RaN30 佐保田鶴治の解説ヨーガ・スートラ
RaN30 Yoga Sutra Explained by Tsuruzi SAHODA
黒月樹人のランダムノート (Random Note by Kinohito KULOTSUKI)

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 カー体に関係するプラーナの情報を探そうと思って、インドのヨーガの文献にも当たった。図書館で調べると、佐保田鶴冶氏の本が数多く収録されている。私も何か、この人の本を持っていたと思うが、現在は何ももっていない。体系的な知識が載っていそうな本を選んで借りた。その一冊が「解説ヨーガ・スートラ」[1] 。裏表紙の内側に貼ってある返却予定日のスタンプ台紙を見ると、平成5(1993)と平成14(2002)に、一回ずつ借りられている。出版されたのは1980年のようだが、図書館の本は1990年のもの。これほど人気のない本も珍しい。この本の内容は、少し学問的になっていて、やさしく読めるものではない。しかし、シュタイナーの本の中には、もっと難解なものもあるが、もっと頻繁に借りられている。この現象を説明する原因がある。あの事件だ。かつて、この、ヨーガの教えをベースとして、初めは宗教の一つであるかに思われた集団が、直面する問題に対する対応を大きく誤り、ストレートに表現すると「敵を叩く」とか「敵を消してしまう」という行動を選んだのだ。おそらく、歴史は繰り返されるというが、これまでに現れた宗教の中には、これと同じような変化を見せたものがあることだろう。平成5(1993)から平成14(2002)あたりというのは、ちょうど、この集団の事件が起こったころである。これは、世界的な事件であったようで、いっしょに働いていた中国人のプログラマーが、現場作業の帰りに、その集団の本拠地の廃墟を見学したいといったとき、私がなぜかと聞くと、「国の家族に話したいから」と言った。けっきょく、近くを通ったものの、見学には行かなかった。

 インドで何千年も伝えられ、20世紀に入ってからは、西洋の人々にも注目されてきた、ヨーガの体系が、ほんものの宗教家とは思えない、自己のことだけを考えて行動するものたちによって、言葉の世界においても「汚染」されてしまった。宗教やオカルト科学の中にある、ほんとうのことでさえ、ストレートに表現することが難しいという状態が続いた。この事件を起こしたものたちは、ほんとうの宗教とは本質的に異なっていて、まさに宗教によって改善すべきところを、まったく逆へと向かっていったのだということが理解されてきただろうか。悲しいことであるが、このような「逆行」するものたちは、これとは異なる宗教団体の中からも生まれることがあり、忌むべき事件として現れてきている。同じような「逆行」現象は、宗教とは無縁のところで、やはり、現れている。この世界の、どのような立場の者においても、このような「逆行」の道をたどる危険性は潜んでいる。この危険を避けるための、一つの方法が、ヨーガを含む、宗教や哲学であったはずなのだ。「モーゼの十戒」や「仏教の教え」の中にも、このための行動規範が組み込まれている。

 佐保田鶴冶氏の「解説ヨーガ・スートラ」へと戻ろう。「ヨーガ・スートラ」というのは、「ヨーガ」の経典のようである。この本をぱらぱらと広げ、読み進んでみた。細部まで当たっていないので申し訳ないが、幾つか問題点があることに気づいた。ささやかな問題点ではあるのだが、この本の記述スタイルは、少し学問的すぎるようだ。論文のようなページを作っている私が言うのもおかしな話であるが、ヨーガの思想を必要としている人が、こんなに難しい本を読まなければならないというのは、少しハードルが高いと思う。かのシュタイナーも、60歳ごろの晩年には、ずいぶんとやさしい語り口になっている。私の愛読書の一つになった本に、「ルーミー語録」[2] がある。これはイスラム教の神秘主義についての教えを含めたエピソード集である。この本が良かったと、ある古本店で言ったところ、こんな本もありますよと、イスラム教の、他の本を出してくれた。ぱらぱらと流し読みをして、まったく違うことに気づいた。ここには、ほんとうのことが書かれていないと感じたのだ。ほんとうのことを知っている人は、それを、他の人が分かるように書いてくれている。

