RaN38 オクターブの宇宙(2) 無意味な素粒子だらけの謎
RaN38 Cosmos by Octave (2) Mystery of Meaningless Elemental Particles
黒月樹人のランダムノート (Random Note by Kinohito KULOTSUKI)
RaN38 オクターブの宇宙(2) 無意味な素粒子だらけの謎

 確か、私がまだ20歳にもなっていなかったころ、一冊の科学啓蒙書を読んだことがある。古典となるようなものではなかったので、本のタイトルなどは記憶していない。それは、そのころの時点における科学の進展について、カラーの図解と解説文で構成されているものだった。そこに、現代物理学の最先端の知識として「素粒子」のことが取り上げられていた。原子核物理は20世紀において急速に進展し、私が今回の生を受ける、すでに10年近く前、原子爆弾が生み出され、広島と長崎で使用されている。その後も、原子爆弾だけでなく水素爆弾までが完成されて、世界のあちらこちらの大気中で実験を繰り返されていた。人類としては、決して誇らしいものではない、このような兵器を生み出した、原子核物理の最先端の研究が、この素粒子分野でのものだった。素粒子の研究分野では、特別な数学記号や、無限大を取り扱う、よく分からない数学が使われる。そのようなものは、高校を卒業したばかりの私に分かるわけがない(現在でも、ほとんど分からない)。しかし、それらがどのようになっていて、どのようなことが分かっているのかという、結果の知識だけでも知りたいと思って、そのような本を眺めたのだった。

 この世界の「物質」が、どのようなものでできているかということについて、分子や原子の種類や組み合わせのことについては、基本的なことだけであるが、高校の化学で習う。原子とも元素とも呼ばれる、ある段階での小さな単位の種類は、当時、100種類を少し超えたくらいまで分かっていたようだ。現在では、(5年も前のものだが)2005年の理科年表によると、116種類であるという。しかし、これらの元素の中でも、比較的安定しているのは、元素番号92のウラン(U)あたりのものまでであり、それより大きなものは、実験機器の装置の中で、わずかな寿命しかもっていないものだという。私たちの現実世界を構成するためのものと考えるのには無理がある。

 元素として呼ばれる物質は、それに対応する原子に基礎をおいている。この原子が、さらに細かな要素によって組みたてられているということを明らかにするというのが、20世紀前半の大きな目標だったようだ。それは、現在まで続いている試みでもある。原子は、より小さな要素である素粒子で組みたてられている。このような知識が確立するときに、観測されたことを説明するためのモデルが考えだされ、それについての根拠が、数学的な技法で検討されてきた。これらのことに深入りするだけの力を私はもっていないので、さらりと進めてゆこう。ところで、この素粒子というものを調べてゆくと、これらも、より小さな要素で構成されているだろうということが分かってきた。このようなことは、いったい、どこまで進んでゆくのだろうか。おそらく、これ以上は進まないだろう。その知識の壁を破るために必要な観測装置に与えなければならないエネルギーが、もう、人類の手に届くところにはないのだ。それでも、理論物理学者たちは、色々なモデルを考え、その検証方法を見出そうとしている。

 少し戻ろう。大きな原子量の元素に対応する原子のほとんどは、この現実世界を構成するために役立っていないのと同じようなことが、素粒子の世界でも起こっている。つまり、私たちの、この現実世界を構成するための、基礎となる素粒子は、シンプルな電子を含んで、ほんのわずかな種類だけであり、観測されている素粒子の大部分は、何の役目も意味もないように見えているのである。現代では、観測されている素粒子についての、より小さな構成要素などによる分類が試みられている。

 私が20歳になっていなかったころ、このような事情の入口が、すでに明らかになっていて、無意味に存在するように見えている、この現実世界では、実験装置の内部でだけ短い寿命を終える素粒子が数多く見つかっているということが、図解と解説文で表わされていた。それを知って、すぐに私は、「それらの不安定な素粒子は、それらが役立つ世界のためであって、その世界においてなら、もっと安定しているのではないか」と考えた。このときの「その世界」は、いったいどこにあるのか。そこまでは分からない。ただ、そのとき私は、この三次元空間とは、ほんの少し違うだけの、ほとんど連続しているような次元に対応する世界のことを考えていた。だが、このアイディアは、SF小説にもならない、何の根拠もないものにしかすぎなかった。

