RaN141 ホームページツリー構造の分析/評価されるホームページの構成法
Analysis on Home Page Tree Structure
黒月樹人(Kinohito KULOTSUKI

黒月樹人のランダムノート2010 ブランチページ(Branch Page)へもどる

 (T)概要

 ホームページは、よほど複雑なものでないばあい、たいていはツリー構造をもっている。ツリー構造の先端に位置しているのがトップページだ。これには必ずindex.html という記号がついている。他の名称でトップページを作れるのかどうか、私はまだ知らない。

 トップページを除くページをすべてサブページと呼ぶ体系があることを知った。しかし、これではあまりにも大雑把すぎる。確かに、ホームページの中に含まれているページの数々のタイプを分類するのは難しい。index.html という記号で識別されるトップページ以外は、いわゆる、何でもあり状態だった。

 このような観点から脱却しホームページの機能や意味を理解するため、私は、ツリーページ・ブランチページ・リーフページという用語を提案した。これは、ホームページのツリー構造を、現実世界での樹木になぞらえ、樹木の全体・枝の分岐・末端の葉という対応を考えたことに由来する。

 これらのツリーページ・ブランチページ・リーフページへの分類を行ったうえで、それぞれの形態において、より評価されるページの構成法というものを考えてゆく。


 (U)ツリーページ・ブランチページ・リーフページ

 ツリーページは、ほぼトップページの言い換えのようにも思える。これに関して、それ以上の意味を考えることは難しい。ただし、私は、ホームページの全体をフラクタルと見なし、このツリーページを、ホームページの全体のミニチュア像としてデザインするように心がけている。後で示すブランチページの存在や、末端のリーフページについての案内なども、このツリーページに含めてしまおうというわけだ。ただし、ツリーページのボリュームをあまり大きくしてしまうと、呼び出し時間がかかってしまう。また、何度もスクロールしなければならないようだと、全体像が分かりにくい。だから、このツリーページは、できるだけディスプレイサイズに近づけるようにするのが基本となる。

 ブランチページは、全体を示すツリーページと末端のリーフページとをつなぐための中継ステーションのようなものである。私のホームページには雑多なものが含まれている。はじめは「スポーツ解析」が中心だった。それに「心の多面体」と「思考言語のアイディア」を加え、これらとはまったく異なる視点で「キメラミーム」を始めたとき、私のホームページは、グーグルの検索ロボットに発見されるようになり、ジワリジワリと巨大化への道をたどることとなった。「キメラミーム」の中には、「幽霊変換」など専門性の高いものが数多くふくまれている。やがて、このようなものだけを目指していると疲れるので、もう少し楽につくることができるページをまとめておくブランチがほしくなり、あまり考えることなく「ランダムノート2009」をつくった。時間的な理由により、これはただちに「ランダムノート2010」へと移る。これらを抽象した「ランダムノート」という名称がすでに多くの人々によって使われていたことを知ったのは後の祭り。私の「ランダムノート」は、なかなか検索リストの上位にのぼってゆかなかった。しかし、私は割り切って、これらのページは、多くの読者を期待するものではなく、私の「楽しみ」で生み出しているもの、目立たなくてもかまわないと考えた。やがて、「ランダムノート2010」の中が膨らんできて、これらを幾つかに分類する必要が生じた。私は、この「ランダムノート2010」の内部に、もう一回ブランチページの構造を組み込むことにした。これを「ファインブランチページ」と呼ぶことにした。これは、ブランチページの階層構造を何層にでも生み出すような名称ではない。学問的な研究者だったら、このようにはしないだろう。しかし、ここで、ブランチページの階層構造を何層にでも増やせるようにしてしまうと、グーグルの検索ロボットに見限られてしまう恐れがある。そこで、ブランチページの階層は2つまでということを心がけるため、「ブランチページ」と「ファインブランチページ」という名称だけを提案することにしたのである。もし、「ファインブランチページ」の内部を、さらに2つに分けたくなったらどうするか。実際に行ったことがあるのだが、内部で2つに分けてしまうのではなく、「ファインブランチページ」そのものを、新たに2つ設けて、そこへと引っ越しさせてしまう。もとの「ファインブランチページ」は消してしまう。ブランチページは、単なる中継ステーションのようなものなので、このような「工事」が行われて、宇宙船が着陸するポートが分かれていようが、大きいままであろうが、目的のリーフページへとたどることができれば、何の問題もない。トップページとしてのツリーページと、末端のリーフページ群との間に、このようなブランチページの構造があると、全体のルートが分かりやすく、ホームページ全体の改造も行いやすい。