 私はというと、できるだけ、私が分かったと思うことを表現しようとしている。私が分からないことは説明できない。そうはいっても、完璧に分かったことでなければいけないなどとすると、何も表現できなくなる。ここのところは、けっきょく、読み手の問題だということになるだろう。私が、はたして、ほんとうのことを知っているのか、それとも、知っているふりをしているのか、読み手のほうで判じてほしい。

 振り出しに戻った。「ヨーガ・スートラ」の、解説の解説へと進もう。

 馬車の操縦

 「ヨーガ」についての説明で、佐保田鶴冶氏の「解説ヨーガ・スートラ」では、「ヨーガ」の意味をたとえるためのエピソードとして、「馬車の操縦」というものを取り上げている。現実世界のこととして、ある馬車を操縦するための、幾つかの要素が指摘される。まず、(A)馬、そして、(B)馬を操縦する御者、(C)御者が馬をコントロールするための手綱、さらには、(D)その馬車の持ち主、の4つがイメージされる。操縦、コントロール、あるいは命令を、抽象的に、「→」で表現しよう。中継されるときの道具である手綱にも、御者や馬と同じような立場を与えておこう。すると、次のように表現することができるだろう。

 (D)馬車の持ち主 → (B)御者 → (C)手綱 → (A)

 このような構造が、ヨーガでも成立するのだという。形式的には、次のようなことである。

 [  D  ] → [  B  ] → [  C  ] → [  A  ]

 これでは何のことか分からない。ヨーガにおいて、これらの記号に置き換わる言葉を書き入れよう。

 [アートマン(自我)] → [ブッディ(理性)] → [マナス(思考器官)] → [諸器官]

 ここで終わってしまうと、ヨーガの知識を右から左へと移しただけである。私は、このような構造が、どこか別のところにもあったということを指摘したい。それは、RaN27 カー体・プラーナ体・エーテル体が弱まっているときの病気[3]のところで述べた、シュタイナーの観点である。上の公式のようなものとは、厳密に対応していないと思われるが、このような、「操縦、コントロール、あるいは命令」の流れがあるということを、シュタイナーは説明して、文字を書きすぎて腕が痙攣している人に、さらに異なる書体で文字を書くと言う解決策が、なぜ効果があるのかということを述べている。このような流れである。

 [自分の存在の核] → [意識としての自分] → [カー体(エーテル体)] → [肉体]

 ヨーガの図式では、「カー体」のところが略されているようである。あるいは、「マナス(思考器官)」というものが、具体的には、目にゴミが入りそうなときに、とっさに目を閉じさせるものに対応しているのかもしれない。このようなとき、「意識としての自分」や「ブッディ(理性)」のところまで判断を仰いでいては手遅れになってしまう。生体反応における、このような条件反射や、ほぼ自動的に、自転車を乗るときにバランスをとることや、とくに意識しなくても呼吸や消化ができ、常に心臓が動くようにしているものを、ヨーガでは「マナス(思考器官)」と呼び、シュタイナーやハトホルの体系では、「カー体(エーテル体)」と呼んでいると解釈することができそうだ。

 (B)御者に対応する「意識としての自分」は分かりやすい。ヨーガでは、これを「ブッディ(理性)」と呼んでいるらしい。いつも理性どおりに考えているかどうかは疑わしいが、理性を失っている状態では、これらのコントロールはできないだろう。

 問題なのは、(D)馬車の持ち主に対応するものがあるということだ。シュタイナーは、それを「自分の存在の核」と呼んでいる。もっと専門的な言葉で言い表している文献もあるが、この表現なら、なんとなく分かりそうだ。ヨーガでは、「アートマン(自我)」と呼んでいる、これはいったい何なのだろうか。

 これについての証拠もしくはヒントのような現象が、現代の心理学の分野で調べられている。私は、このことを、「キメラミーム」の集合ページの中で、(幻のようなものと幻ではないもの) 外なる自己と内なる自己」[4] として紹介している。これは、私たちが、たとえば、指を動かそうと意図した、その瞬間の、少し前から、すでに、脳において微弱な電流が流れていることが発見されたということであり、このことの意味を読み解くと、私たちが、自分の判断で意図したと思っているものの、ほんとうは、もっと先に決断している何かがあって、私たちは、あたかも私たちが決断したのだと思わされているということなのだ。ここでは、次のような図式となっている。

