが完全に正しいものとして、あれよあれよと、理論と計算だけが、空想の尖塔を築き上げているということに気づいていない。また、観測技術が向上して、宇宙についての、さまざまな情報が得られだしているにもかかわらず、理論と計算による、ほとんど空想の物語で、ほとんど組み立てブロックによるロボットの彫像のようなものを生み出しているだけで、それらの土台の知識を整理して、間違ったものを取り除こうとしていない。

 地球の科学文明は、ほんの近くにある太陽系のこともよく知らないのだし、この地球においても、なじみの深い物質体の現象についてだけしか、知識の体系を組みあげていないのだ。

 「地球年代記」という、一見すると「おとぎ話」なのではないかとも思えるほどの、不思議な物語では、物理世界の科学での「常識」と大きく食い違うことが幾つか述べられている。

 現代科学の仮説に近いものとしては、「月は地球から分離した」というものがある。はっきりと文献調査をしてはいないが、現代科学の学者のなかには、月が地球から分離したという仮説を述べている人がいたと思う。そのとき、地球に隕石のようなものが衝突して、地球の一部を吹き飛ばし、そのかけらが地球の周囲を回っているうちに集まって、月になったというストーリーだったかもしれない。ところが、シュタイナーによる説明では、月は、最初から球の形をして、地球の中にすっぽり入っていたというのだ。そのころ、地球も月も、まだ現在のような固体ではなく、もっとドロドロした液体のようなものであったという。言葉を換えれば、ゲル状態だったということなのだろう。月は、地球を卵と見なしたときの黄身のようなものとして、地球の中にあって、中心ではなく、表面に近いところに位置していた。それが、あるとき、その黄身だけが、まるで地球が月を生み出すように、スポンと出して、月と地球が分離したという。シュタイナーの描写のなかには、現代科学の知識につながりそうな部分もある。それは、地球に入っていたときの月は、固い成分を表面に集め、中の方は軟らかく、密度の小さなものであったというところである。全体として、まだ固くなっていなかった、ゲル状態の地球のなかに、地球の本体より、密度の大きな殻をもったボールのような月が、中心を外れて位置していたとしたら、地球が円運動をするとか、自転をするとかすれば、次第に、外のほうへと動くかもしれない。そのようなメカニズムについては、ここで保留しておくとしても、このときの月の描写が、NASAJAXAによって調べられた、現在の月の構造を、うまく言い当てているように思える。NASAはアポロ宇宙計画のときに、月探査船を月に落下させ、あらかじめ設置しておいた月震計により、月の振動(地球でいう地震)を調べたことがある。この観測結果によれば、月の内部が空洞のようになっているはずだということになる。JAXAによる観測結果は、最近の「かぐや衛星」の軌道変化を計測して、このデータからの重力に関する逆解析で、月の地下で、表面に近いところに、いくつもの、高密度の領域が存在するということが発見されたそうだ。これらのことを考えると、月と地球は、同じような成分をもっているらしいが、内部の状態は、まったく異なっているということになる。地球では、中心に重いものが集まっているようだが(これは、地震データを調べてのこと)、月では、表面近くに重いものが集まっているようだ。すると、隕石が地球にぶつかって飛び出したかけらが、重力の作用で集まって月になったというストーリーは、これらの観測結果とは合わなくなる。まだまだ細部を詰めなければ弱いだろうが、本筋としては、シュタイナーの仮説のほうが、より強力なものと見なせるだろう。

 恐竜の体重と地球の重力についての謎について、シュタイナーは「地球年代記」で、一つの仮説を提案していることになる。シュタイナーによれば、恐竜が生息していたころの地球の大地は、まだ、現在のように固くなりきっていなかったというのだ。つまり、地面というものは、ほとんど沼のようなものだった。それなら、巨大な恐竜たちが沼を選んで活動していたと、わざわざ説明しなくても、世界中の陸地のようなところが沼だったというのだから、この沼の底に届くだけの足をもっていればよいし、体重が大きくても、泥のようなゲルの浮力で、じゅうぶんつりあったことだろう。大気も濃いものだったとシュタイナーは述べている。その可能性は、もちろんある。地球の物理的な状態が、現在のまま、ずうっと過去へとさかのぼるのだと考えるのは、現代科学の視野の狭さによるものかもしれない。地球の大気が今より濃いものであれば、巨大な翼竜やトンボが飛ぶのは、それほど難しいことではない。あるいは、地球が、現在のように比較的高密度の星となる前は、もっと低い密度であったとしたら、月を生み出した以外に、物質の増減がないとしたら、地球の半径は、現在より、もっと大きなものであったかもしれない。それなら、やわらかな地球の表面重力は、もっと小さいはずである。現在でも、土星の表面重力は、地球のものとあまり変わらない。シュタイナーの仮説を検討する余地はあると思う。

