RaN123 雲の中の信楽(A)紫香楽宮跡を見にゆこう
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黒月樹人(Kinohito KULOTSUKI

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 この町のこと

 むつかしいことは考えないで、まずは、紫香楽宮跡(しがらきのみやあと)を見にゆこうと思った。

私は信楽(しがらき)で生まれ育った。一度、外の世界でも仕事を経験して、メガコロニーでも暮らしたことがある。現在は、再び、ここで暮らしている。

 紫香楽宮跡には、あまり目立ったものはない。ただ単に、建物の礎石が並んでいるだけである。史跡として認められたのは大正15年という。私が小学生のころには、遠足で行った。中学生の社会の授業で、かんたんな歴史を習った。紫香楽という名の村が、かつては日本の中心地だったこともあるというのが、強く心に響いた。しかし、ここに都はおかれず、この地に座るはずであった大仏も、いつのまにか奈良平野の端っこに座った。

 メガコロニーからもどってみると、信楽から周囲の世界へと出てゆく道路が驚くほど広くなっており、トンネルなども出来上がって、大きなトラックがたくさん走りぬけてゆく町になっていた。自動車で走るときの、ネックとなっていた幾つかの峠が、今では、「高速道路状態」になっている。かつて、私が教師をしていたころ、ある夏の台風で、町から出る道の全てでがけ崩れが起こって、完全に閉じ込められたこともあったのに。

 この町の勢いは、どこかに消えてしまった。バブルがはじけることなぞ予想もしていなかったとき、この町で大きな祭りがおこなわれていた。そのときの人々は、すべてのことがみんなうまくいくと信じていた。ところが、そのようにはならなかった。人の心のゆるみが、とりかえしのつかない大きな事故を呼び込んだ。この町は突然、幽霊や妖気がただよう世界へと変貌した。

 このような変化は、まるでウィルスが広がってゆくように、日本中に広がっていった。かつて、多くの「貢物」を集めたという、この地から、今度は、変化の「種子」が散らばっていったのかもしれない。

 この町から自転車で出てゆくのはかんたんだ。重力にまかせて坂を下るだけだから。でも、坂を降りたからには、また登ってこなければならない。

 朝早く町を車で出て、外の世界で仕事をするようになって、この町は、ときどき雲の中に隠れてしまうということを知った。こんなことは、車が発達する、ずうっと前からつづいていたことに違いない。そうか。外の世界で、どれだけ戦乱がおこっていても、この町だけは平和なままだったのかもしれない。他からの略奪を恐れるほどの収穫は期待できなかった。高原としての、この町そのものが、ひとつの「城」のようなものだった。ここなら、争いごとの世界から逃れることができる。そのように誰かが思っても不思議ではない。

 私が子供のころ、紫香楽宮跡が「都」そのものだと思っていたのだが、近頃の説では、ここは「甲賀寺」というところであるだけで、天皇らが住んでいたのは、もう少し離れた、周囲を山で囲まれ、出口のような地形が一つだけしか空いていないところだったそうだ。現在まで、毎年発掘が続けられている。ただし、発掘して調べたあとは、再び埋められてしまうので、ただの田んぼや原っぱしか残っていない。

 語りすぎてしまったようだ。もっと軽くはじめたかったのだが、この町には、いろいろと思い入れがありすぎる。

 紫香楽宮跡への道

 第二名神高速道路の信楽インターで降りると、国道307号に出ます。ここで右折します。

 国道307号を数百メートル進みます。それまでに、左手に信楽高原鉄道の「紫香楽宮跡(しがらきぐうし)駅」があり、右手に病院(かつての結核療養所)があります。これらのあと、すぐに、「牧東(まきひがし)」という名の交差点があります。ここで右折します。

 家並みが続きます。このあたりは「宮跡台」となっています。これは新しくつけられた呼び名でしょう。正しくは「内裏野(だいりの)」といいます。

 道なりに進みます。すぐに、次のようなカーブとなります。このカーブの先が入口です。


紫香楽宮跡(甲賀寺)

 車で入ってゆけます。ただし、駐車できるのは数台だけです。トイレの建物があります。説明板が立っています。右のほうに、「林への立ち入り禁止」の赤い幕が張られているかもしれません。

 説明板の左に、パンフレット置き場があります。

 説明板のあるあたりが、「甲賀寺」の入口付近です。ここには建物の礎石があるので、それを見ることができます。私が子供のころは、古瓦などもあったとおもいますが、現在では、それらは完全に集められたようです。礎石はそのまま置かれています。通路の階段、小さな神社、建物の位置を示すための柵などは、最近作られたものです。

 この「甲賀寺」には、「中門」「塔」「金堂」「鐘楼」「講堂」「僧房」「経楼」があったことが分かっており、それらを礎石の配置で想像することができます。




 宮町遺跡

「甲賀寺跡」は、このような礎石の品評会のようなものです。ストーンサークルのような「謎」はないようです。建物の基盤であったので、ほぼ四角の配置で並べられています。

 説明板のところへともどり、車で出て、やってきた方向へと戻らずに、左手へと向かいます。すると、数百メートルで、開けた交差点に出ます。


(右手のソバ畑は、鍛冶屋敷跡)

ここで右折すると、「信楽インター」へ近道でもどれます。左折すると、すぐ右手に「黄瀬(きのせ)文化財作業所」があります。小さな展示ルームがあります。空いているのは平日だけです2010101日〜20101123日までは、「信楽まちなか芸術祭」の一会場となっているため、発掘資料を展示しています。入場無料)。※2010年11月23日が過ぎましたので、「黄瀬文化財作業所」は通常の勤務状態に戻っています。

 直進してすぐの、第二名神高速道路の手前に、「新宮神社遺跡」の広場があります。

 この看板に、このあたりの発掘地図があります。天皇らが住んでいたと考えられる場所は「宮町遺跡」と名づけられているところだと考えられています。今では田んぼの真ん中です。Yのようなパターンは道路と川です。右下の小さなY字交差点のところに「宮町遺跡発掘調査事務所」があります。2010101日〜20101123日までは、「信楽まちなか芸術祭」の一会場となっているため、発掘資料を展示しています。入場無料。※2010年11月23日が過ぎましたので、「宮町遺跡発掘調査事務所」は通常の勤務状態に戻っています。

 地図に相当する場所が、次の写真です。発掘されたところは、再び埋めもどされて、田んぼになっています。

あとがき

 今回は、画像をつかって、かんたんにまとめてみました。たんに見ているだけだと、礎石があるのは「まし」なほうで、埋め戻されて、原っぱや田んぼがあるだけです。でも、そこに、どんなドラマがあったのかと想像してゆくと、物語は、どんどんとふくらむことになります。次回からは、そのような部分へと進むことにしたいと考えています。あるいは、まったく違うところをぶらぶらするかも。

 (2010.09.21 Written by Kinohito KULOTSUKI [@] KULOTSUKI ANALYSIS INSTITUTION)

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