 私は大学に入って生物学を専攻しようとしたが、途中で数学に専攻を変えることにした。しかし、本腰を入れて勉強せず、もっぱら陸上競技のトレーニングにばかり専念していたので、けっきょく中途半端になってしまった。このような学生生活の、あるとき、私は、数学を教わっていた講師の先生の研究室へ行って、走高跳の力学的な研究で見いだしていた非線形方程式を説明して、その解法が見つかるかどうかということを話し合っていた。このとき、何の話の流れだったか忘れたが、「連続した指標による次元」のアイディアを、私は、数学の先生に、ぽつりと語った。その先生は、「具体的に、どのようにして、その連続次元を定義するのか」と、ほとんど反論するかのような口調で聞き返してきた。これに応じるアイディアを持っていなかった私は、そこで口を閉じた。

 私がベルワー・マンデンブロの「フラクタル幾何学」という本の日本語版[1]を手にいれたのは1991年のことで、私が37歳のときだった。これを読み、「連続次元の定義」が見事になされているのを知った。私が数学の先生に「連続した指標による次元」のアイディアを語ったとき、そのアイディアの「想念の雲」は、行き場を失って世界中を飛び回り、それに新たなエネルギーを与えてくれる、もっと能力に優れ、強い意志をもっている研究者を見つけたのだろう。しかたがないと私は思った。当時の私はスポーツ馬鹿だったし、数学の先生も、おそらく、それまでの数学界の流れを受けていて、新しいアイディアに挑戦する意欲は持っていなかったのだろう。

 これまでは、離散的な数字による指標で、三次元だとか四次元とかいうものを考えるしかないと思われていたのだが、この物質世界における直線や平面や立体の間には、それらの中間に位置して連続的に変化する状態のものが存在するということが分かったのだ。マンデンブロの「フラクタル幾何学」は、この物質的な世界のことを調べたものであったが、これをエピソードの一つとして、私は、もっと思考を柔軟にしておくべきだということや、これまでの知識には、どこかに盲点が潜んでいることがあるということを学んできたように思う。

 「連続した次元」についての別の視点があるということが分かってきたのは、ごく最近のことである。私はすでに50歳を超えていた。しかし、私はまだ学び続けている状態であり、この世界における「大学」での知識は、ほとんど意味のない、単なるトレーニングのためのものであったことを理解するようになっていた。私の本格的な「学習」は、ちょうどマンデンブロの本を手に入れた37歳のころから始まったように思う。私のことなぞ、どうでもよい。物語を、このページのテーマへと向かわせよう。

 「連続した次元」についての、別の視点ということを、簡単な用語で言い表したものが「オクターブの宇宙」である。この言葉を組み上げる前に吸収した知識のための本が幾冊かある。たとえば、ドランヴァロ・メルキゼデクの「フラワー・オブ・ライフ」[2]。これの第1巻にある「次元、ハーモニクス、波動体系宇宙」というところに、「音のオクターブ」と「次元」のことが述べられている。あるいは、「ハトホルの書」[3]。この第二章「エネルギー体としての人間」のところに、ハトホルたちの、次のようなコメントがある。「あなたがたの兄であり姉であるわたしたちは、こことは別の、あなたがたが四次元と呼ぶ周波数の領域に棲んでいます。」

 他の部分でも、ハトホルたちは、この、「周波数」と「次元」の関係について説明している。たとえば、飛行機のプロペラが、回転すると、半透明の円盤のように見えることを喩えにして、「三次元」と「四次元」とは、それらの回転数が違うだけのことであるかのように語っている。ああ、そうなのか、と思ってしまう。私たちの物質的な身体はプロペラのように回ってはいないが、私たちの物質的な身体を構成している原子の中で、電子はグルグル回っているのだし、原子核の中にある素粒子や、それらを構成しているクォークなどは、おそらく、ある速さで振動していることだろう。それらの微細な領域での運動の違いが、物質世界の「密度」と呼ばれる指標と関係しているのだと、すぐにイメージが結びつく。ただし、このようなことを、私たちの観測装置が突き止められるだけのエネルギーを、はたして、その装置に与えることができるかどうかは、よく分からない。

