RaN39 オクターブの宇宙 (3) 開始(地球@第三密度)
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黒月樹人のランダムノート (Random Note by Kinohito KULOTSUKI)
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 ルドルフ・シュタイナーの「アカシャ年代記より」という本がある[1]。これは不思議な本だ。この本を手に入れて読んだのは、私が30歳の時のこと。そのとき私は教師として主に理科を教えていた。しかし、とても、この本に書かれているようなことを、生徒たちに語るわけにはいかなかった。公的な場所で教える地球の歴史というものは、現代科学が組みたてた一連の流れに沿ったものだ。太陽の寿命や地球の年齢は、数十億年の単位で推定される。生物の進化についても、何億年とかのスケールで、微生物から始まって、少しずつ複雑なシステムへと変化してきたと説明することになる。

 アメリカのどこかの州では、「ダーウィンの進化論」と対等に、「神による創造」というものが、公的な教育機関で教えられるべきだとされているところがあると聞く。私がホームページを開設した3年ほど前、このことについて調べてみたことがある。科学と宗教の対立が、ここにはあって、それぞれの立場に立つ人たちが、激しく論争している。そのときの私は、どちらかというと、科学の分野における証拠のほうが勝っていると感じていた。しかし、現在の私は、これらの科学における証拠というものに、強い疑問を感じている。

私たちは、この世界を、科学の目で観察しようとしている。この世界は、すべて物質でできていて、それらの基礎となる素粒子については、私たちが理解できない数学と物理学のレベルで、観測と理論の整合性が取られていて、しろうとが口をはさむ余地なぞないように見える。それらの最先端を走っている専門家の一人が、リサ・ランドール教授。数式をまったく書き込んでいない、彼女の分厚い本[2]を、私は数日かけて読み切ったが、このときは、このような思考の、どこに盲点があるのか、まったく分からなかった。だが、それからしばらくして、彼女らのような、専門の科学者たちが信じて疑わなかった、アインシュタインの特殊相対性理論が、厳密には、それによってアインシュタインが証明しようとしていたローレンツ変換が、数学的に無意味な操作を使って生み出されているものであり、まったくの空論であったということを、私は「幽霊変換」[3]という短い論文にまとめ、それをウェブの世界において、この星の人々に発信したのだった。この星の科学には、もろくて怪しげなものが含まれていたのだ。

専門の科学者たちは、論理的な操作と思考によって、いろいろな成果を生み出している。ところが、それらは、分かりそうなものだけを調べたものにすぎない。数学という分野にエピソードがある。20世紀の後半まで、数学の解析学の分野では、線形の方程式を解く手法が発達していたが、非線形の方程式については、まったく取り上げられてこなかった。ところが、コンピュータが発達して、非線形方程式についても、数値計算によって近似解が求められるようになり、ほぼあきらめていた、これの解法を求めるという目標を、どこかに捨ててしまえるようになってから、視点を変えることができて、今度は、これらの非線形方程式の、定性的な性質についての研究が発展することになった。かくして、カオスの理論が発見された。フラクタル次元が見出された。ウェーブレット理論も現れた。これまで、思考のためのゲーム理論のようなものであった、迷宮の中でのゲームのようであった数学の世界が、再び、自然を解明するための確かな道具へと変身したのである。

ルドルフ・シュタイナーの「アカシャ年代記より」に戻ろう。「アカシャ年代記」とは、地球の精妙な空間に残されている、過去のさまざまな事象の記録なのだそうだ。ただし、これを「年代記」として見ることができるためには、特別な訓練が必要となるらしい。シュタイナーは、この訓練についての諸注意を「いかにして超感覚世界の認識を獲得するか」[4]という著書で述べているという。この本の内容について私は、最近、なんとか、思考言語コアによるノートをまとめた。これも、ずいぶん難しい内容の本である。20年くらい前にも持っていたのだが、まったく読み進めることができなかった。まだ、私の経験や思考力が、この本を読み進めるレベルに達していなかったようだ。