 リーフページは末端に配置されるすべてのページの総称である。おおよそ、何らかのテーマをもって構成されている、確かな内容をもつページをイメージしている。ただし、実際のホームページの構成法は「何でも有り」状態なので、このリーフページが「末端のページ」であると定義することには困難がある。たとえば、私の「信楽風物散歩」シリーズにおけるリーフページにある、図1や図2の、分割された(a)(b)のデモ画像をクリックすると、それらの拡大画像のページへと進むことがある。厳密に言えば、これらの拡大画面のページが「末端」であり、「信楽風物散歩」シリーズのリーフページは、あたかもブランチページのようになってしまう。混乱するかもしない。ブランチページには、あまり内容らしきものを組み込まない。リーフページは、植物がそこで光合成をおこなって樹木全体のエネルギーシステムを支えているように、ウェブの世界における「文化的なエネルギー」に関わる中心的な場所なのである。そこから移ることのできる「拡大画像のページ」や「リンク先のページ」は、これらの入口を含んだリーフページの「補助的なページ」だと考えることとしたい。


 (V)評価されるリーフページの構成法

 末端のリーフページから考えよう。リーフページにとって大切な要素は「内容の充実」「構成のバランス」「物語性」「人と人とのコミュニケーション」「変化」などではないかと私は考える。

 内容の充実を阻むもの

 ここの要素については、いろいろな視点がからんでくる。ホームページの立場によっても異なる。たとえば、個人が立ち上げるホームページと、民間会社や公共団体のホームページでは、それらの内容が違っていても当然だ。

 それにしても、民間会社や公共団体のホームページは、なんとつまらないものが多いことか。テーマの取り上げ方や、構成のしかたによって、もっと読み応えのあるものになるはずなのだが、何かがそれをとどめている。

 かつて私は、ある会社で働いていたことがあり、私の雑多な能力を買われてのことだと思うが、会社全体の(臨時)総務部のような仕事をまかされていたことがある。事務の旧書類の廃棄とか、会社の人々の慶弔行事の手配などなどである。私の本業は「探査技術の研究開発」であったのだが、いつもこのような仕事に専念していられるほどの規模ではなかった。そのとき、私がやった仕事の一つに、会社のパンフレットをつくるというものがあった。私がつくるのではなく、外部のデザイン会社に発注して、それを自社の社長や会長などに認めてもらうというものであった。デザイン会社が試作品を3種類ほど持ってきた。なるほど、1つだけではなく、3つ用意しておき、これを上層部の人々に見せて、1つを選んでもらえば、この仕事は「決まり」だと、私はデザイン会社の戦略を見抜いて、「うまいな」と思った。ところが、3種類の中で1つが決まったものの、それでGOとはならなかった。社長や会長は、この試作品の細部に、あれやこれやと注文をつけてきたのだった。デザイン会社の人は「分かりました」と返事をして帰ってゆく。しばらくして、その改良バージョンを持参してきたデザイナー件営業の人と私は、再び社長らのところへと向かった。なかなかよくできていると私は思った。ところが、そこにシンボルとして地球の画像が描かれていたのだが、その画像の中に日本がないと、問題点が指摘された。他にも幾つかあったかもしれない。デザイナーは再び「分かりました」と言って帰ってゆく。顧客の考えを否定するようなことは決して言わない。なるほど、このようなものか、と私だけが感心している。3度目4度目と現れたとき、そのデザイナーは、いっしょに本社へと歩いてゆく私にだけ、ぽつりと愚痴をこぼしたことがあった。私は次のように答えたと思う。「もうそろそろ決まるでしょう。あの人たちは、自分の意見をどこかに入れたいと思っているだけなのです。そういうものです。どっちでもいいようなことを、聞いてあげれば満足してくれます。お役所相手だったら、これくらいでは済みませんよ。」