 私たちの世界とは、物質的につながっていない世界からの、チャネリングという現象による情報を色々と調べてゆくと、どうやら、私たちが存在している世界を「三次元」と呼んで、数学的な三つの座標による空間に対応づけるのではなく、単なる三番目の「振動数の節」に対応するものであると考えるべきだということが分かってきた。これに似た世界は、ここではないところに、ほんの少し振動数が異なるものを「新たな節」とするような状況を考えることで、容易に想像することができる。もし、そのようなものがあるとしたら、私たちの世界で見つかっている、あまりに寿命が短くて、無意味であるかのように見えている素粒子の中に、それらの別世界においては安定したものがあるのかもしれない。

 このようなアイディアを、私たちの世界での現代物理学が、どのように確かめてゆくことができるかは、私にはよく分からない。おそらく、かつての私と数学の先生が、連続次元のアイディアを育てることができなかったように、それまでの知識の籠の中でうろついていては、ここから抜け出すことはできないだろう。

 私は、「ハトホルの書」や「ラー文書」などでも語られている、これまでは宗教もしくは神智学の分野でしか取り上げられなかった知識のいくつか、たとえば、「カー体」[4]や「空気の精シルフ」[5]の証拠のようなものを観測することができることを示した。これらと、現代科学の間にある、まだまだ離れた溝を、どのように埋めてゆくことができるのかということは、まだよく分からない。しかし、このことが何らかの手掛かりになるかもしれない。

 あるいは、NASAなどが観測している、宇宙の画像の中には、私たちの物質的な視点からでは、とうてい理解できないものが数多く写っている。おそらく、私たちが組み上げてきた物理法則というものも、ひょっとすると、地球のごく近くでだけ成立する、ほんの局所てきなものなのかもしれない。もちろん、それは、私たちが知っている「第三密度」に関係する現象に限定されるものであり、そこから、ほんの少しでも違う「周波数」の世界についての法則については、私たちは、ほとんど何も知らない。それなのに私たちは、私たちが知っていることだけで、あまりに広い世界のことまでを説明しようとして、まったくの空想物語を、いくつもいくつも生み出しているのだ。ああ、ほんとうのことだと思っていたことは、ほんとうではなくて、ほんとうではないと思っていたことが、ほんとうだったという、私が「キメラミーム」というページ[6]を立ち上げたときのアイディアが、ほんとうに、ほんとうらしくなってきた。

(2010.04.16 Written by Kinohito KULOTSUKI [@] KULOTSUKI ANALYSIS INSTITUTION)

参照資料

[1] ベルワー・マンデンブロ「フラクタル幾何学」,  広中平祐 監訳, 日経サイエンス社1985

[2] ドランヴァロ・メルキゼデク「フラワー・オブ・ライフ」, 脇坂りん訳, ナチュラルスピリット2001

[3] 「ハトホルの書」, トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著, 紫上はとる訳, ナチュラルスピリット 2003

[4] 「カー体」

CPP179 葉のカー体

CPP181 杉の葉のオーラとカー体

CPP181 Aura & Ka Body of Japanese cedar Leaf

CPP182 デジタルカメラの画像による杉の葉のカー体

CPP182 Ka Body of Japanese Cedar Leaf by Digital Camera Image

CPP183 野生植物の葉のカー体

CPP184 NASAが 見つけた火星の植物像もカー体をもっている

CPP185 火星の砂漠 には樹木以外にまだ何か生物がいる

CPP186 火星の「塵 の星状堆積物」は群生植物かもしれない

CPP187 生きている 化石メタセコイアは巨大なカー体をもっている

CPP188 ハリモミは カー体の外側に光るオーラをもっている

誰でも植物のカー体を見ることができる

誰でも植物のカー体やオーラを見ることができる

[5] 「空気の精シルフ」

RaN33 誰でも空気 の精シルフを見ることができる

[6] 「キメラミーム」キメラミーム

http://www.treeman9621.com/CHIMERA_MEAM_TOP.html