「アカシャ年代記より」については、この本を購入した30歳のころに、とりあえず、最後まで読んだようだ。この本には、その当時に制作した版画スタンプを押してあった。珍しかったレインボーカラーの色鉛筆を使って、横線が引いてあり、さらに、何度も、他色の色鉛筆差やボールペンなどで、横線や「山マーク」(試験のヤマを当てるためのマーク)を描いてある。完全に、私だけの、ノートを兼ねた本となっている。この本の内容に関する検定試験のようなものがあったわけではない。この本の内容を細かく暗記しようしとしたわけでもない。ただ単に、理解しようとしただけなのであったが、かんたんには理解できないので、そのようになってしまったのだった。この本の内容は、いずれ、思考言語コアによって、要点の地図か設計図のようなものをつくる必要があるだろう。今回は、「アカシャ年代記より」のページを繰ってゆき、ここでの議論に必要な内容を探すことにする。

ここでは何について考えるのかというと、現在私たちが棲んでいる、この惑星地球の、第三密度の世界が、どのようにして始まったのかということである。このようなことを取り上げるには、それなりの問題がある。たとえば、化石として発掘されている恐竜が、あまりに巨大であり、現在の地球の重力では、とても理解できない。あるいは、数多く発掘されている「イカの石」に描かれていた「絵」には、人と恐竜が、ともに描かれている[5]。これなども、これまでの「地球の歴史」では、まったく説明することができない。さらには、世界のあちらこちらで見つかっている、過去に高度な文明が存在したと考えるしかない、不思議なオーパーツがある。ロシアで見つかっているものであるが、宇宙空間からの撮影画像をベースとして制作されたと考えられる、当時の地形とダムなどの様子を形状化した石板というものがある[6]

恐竜があまりに巨大であることについての問題については、さまざまな仮説が提案されている。たとえば、当時の地球は、もっと速く自転していたので、それによる遠心力が重力と打ち消し合ったというもの[7]。しかし、これは、地球全体に適用できるものではなく、自転速度の見積もりも、おそらく現実的なものではないと考えられる。あるいは、地球の半径が、もっと小さなものであったとしたら、重力も、それに応じて小さくなる。しかし、ここから現在の地球へと変化するときの、地球の質量変化をささえるメカニズムを想像することができない。メカニズムを科学的に説明できないということを言い出すとしたら、これから述べる仮説については、とっとと引っ込めなければならないことだろう。この問題に対して、シュタイナーは、これらとは、まったく異なるアイディアについて述べている(「地球年代記」[8])。恐竜のような巨大な生物が地球の上に生息していたころ、この地球の表面は、現在のように、まだ固くはなっていなかったというものである。これは、私たちが思いつくような、単なるアイディアではなく、特別な能力を使って「見た」ものだそうだ。しかし、これで説得力が高まると考えるわけにはいかない。このアイディアが有望なのは、地球の表面が、もっとドロドロしたものであれば、まるで、それは液体のようなものであり、ここには「浮力」というものが作用するからである。

現在の地球においても、海の中であれば、巨体のクジラでも、自由に活動することができる。かつての地球の表面が、すべて、液体となっていて、海だらけであったとしたら、足を持っている恐竜たちではなく、ヒレの形となった魚竜ばかりであっただろう。足が化石に残っているのだから、陸上というべき、地表はあったはずである。しかし、巨体を支えるための、何らかのメカニズムが必要だった。シュタイナーは、当時の大気が、現在のものとは違っていたとも記している。もっと濃いものであったというもの。これも「浮力説」には有力な情報だ。

この問題については、もうひとつ別の切り口がある。それは「重力」そのものが変化したということである。これについては、さらに問題が大きくなってしまう。なぜかというと、現代の物質科学の世界では、この「重力」が、なぜ生まれているのかということを説明する理論が無いからだ。重力については、「ニュートンの万有引力」と「アインシュタインの一般相対性理論」というものがある。これらも、なぜなのかということについては答えていない。ところが、調べているチャネリング知識本の中に、「重力」の変化についてコメントしているものがある。「重力」は、私たちの集合意識の状態に応じて変化するというものである。

これらに関する具体的な文献調査の段階へと進もう。シュタイナーの「アカシャ年代記より」第十章「地球の由来について」のところに、不思議な記述がある。

*a「人間は地球が生まれる前から、存在していた。」(中略) *b「この地球そのものが人間と共に進化してきたのである。」*c「地球も人間同様に、今日地球といわれているものになる以前に、進化のこの三つの主要段階を通過した。」