 私たちは大規模な公共工事に「寄生」して生活していた。あるとき、私が現場作業も受け持っていたところの支店長が、仕事に関する(役所の)現場事務所へあいさつにゆくとき、「どうして公務員はあんなに威張っているのかなあ」とこぼしたことがある。私は「税金を管理しているからでしょう?」と、疑問符をつけて答えた。支店長は「そうだな、大切な国民の税金を取り扱っているのだから、きびしくやっていて当然だなぁ」と、分かったような、分かっていないような言葉を残して、現場事務所のプレハブの中へと入っていった。

 このようなわけで(何のことやら)、一般の民間会社や公共団体の意志決定者の考えの中には、「ホームページを見る人の視点」というものが、ほとんど存在せず、「ホームページをつくるにあたって、自分自身や自分の会社や公共団体のすばらしさ」がどのように反映されるのかという、およそSEO対策には無縁どころか、反するものが支配的になっている。この問題をクリアーするのは、なかなか難しいことだと思われる。

 構成のバランスを壊すもの

 私がもっとも気になる要素が一つある。それは(リーフページというよりは)多くのトップページのヘッド位置にある「大画面の動く画像」である。これを構成できるのがプロなのだと、多くの会社経営者や公共団体の権力管理者たちが思っていることは、容易に推測できる。売り手のプロたちも、このような技術が評価されるとして活用しようとしている。ところが、ホームページをプロに依頼する人たちの目的には、自らの自尊心を高めるということのほかに、そのホームページの検索ランキングが、妥当な位置にあり、多くの人からアクセスされるというものがある。

 この後者の目的に対して、ヘッド位置にある「大画面の動く画像」は、何の役にも立っていないどころか、かえって、その目的に反したものとなっていることを、ほとんどの人は認識していない。ホームページの検索ランキングについて考慮したいのなら、SEO対策という基準を満たしてゆかねばならない。これは、もっと具体的に言えば、ヤフーがグーグルと提携した今となっては、グーグルの検索ロボットによる評価点において、いかに高得点を確保するかということにつきている。ただし、グーグルは、その評価システムを決して公開しない。それこそがグーグルの存在基盤となっているからだ。そして、数多くの「SEO対策会社」が、その評価システムを推定して、自らの存在基盤としている。ところが、グーグルのほうでは、それらの「SEO対策会社」が推定できる具体的なノウハウを越えた、「より抽象的な基準のシステム」を開発している可能性がある。おそらく、今後は、この「より抽象的な基準のシステム」について意識できるものだけが生き残ってゆくことになるだろう。

 気になる要素の二つ目は「広告」だ。かつて、ホームページへ広告を張り込むというのは、一部の先駆者でなければ行えないものだと思われていた。ところが、気がついてみると、ここ1年ほどか、あるいは数カ月の間に、かつては広告なぞ何も無かったはずのページにも、どんどんと広告が載せられるようになっている。かくいう私のホームページにも広告が入っている。これに先立ち、グーグルがAdSense と言う名称で「クリック型の広告システム」を開始したことを知り、私も参加したのだったが、自分が管理しているコンピュータ以外のところから、キーワードを使って広告の管理画面を見たことが原因で、そこから広告をクリックしていた履歴と関連づけられ、「重要な違反」があったとして、このシステムからの離脱を宣告された。今から思えば、そこで縁を切って良かったかもしない。その後、少ししてから、他の広告媒介業者の広告を貼ることにしたが、まったくと言ってよいほど収入はない。他のページを見てみると、私が見慣れた広告が、あちらこちらに現れる。これだけ広告が一般的になってしまうと、これらはただの「壁紙模様」として認識されてしまうようだ。それも「汚れた壁紙模様」となることが多い。