 [内なる自己] → [外なる自己] → [肉体]

 私も「カー体(エーテル体)」を無視しているようだ。「外なる自己」が「私が意図したと思っている意識」であり、この「内なる自己」というものが、私たちに何かをさせている、よく分からないものである。

 かくして、現代科学のなかでの心理学と、シュタイナーやハトホルらと、ヨーガの体系は、(D)馬車の持ち主に対応する、

 [内なる自己]=[自分の存在の核]=[アートマン(自我)]

と言うものを見出していることが分かる。

 数論(すろん)ヨーガ

 数学で扱うような「数論(すろん)」と表わされている言葉を、原語に近く言いあらわすと、「サーンキャ」となる。「サーンキャ・ヨガ」とは、「サーンキャ哲学を理論根拠とするヨーガ行法」であると説明されている。この次には「サーンキャ哲学」の意味を問わなければならない。これに対して、「サーンキャ哲学の略図」と名づけられて、2つの項目が挙げられている。

サーンキャ哲学の略図

@実在論 [] 因果有果論 [< >] 結果は原因のうちにすでに実在している []

A多元的二元論 [< >]世界の究極的実在 <c.f.---*a, *b []

 *a [< >] 唯一の自性 []

                                               *b [< >] 多数の真我 []

 *c [< >] すべての存在は、この唯一の根元的実在から展開した []

 *d [< >] 真我はいかなる作業もしない []

  *e [< >] 真我は永久不変 []

  *f [< >] 真我はただ見るという能力だけからなる純粋精神 []

  *g [< >] 自性 <c.f.---*h, *i, *j []

                   *h [< >] 喜徳 < > ものを照らす, []

                   *i [< >] 憂徳 < > 活動, 不安 []

                   *j [< >] 闇徳 < > おおい隠す, 鈍重 []

 ここに記した図式は、私が開発した「思考言語コア」を使ったものである。[< >] は文章の中での等号のようなもの。日本語では「は」に相当する。「A <c.f.---B, Cは、ここでは、「ABCから成る」としよう。[] は目立たせるときの文末記号である。目立たなくてよいときは、「;」や「.」や「。」を使うとよい。混乱が生じなければ、何もつけなくて、空白にしておいてもよい。

 この図式をまとめている間に、この内容が、他の文献の何と対応しているのかということが分かってきた。アフ[5] によれば、「唯一の自性」とは、「最高かつ最大の意識のゲシュタルト」「領域7に存在する、現に実在する巨大な人格」「全存在を包括する存在」と言いあらわされるものに対応しているようだ。かんたんに言えば、「グレイト・スピリット」「神」「女神」となる。ヨーガには宗教的な色がないと判じられることがあるが、これは誤解だ。ここに、他の宗教と同じように、「神」もしくは「女神」の概念が示されている。これに対して、「真我」とは、その「神」もしくは「女神」から分かれたものであろう。この宇宙の、あらゆる存在のことかもしれないし、「魂」をもつものに限定されているのかもしれない。

 *gにおいては、この「神」もしくは「女神」の3つの局面について述べられている。これらの漢字で示された言葉の原語は、かつての「にせもの宗教団体」によって、まったく別の意味に変えられてしまった。しかし、それらの右にある注釈のための単語を見れば、これらが示しているもの見当はつく。おそらくアフと同じか同格の存在として、地球人に語り、「神との対話」[6] を記させた存在が繰り返し言っていた3つの要素が、ちょうど、これにあてはまるようだ。*h*jは「光」と「闇」だろう。これらは宇宙の物質的な局面である。これに対して、真ん中に置かれている*iは、おそらく「変化」を意味するものと思われる。もっとも基本的でシンプルな、この宇宙のデザイン原理である。もう少し複雑な基本方針のようなものもありそうだが、まずは、これらの3要素が、最初のアイディアだったと思われる。

 ヨーガ・スートラ

 これは、さまざまなヨーガの原初にある代表的な経典のようだ。しかし、あまりに簡略化されたテキストであり、さまざまな解釈による意味が、あとからつけ加えられている可能性がある。あたかもほんとうのことを知っているかのように述べてしまったが、そのようなわけではない。ほんとうのことを知っていると思われる人や存在の言明と見比べて、何が確からしいことであるのかということを見ることができるくらいがオチである。