ここのところの記述についての内容は、現代科学の視点から考えると、いったい何のことか分からない。地球の寿命が40億年以上あって、現在の人間の寿命は100年に満たないのである。8桁ほどの違いがある。まったく、これは、ただの空想か幻覚幻視の迷いごとであると考えて、笑い飛ばしてしまうことだろう。ところが、私は笑えない。シュタイナーの知識には、教育や農学あるいは医学に関して、現代のそれらにはない、ほんとうのことをついたものが数多く含まれているのである。これだけではない。他の不思議な存在たちからの知識とも矛盾していないし、それらの中には、インドなどで古代から言い伝えられてきた、生命の素であるプラーナやカーに関連した「カー体」(シュタイナーの用語ではエーテル体)についての記述もある。この「カー体」は植物において、確実なものとして、その存在を観測できることが分かった[9]。これはもう、科学の分野での知識なのである。もちろん、このことが多くの人々に納得してもらえるまで、まだまだ時間はかかるだろう。しかし、そのような悠長なことは言っていられない。現実世界の中で構成された推理物語の結末は、もう、手の届くところに現れている。

私は、もう、現代科学の知識と、宗教的な伝統のなかでの知識とを、これは正しい、これは間違っていると、何も調べないうちから判じるというのはやめることにしている。どちらにも正しいことがあるのだし、互いの視野が異なるだけではなく、互いが対象としている世界のことも、まったく、ずれているのである。宗教や神智学や、現代では、未知の存在たちからのチャネリング情報というものが示す世界というものについて、現代科学はさいしょから無視を決め込んでいるように思える。これらの二つの視点の分野は、多くのことを無視しあってきているのであるが、ところどころに、共通の問題を抱えてきている。その一つが、「人類や生命の進化」というものであり、もう一つが、「地球や宇宙の進化」という問題である。シュタイナーは、これらの問題が別々のものではなく、「共に進化してきた」と主張しているのだ。

シュタイナーが「人間」と表現するとき、それは、現代科学が、自分たちで分析可能な、物質的な人間だけを意味しているのではない。シュタイナーにおいて「人間」は、「①物質体としての身体」「②エーテル体(< > カー体) 」「③アストラル体」「④自我」が四重に重なった複合体と見られている。「ラーたち」によれば、「人間」は「心/身体/霊複合体」であるという[10]。おそらく、シュタイナーの表現における「③アストラル体」が、「ラーたち」の表現の「心」に対応しているのではないだろうか。「②エーテル体(< > カー体) 」が、「心」に含まれるのか、あるいは、「身体」のペアとして、こちらに含められてしまうのか、少し判断に苦しむ。もちろん、「④自我」は「霊」に対応するのだろう。現代科学は「心」についての研究をおこなってはいるものの、まったく抽象的であり、それが何らかの「体」に由来しているとは、まったく考えていない。「霊」については、一部の研究者を除いて、まったく無視しているようだ。

シュタイナーが「地球」を考察しているとき、それは、やはり、現代科学の研究者たちが考えているような、純粋に物質的なものだけではないようだ。それでは「地球」というものが、いったいどのようなものの複合体であるかというと、これについての具体的で詳細な記述は見つからない。*c「地球も人間同様に、今日地球といわれているものになる以前に、進化のこの三つの主要段階を通過した。」の表現のあとに、地球について語られる不思議な物語がある。地球は、人間の身体に対応する、物質的なものとして存在する前に、これとは異なる三つの状態として変化してきたというのである。

人間の変化と、地球の変化とが、共に進んできたらしい。シュタイナーが見た「アカシャ年代記」という記録によれば、現在の状態の一つ前では、人間はまだ「自我」をもってはおらず、ほぼ現代の動物と同じ状態であった。そのとき、地球はというと、こちらも、現在のものとは何かが違うものであり、その状態は「月紀」と呼ばれている。いわゆる、現在の地球の「前世」のようなものである。そして、その前が「太陽紀」で、さらにその前が「土星紀」となる。反対に、現在の地球の「来世」のようなものにも名前がついている。「木星紀」である。そして、その次が「金星紀」で、さらにその次が「ヴルカン星紀」となる。時系列にそって並べると、「土星紀」→「太陽紀」「月紀」「地球」「木星紀」「金星紀」「ヴルカン星紀」となる。これらの舞台に応じて、人間の意識も、順に明るさを増してきたというストーリーが語られる。これらの地球と人間の共進化は、同じ世界の中で行われたのではなく、さらには、これらの共変化とともに、地球や人間が存在する空間の状態が変化してきたとされている。真ん中にある、現在の地球と人間が存在している空間が、「第三密度」に対応している。