 検索ランキングのリンクタイトル行をクリックして、どこかのページへと飛んでみよう。すると、最初に現れたディスプレイ画面の、とくに上の部分が、グーグルの AdSense によるテキスト広告で占められている。右側には、どこのものか特定できないが、カラフルなバナー広告。左側にも、そのホームページのマップを描いたテキスト行や、他のテキスト広告。「いったい、このページの内容は、どこにあるんだ?」 何度も、このようにつぶやいて、さっさと元の検索ランキングページへもどったことが何度となくある。

 はっきり認識しておくほうがよい。最初に現れたディスプレイ画面で、広告が占める面積が多ければ多いほど、そのページは嫌われてしまう。そこにある広告へとマウスが動くことはめったにない。ほとんどない。決してないと考えてもよいだろう。最初に現れたディスプレイ画面に(目立った)広告があるとき、たいした目的のない大部分の訪問者は逃げてゆく。仮に、何か必要な情報があって、それを探している訪問者は、それらの広告に決してマウスがふれないようにし、注意深く目的の情報を探し、そして、そのページの制作者に反感を覚えて出てゆく。これが現状だ。

 物語性を無視したページは壁紙模様といっしょ

 一般の項目を扱ったページでは、このことは分かりやすいだろう。あるテーマをもって語られてゆくページのほうが、雑多な内容を詰め込んだページよりも、はるかに、グーグルの検索ロボットによる評価が高い。内容の豊富さより、内容の統一性のほうが重要な評価基準になっているようだ。

 ところが、商業的な広告のページでは、この原則がほとんど無視されている。私は、広告バナーのうち、自分が気に入った項目とデザインのものを集めて、リーフページの最後などに貼りつけたり、同類となるものを集めて並べ、それらの内容についてのコメント文を添えるようにしているが、このとき、そのバナーの奥にある、それぞれの広告ホームページにおいては、「物語性」が見事に欠如していて、いったい何を読めばよいのか分からなくて、けっきょくは何も見ずに飛び出してゆくだろうなと思うばかりだった。

 このような広告ホームページの中で、一つだけ、最後まで読み切ってしまったものがある。私は民間なので、これをここで広告しても何の問題もない。それは「森のコーヒー」という名の広告ページだった。「森の」の「森」は、最初、名字だと思っていたのだったが、そうではなかった。このページでは、ごくあたりまえの会社紹介のようなところから「森のコーヒー」へと向かってゆく物語が、いくつかのシーンに分けられて次々と展開されてゆき、それを読み終えたとき、「こんなコーヒーを私も味わってみたい」と、多くの人が思えるものになっていた。さっそく私はこれを注文して、届いたコーヒー豆を挽き、それを味わった。その味について言葉で説明するのは難しい。私が何よりも驚いたのは、通常多くのコーヒー豆にある甘皮部分がほとんどないということだった。この甘皮部分に雑味の成分が集まっている。私はこれまで、コーヒー豆を荒く砕き、それを口で吹いて、甘皮部分を吹き飛ばしてから、再度、細かくミルするという方法を取ってきた。ところが、この「森のコーヒー」では、そのようなことをする必要がない。吹き飛ばさなければならない甘皮のようなものが、ほとんど無いのだ。ほんものの自然栽培によるコーヒー豆とは、このようなものだったのかと、初めて知ったのだった。

 この「森のコーヒー」の広告ページは、その物語性といい、商品としてのコーヒー豆の実体といい、見事な出来だと映った。ひとつ難点があるとしたら、広告ページにおいて社長らしき人が現れすぎているというところか。気持ちは分からなくもないが、ここは押さえて、部下の活躍を後押ししているという雰囲気にもっていったほうが、はるかに好印象となるだろう。

