RaN124 雲の中の信楽(B)紫香楽宮の謎についての文献調査
RaN124 Shigaraki in Cloud (B) Mystery of Shigaraki-no-miya-ruin
黒月樹人(Kinohito KULOTSUKI

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 概要

 「紫香楽宮(しがらきのみや)の謎」について考えてゆきたい。そのためにすることの一つ目は、情報を集めるということである。私は現地の近くに住んでいるので、まず、現地をこの目で見るというところから始めた。しかし、物事は、いつもこのようにして始められるというものではない。遠くにいて、何か、そのものについての情報を得ようとしたら、(現在ではインターネットで検索しようとするかもしれないが)本や論文として世の中に出されているものによって文献調査をするというのが、時間的にも経済的にもよい方法だ。

 「紫香楽宮(しがらきのみや)の謎」に関連する資料を探すことにしよう。

 

 紫香楽についての文献調査

 次にあげる資料は、町の(現在の所属は甲賀市)図書館で借りることができた。さすがに地元だ。「紫香楽宮」に関するコーナーが存在する。まだまだ多くの資料があったが、基本的なことを知るには、これくらいでよいだろう。

参照資料

タイトル

表紙の画像

備考

コメント

[1] 滋賀県の歴史

畑中誠治ほか5名著
山川出版社1997

紫香楽宮についてのページはP71P733ページ分。簡潔にまとめられている。いやいや、情報量は豊富である。謎についてのコメントはなく、事実のみの記載となっている。

[2] 近江の考古学

小笠原好彦著
サンライズ出版
2000

滋賀県(近江)の遺跡などの、古代のことが色々と記されている。第一部の八章が「紫香楽宮を考える」となっている。わずか八ページだが、他の著書で延々と説明されていることの要約のようになっており、紫香楽宮についての概要を知るには、ちょうどよい。

[3] 天平の都
  紫香楽
  その実像を求めて

[天平の都 紫香楽]
刊行委員会編集、
信楽町発行
1997
(平成9年)

1 紫香楽宮とは、どういう宮なのですか?」から「46 なぜ、紫香楽宮跡を大切にしなければならないのですか?」まで、具体的な問いの形でテーマがしぼられ、多くの専門家が分担して答えるというスタイルをとっている。各単元がコンパクトにまとめられていて、基本的な知識を学ぶことができる。また、発掘調査の様子なども、詳しく書き込まれている。「紫香楽宮」の百科事典のような本。

[4] 聖武天皇
  の夢と謎

信楽町教育委員会編
新人物往来社2004

白黒ページではあるが、写真や図版が詳しいものとなっている。「紫香楽宮の謎と宮町遺跡」(小笠原好彦)「紫香楽宮が見えてきた」(栄原永遠男)という二つの基調報告をベースとして、シンポジウムの記録と「発掘調査最前線 紫香楽宮跡関連遺跡の紹介」とで構成されている。

[5] 大仏造立の都
 紫香楽宮

小笠原好彦著
新泉社
2005

上質の紙を使ってカラーの写真や図を挿入している。91ページと、やや薄めの本となっているが、本格的な研究者によって書かれたものであり、内容の質は高い。

[6] 大仏は
 なぜ紫香楽で
 造られたのか
 ―聖武天皇と
  その時代―

滋賀県文化財保護協会
などの編集
同発行
2005

講演をまとめたもの。「紫香楽宮の造営と難波宮」(直木孝次郎)「聖武天皇の東国行幸と皇位継承問題」(遠山美都男)「紫香楽甲賀寺における大仏造営」(畑中英二)が直接関係するもの。

[7] 近江・大津に
 なぜ都は営まれた
 のか
  ―大津宮・
  紫香楽宮・
  保良宮―

大津市歴史博物館編
・発行
2002(平成16年)

講演をまとめたもの。「宮町遺跡と関連遺跡(紫香楽宮)」(鈴木良章)「紫香楽宮とその時代(付、禾津頓宮・保良宮)」(栄原永遠男)ほか。他のページの内容も、参考になる。

[8] 聖武天皇と
 紫香楽宮
 (
しがらきのみや
 の時代

小笠原好彦著
新日本出版社
(新日本新書511
2002

[2][5]と同じ著者が新書版としてまとめたもの。本としては、これらの中で、最も小さなものであるが、細かな項目にわけて、詳しく論じている。


 紫香楽宮」についてのあらすじと謎

 上記参照資料の「紫香楽宮」に関連する部分を読んだ。しっかりと研究などする場合は、ノートなどに整理するとか、カードのようなものに記録してゆくとかして、情報をストックする必要がある。しかし、今回の取り組みは、完全に私の専門分野から外れており、厳密に展開できるものでもないので、これらの資料を参照して、おおよその要点についてまとめることにしたい。