シュタイナーの「アカシャ年代記より」だけではなく、他からの情報を調べてゆくと、このようなプロセスに関するものが、あちらこちらと、離れ離れになって見つかる。たとえば、「ハトホルの書」[11]には、次のような記述がある。ハトホルたちが古代エジプト黎明期に現れていたときのことに触れて、「わたしたちの意識がより密度の濃い存在のレベルに移ったときには、わたしたちの光の体は物質的な身体像をもちます」と述べている。ハトホルたちを「見た」のは、地球の中でも、透視能力をもったものだけだったそうだが、それについての、次のような記述もある。「長い歳月のあいだに地球の密度が濃くなり、それにともない人類の透視能力も低下していった」と。ここから分かることは、「空間の密度というものは、ある程度連続的に変化してゆく」ということである。

「ラー文書」においても、「空間の密度」が変化することにより、世界の状態が変わり、そこに存在しているものたちの状態も変わってゆくということが述べられている[12]。「ラー文書」のsession13のところに、「第二密度から第三密度への進化」や、「第三密度の惑星から第四密度の惑星への進化」についての情報がある。この「ラー文書」においては、質問者の質問と、回答者としてのラーたちとの、言語表現のずれというものが、なかなか大きいものであり、内容が分かりにくくなっている。おそらく、地球の言語というものは、私たちが「分かる」ものに対して発達しているものであるので、私たちの現実世界によく対応している。ところが、現実のドラマではなく、夢の中のドラマを表現しようとすると、たちまち力を失ってしまう。ラーたちが述べることの中には、私たちの夢の中のドラマより、さらに不思議なことが含まれる。さらには、ラーたちの厳格な性格のようなものが現れていて、言葉にならないような、イメージでさえ、流れてしまうような、ぼんやりしたものまで、なんとか厳密に言語化して、チャネラーの口から発声させようとする。このようなことにより、物語はどんどんと抽象化されてゆき、私たちが理解できるイメージから離れてゆく。

「ラー文書」のsession19のところに、比較的分かりやすい記述がある。そうは言っても、その記述を、そのまま表記すると、たいへんな分量になるし、やはり、分かりにくい表現になるので、要約して説明しよう。ここには、地球の第二密度に存在するものたちのことがたずねられている。それは「動物」と「樹木」と「鉱物」である。これらが「知的エネルギー」に気がつくことにより、それぞれの状態から変化して、次の異なる存在になるのだそうだ。ここのところの「知的エネルギー」というものが、やはり、私たちには分かりにくいのだが、なんとか、これはこのままで、先に進もう。このsession19においては、とても重要な質問がなされている。「それでは、この第二密度から第三密度への移行は75000年前に起きたのでしょうか」というものである。ラーたちの答えはシンプルなものだった。「そうです」とあるだけだ。このときに必要だったものは、「自己認識」あるいは「自我意識」と呼ばれるものであるという。

75000年前」まで、この地球は「第三密度」ではなかったと、ラーたちは証言しているのだ。これには驚いた。シュタイナーが「月紀」から「現在の地球」への変化について述べているが、その時間については、よく分からなかった。「アカシャ年代記」というものは、年表のようなものではなくて、さまざまなイメージが集まっているものらしい。化石を地面から掘り出すときも、それらに時代や時間のスタンプ記号がついているわけではない。私たちが過去について考えるときの時間は、記録されている歴史をのぞけば、すべて、何らかの推定値によるものなのである。ラーたちの数値の見積もりも、ある種の推定値である。しかし、どうやらラーたちは、私たち地球人からみると、おそろしく長命の存在らしい。ラーたちの知識は、その種族の中の言い伝えではなく、ひょっとすると、直接見たことの記憶のようである。いや、そのようなことは記されていない。問題は、このような具体的な数値と、それが何億年という単位ではないということである。