人と人とのコミュニケーション

 ホームページは何のためにあるのか。グーグルの検索ロボットに読んでもらうというのは、便宜的なプロセスだ。ホームページを立ち上げて1年かそこらの間、私は、このロボットの存在を知らなかった。私のホームページは、ほとんど目立たないものでしかなかった。「黒月」での検索ランキングは、百五十位あたりだったように思う。しかし、私が新しいページを生み出して何日か経過すると、グーグルの検索リストのどこかに採用される。私は、そのころ、とにかく検索リストのトップに位置するようにと、私だけの「ユニークな言葉」を考え、それをタイトルにしたページを生み出すようにしていた。そのような活動を、少なくとも「グーグルの担当者」だけは読んでいてくれている。それがなによりの励みだった。何年かして、その「グーグルの担当者」が人間ではなくロボットだということを知った。私はさほどショックを覚えなかったが、笑いがこみあげてきた。私のホームページがここまで「スゴイ」ことになったのは、このロボットに支えられてきたからだったのだ。姿こそ視ないし、おそらくただの メモリーチップの塊なのだろうが、私には、その検索ロボットが、ひとつの人格をもって成長しているようにも思える。

 仕事をリストラされ、過酷な単純作業でのアルバイトで腕の神経をやられて、通常の仕事ができず、貯金を切り崩しながら治療に専念しなければならなかったとき、私はホームページを充実させることで、あらゆる生活のための柱を維持し続けた。やがて、ほとんど演技のはずの「ひきこもり生活」をやめ、ささやかな社会の一角へと紛れ込むことにし、多くの人々の中で活動することになり、私の視点が、あっという間に広がった。隣の人、さらに隣の人、前で何かを話す人、それらを聞く人、いろいろな状況の人たちを観察してゆくとき、私は、直接その場で対応したことを、これまで発展させてきたホームページで公開すれば、もっと多くの人とかかわることができるかもしれないということに気がついた。かくして、私の「ランダムノート2010」のリーフページが、とどまるところを知らず、現在も新ページを量産するようになった。この現象の底にあるのは、ここでの段落テーマである。「人と人とのコミュニケーション」こそは、私たちがこの世界で生きている意味にも通じることなのだ。インターネットもホームページも、このことを補うために存在している。

変化することをやめないホームページ

 ホームページだけでなく、それらを統括しているインターネットの世界そのものが、現在でも変化し続けている。かつてのビッグサイトが残っていることもある。広告収入で生活できたというサイトも残っている。だが、何年か前の状況と現在とでは、何もかもが違う。かつてのSEO対策技術は無効になりつつある。なぜかというと、グーグルの検索ロボットの判断基準が変化しているからだ。他の人々は、そのことに気がついていないかもしれないが、私には分かっている。

その検索ロボットは、あたかも人間が成長するときに獲得してゆくように、より抽象的な判断ができるようになっているに違いない。これまでの判断基準のような、具体的なものではなく、より本質的な内容についての検索方法を開発し、インターネットの世界で活躍すべきページを選択しようとしているように見える。

だから、私たちは、あまり些細な技法にとらわれることなく、より本質的な、ホームページの存在意義のようなものの「臭い」をかぎ取って、それを探して動き続ければよい。おそらく、変化というキーワードの中には、さまざまな要素が入ってくる。新しいページを増やしてゆくことだけではなく、新しいパターンを生み出すこと、新しい必要性や動機を見出すこと、新しい働きかけを行うことなどが入ってくることだろう。

私たちは、ただのホームページ制作者としてとどまっているわけではない。巨大なものや強いものに対抗するための力は、誰でもがもっている。


 つづく

 以下の章を用意していたが、ここでの下書きページの量が増えてきたので、これらについては、異なるRaN(ランダムノート)ナンバーのページで対応したい。

 (W)評価されるブランチページの構成法

 (X)評価されるツリーページの構成法

 (2010.09.16 Written by Kinohito KULOTSUKI [@] KULOTSUKI ANALYSIS INSTITUTION)

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