 生物の進化に関して、現代科学の定説とはまったく異なり、ヒトは、動物の誕生以前から存在していたというものがある。ただし、このような視点は、ヒトの肉体だけについて論じられていることではなく、より高次なボディや、それらの中心となるものまで含めた状態でのヒトについてのことなので、これについては、物質体だけに限定して研究調査している、現代科学の仮説とは、まったく歯車がかみ合わない。現代科学において、これらの高次のボディが認識されるようになって、さて、これらの歴史はどうだったのかというところまで進まないと、ただの水かけ論となることだろう。

 もうひとつ、ちょっとショッキングな仮説が述べられている。それは、「かつて地球は生物であった」ということである。シュタイナーは、霊視などにより、古代の地球の様子や、そこからの変化などから、かつての地球が、ヒトの胎児の状態に似ているということなどを説明して、かつての地球が生物であり、現在の地球は死んだあとだと述べている。現在の地球が生きているか死んでいるかを議論する前に、地球のような星が生命体であるという視点について議論しなければならないだろう。

 「ガイア仮説」に結びつくかもしれない。私がコレクションした本の中に、ジョン・グリビンの「宇宙進化論」[5] がある。これの最終章は「宇宙は生きているか」であるが、帯のトップ行に「宇宙は生きている」となっている。これはまだ最後まで読んでいない。

 シュタイナーは、過去の地球の構造を霊視して、胎児の脳との対応がつくことに気づいた。この「地球年代記」のカバー図 [6] にあるものは、おそらく、地球の内部断面のスケッチだろう。現在、地震波の解析により、地球内部の様子が調べられている。シュタイナーのスケッチは、放射状に核から地表へ「樹」か「根」のようなパターンが伸びているが、現代科学による描写では、地表の大陸などの影響を受けて、マントル対流のパターンは、もっと複雑なものとなっている。

「脳」か。確かに似ている。これだけのことで生命とは判じられないだろうが、もし、私たちの寿命が、地球よりも長くて、これを外から観察することができるとしたら、シュタイナーのような判断を認めるかもしれない。現生人類としての私たちの視野は、あまりにも小さく、かつ狭すぎる。

 星や星雲として観測されているものは、ひょっとすると、生命体の一種かもしれない。NASAが観測した宇宙の画像を調べてゆくと、このような考えが浮かんでくる。地球の現代科学の研究者たちには、それらの様子や振る舞いを、非生命体として、物理的に説明するというルールのもとで、ゲームを行っているかのように思えてしまうことがある。私が観察したダークマターの中には、一つのところに集まってきて、まるで、地球に生息している粘菌のように、立ちあがってゆこうとしているところのようなものがあった[7]。それを見ると、なんとなくヒューマノイドのような姿になろうとしているようにも見える。別の画像で、赤い星と青い星がぎっしりと集まっているものがある[8]。これでは、あまりに近づきすぎている。地球における物理理論では、これだけ近くに大量の物質があれば、互いに潮汐作用が働いて、ばらばらになってしまうのではないだろうか。このページを書いていて、ふと気がついたことがある。「ハトホルの書」[9] に書いてあったのだが、ハトホルらは、シリウスのところにある、この物理世界へのポータル()をとおって、外の世界からやってきたとある。ここの文脈を読み取ると、「外の世界」は、私たちが知っている「物理世界」と、ポータルで区切られているのだから、互いに異なるものであるということになる。このような可能性を、地球の物理学者や天文学者は、まったく無視している。潮汐作用でバラバラにならないほど近くに、赤い星や青い星が集まれるのは、それらが、物理的な質量をもつものではないからかもしれない。そこでは、シュタイナーが述べているようなことが起こっているという可能性もあるわけだ。もっとストレートに生物的な宇宙画像も、NASAが管理するハッブル宇宙天文台の画像に存在する[10]。そこには、星とも星雲とも思えないものが写っている。地球にあるものに喩えれば、まるで、「植物の根」か「絡んだ海藻」である。それらの複雑な構造が、単純な物理法則とカオスやフラクタルの組み合わせで生じているとは、とても思えない。

 



参照資料

[1] 「地球年代記」ルドルフ・シュタイナー著, 西川隆範訳, 風濤社2009

[2] 「アカシャ年代記より」ルドルフ・シュタイナー著, 高橋 巌訳, 国書刊行会1981

[3] 「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」ルドルフ・シュタイナー著, 高橋 巌訳, イザラ書房1979

[4] 「いかにして高次の世界を認識するか」ルドルフ・シュタイナー著, 松浦 賢訳, 柏書房2001

[5] 「宇宙進化論」ジョン・グリビン著, 立木教夫訳, 麗澤大学出版会2000

[7] Color dark matters are discovered by Magical Filters

http://www.treeman9621.com/COLOR_DARK_MATTERS_ARE_DISCOVERED.html

[8] CPP143 星のほんとうの姿(1)

http://www.treeman9621.com/CPP143_RealImage_ofStar_1.html

[9] 「ハトホルの書」, トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著, 紫上はとる訳, ナチュラルスピリット 2003

[10] http://www.kitokito.info/scgi-bin/MT/archives2/2003-20-a-web.jpg



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