 ここから、ヨーガ・スートラの経文について、ほんとうのこととしては、こうではないかという議論を加えようかと思ったが、自分自身の力を振り返ってみると、まだまだ、そのようなところまで、これらの内容が分かっているわけではないということに気づいた。すでに他界されたバグワン・シュリ・ラジニーシ和尚[7]なら、このようなことについて、深いコメントを加えることだろう。そのような資料があったかどうかは分からないが、どう考えても、私では、そのようなところまでコメントする能力はない。私が活躍すべき領域は、ちょうど、宗教と科学の境界のあたり。どちらの領域だけではなく、その両方の世界のことを、広く見ようとして、ここになかったものを、新たに生み出そうとしている。私には私のやるべきことがある。ここのところは、あまり深入りせず、C原語による画像解析のコンピュータソフトで、カー体やオーラを見ることができるということを、もっと確かなものとしてゆくべきである。今やっている文献調査も、そのためのものであった。

 ただ見るという能力

 佐保田鶴冶氏の「解説ヨーガ・スートラ」が、なんとなく物足りないものと感じられる。佐保田鶴冶氏は60歳ごろからヨーガを始めて健康となり、これをきっかけとして、ヨーガの研究に打ち込んだそうだ。他人のことは、神様以外は分からないが、どうやら、ほとんど大学で学び教える人生を送られたようであり、リストラや失業や金欠病やうつ病といった、私たちの世代の多くが立ち向かわなければならないような、現代社会における苦難というものを、あまり味わっておられない方なのではないだろうか。お金や資産がないばかりか、仕事を失ったことにより、地位も名誉も栄光も、いろいろなものを削り取られてきた私や、私によく似た人にとって、唯一のなぐさめは、次のように考えられるようになったことかもしれない。

「何の困難もなく、ずうっとやってこられていたとたら、現在のような視点は、けっして得られなかったはずである。」

「私が、あのまま教師を続けていて、はたして、そのあと何を生み出しただろうか。」

「今の私が、このように豊かな思いでいられるのは、幾つもの失敗を体験し、そこで何かを学び、そして、何かを試みようとしてきたからだ。」

「リストラされなかったら、ここには戻ってきていなかった。そして、巨大な石の牢獄のなかで、汚染された空気と食糧によってカー体を弱めてしまい、いつか、決して這い上がることができないくらいの、完全なうつ状態の谷底へと落ちていたかもしれない。」

「コンピュータを使う会社に応募して、そのまま採用されていたとしたら、 はたして、カー体を分析できる、画像解析プログラムを生み出していただろうか。」

「ひどい神経痛で腕が動かせなくなったとき、精神まで病んでしまわないようにと、図書館に通って、アインシュタインの特殊相対性理論を調べようと思わなければ、そして、そのベースであるローレンツ変換が、まさしく幽霊変換であることを証明しようとチャレンジしなければ、私は、何度も、うつ状態へと戻っていたかもしれない。」

 このように、私の、これまでのことを、ただ「見る」ことによって、私には、いろいろなことが分かるようになった。このような能力は、私たちのすべてに、公平に与えられている。何の成果もないと、他人から見られるかもしれない状態においても、豊かな宝物のようなものを見出すことはできるのだ。(2010-03-07)

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 参照資料

[1] 「解説ヨーガ・スートラ」佐保田鶴冶著, 平河出版社1980

[2] 「ルーミー語録」ルーミー著, 井筒俊彦訳・解説, 岩波書店1978

[3] RaN27 カー体・プラーナ体・エーテル体が弱まっているときの病気

http://www.treeman9621.com/RaN27_DiseaseComesFromWeakKa-Plana-EthelBody.html

[4]「幻のようなものと幻ではないもの  外なる自己と内なる自己」

http://www.treeman9621.com/ILLUSION_OR_REAL.html

[5] アフ, 「輪廻を越えて」ジュディー・ラドン著, 片桐すみ子訳, 人文書院1996

[6] 「神との対話」, ニール・ドナルド・ウォルシュ著, 吉田利子訳, サンマーク出版1997

[7] バグワン・シュリ・ラジニーシ和尚, めるくまーる社から著作が多数出版されている








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