 ◇すでに平城京は都であった

 紫香楽で大仏が完成することなく都が平城京へと移されたと、私は中学生のころに習った。だから、紫香楽が都であったあとに、平城京が新たに都になったと思っていた。しかし、これは間違っていた。紫香楽に大仏や都の話が持ち上がる、ずうっと前から、すでに平城京が都だった。

 ◇平城京の前に、近江大津宮や(前期)難波宮が都であったこともある

  次のように、少しまとめてみたが、これらの間に、いろいろと事件があったようだ。

  難波長柄豊崎宮(645655)孝徳天皇/難波の宮室が全焼(686

  飛鳥(655−)斉明天皇

近江大津京(667−)/「壬申の乱」

平城京(708−)元明天皇

 ◇聖武天皇はなぜ平城京を出て遠回りの旅をしたのか?

 紫香楽に大仏を作ろうと決断し、それを実行しようとしたものの、けっきょくは失敗して、再び平城京に戻ったという、この時代の歴史に波風を立てたのが聖武天皇である。

 聖武天皇は平城京を出発し(740)、伊勢に向かって軍事パレードを行った

 聖武天皇らは伊勢神宮へ向かったのではなく、平城京から伊賀を通って、伊勢湾の海岸近くまで進んだ。そこからさらに北上して、現在の三重県北部を進み、愛知県西部をかすめて、岐阜県の関ヶ原あたりで軍事パレードを解散させた。小規模な状態になった天皇らは、滋賀県へと向かい、琵琶湖の東南部に広がる平地をまっすぐ南西方向へと進む。かつての大津京を視察し、瀬田川から続く宇治川沿いに進んで、現在の京都府木津川市(加茂町だったところ)の「恭仁京(くにきょう)」に落ち着く。この恭仁京は、平城京のすぐ近くにある。聖武天皇は平城京へ戻らず、恭仁京を都とする。

この遠回りの旅は、いったい何のためだったのか。

 ◇聖武天皇が何回も都を移しているのは、なぜ?

 平城京→恭仁京→難波京→紫香楽京→平城京

 このような、突然の遷都を、わずか数年の間にくりかえすと、いろいろな問題を生む。それなのに、なぜ、こんなことを強行したのか。

 紫香楽が大仏を造る場所として選ばれたのは、なぜ?

 聖武天皇が紫香楽の地を探したわけではないようだが、命令を受けて調査した役人は、いったいどのような理由で、紫香楽村を選んだのだろうか。これも謎のひとつである。

 上記の資料でも、このことは考察されている。一つの条件として、恭仁京からの距離があげられている。恭仁京から紫香楽への道は、このころ新たに整備されたものだという。現木津川市の旧加茂町から、和束(わづか)町を通り、旧信楽町の朝宮や杉山へと細い道があり、そこからは、「信楽谷」とも呼ばれる、幾つかの狭い平地がつながってゆく。それほど目立った峠があるわけではない。それぞれの「谷」というか「盆地」というか、山に囲まれた広場のようなところは、幾つもあって、旧信楽町の、いちばん「はずれ」のところであった、雲井(くもい)地区の、内裏野(だいりの)や宮町(みやまち)のような、たいして広くもないところが、なぜ選ばれたのだろうか。

 上の資料を読んでゆくと、さらに、次のようなことが謎として取り上げられていることが分かる。

 ◇聖武天皇にとって仏教とは、どのような意味があったのか?

 ◇大僧正となった行基とは、どのような人なのか?

◇紫香楽で大仏が造られていたころの人々の生活は、どのようなものだったのか?

 ◇紫香楽で大仏は、なぜ完成しなかったのか?

 これまで、ただの遺跡としてしか見てこなかった「紫香楽宮跡」のことを調べてゆくと、いろいろなことが疑問点として浮かび上がってくる。また、最近、このことが何度も取り上げられ、数多くの出版物が出されているのは、「宮町遺跡」の発掘により、数多くの木簡などが発見され、これまで「紫香楽宮跡」とされてきたところが「甲賀寺」であって、天皇らが居たところは、それよりさらに奥の「宮町」という小さな盆地にあるということが分かってきたことによる。この発掘調査は、現在も進行中である。まだまだ調べていない所はいっぱいあって、どこから何が出てくるか分からない状態らしい。記録では、大仏建立のための柱を建てる儀式が行われたとある。それほど重要な柱であるのなら、どこかに、それを差し込むための穴があったはずだと考えられる。しかし、そのような柱の位置は、まだ確認されていない。


(2010.09.26 Written by Kinohito KULOTSUKI [@] KULOTSUKI ANALYSIS INSTITUTION)

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