75000年前」までの地球は、いったいどのようなものだったのか。シュタイナーによれば、地球が「月紀」から、現在の地球に変化するときの出来事として、「月の分離」という現象が起こったと述べている。「ハトホルの書」の中に、「遠い昔、月は地球の一部だったのです」と表現された部分がある。太陽系の火星や金星や、さらには木星や土星への、他の宇宙領域からの入植についてハトホルたちが語っているところである。

問題を広げすぎないようにしよう。ここでは、地球が現在のようになったときのことについて考えている。私たちの現代科学では、地球が物質的な状態であるのは、40億年以上昔からのことだと考えている。ところが、べつの世界からの知識によれば、それは、ほんの75000年前からのことだという。ここの違いは大きい。現代科学が化石などの時間を計算する根拠となるのは、原子の崩壊プロセスである。これを用いるときの大きな仮定は、このようなプロセスが不変のものであり、現在も、40億年前でも、同じように進むのだというところにある。ところが、このような「原子」そのものが、物質的なものとして存在するようになったのが、わずか「75000年前」のことであり、この間にも、「第三密度」というものは、常に固定されているものではなく、じわりじわりと変化してゆき、そのため、古代エジプト黎明期の人類の中の霊視能力者たちでさえ、次第にハトホルたちの姿を見ることができなくなっていったのだという。物質そのものが、この世界の中で、何らかの振動数を変化させていったのだとしたら、この振動数を基準として計測される「時間」というものも、あまり確かなものではないということになる。

(2010.04.17 Written by Kinohito KULOTSUKI [@] KULOTSUKI ANALYSIS INSTITUTION)

参照資料

[1] ルドルフ・シュタイナー「アカシャ年代記より」高橋 巌訳, 国書刊行会1981

[2] リサ・ランドール「ワープする宇宙」向山信治監訳, 塩原通緒訳, NHK出版2007

[3] 黒月樹人「幽霊変換」

http://www.treeman9621.com/PHANTOM_TRANSFORMATIONS_Japanese.html

[4] ルドルフ・シュタイナー「いかにして超感覚世界の認識を獲得するか」松浦 賢訳, 柏書房2001, 「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」ルドルフ・シュタイナー著, 高 橋 巌訳, イザラ書房1979

[5] Javier Cabrera Darquea「人類史をくつがえす奇跡の石―イカ線刻 石(ガブレラストーン)の真実」 林 陽訳, 徳間書店, 浅川嘉富「恐竜と共に滅びた文明」, 徳間書店 2004

[6] The Map of The Creator

http://www.bibliotecapleyades.net/esp_map_creator.htm

[7] 権藤正勝「ジュラシック・ミステリー」Gakken 2002

[8] 「地球年代記」ルドルフ・シュタイナー著, 西川隆範訳, 風濤社2009

[9] CPP183 野生植物の 葉のカー体

http://www.treeman9621.com/CPP183_KaBody_ofPlantLeaf_inField.html

CPP179 葉のカー体

CPP181 杉の葉のオーラとカー体

CPP181 Aura & Ka Body of Japanese cedar Leaf

CPP182 デジタルカメラの画像による杉の葉のカー体

CPP182 Ka Body of Japanese Cedar Leaf by Digital Camera Image

CPP184 NASAが 見つけた火星の植物像もカー体をもっている

CPP185 火星の砂漠 には樹木以外にまだ何か生物がいる

CPP186 火星の「塵 の星状堆積物」は群生植物かもしれない

CPP187 生きている 化石メタセコイアは巨大なカー体をもっている

CPP188 ハリモミは カー体の外側に光るオーラをもっている

誰でも植物のカー体を見ることができる

誰でも植物のカー体やオーラを見ることができる

[10] ラー文書 「一なるものの法則」第一巻, ドン・エルキンズ、カーラ・L・ルカート、ジェー ムズ・マッカーティ著, 紫上はとる訳, ナ チュラルスピリット2008

http://www.lawofone.info/

[11] 「ハトホルの書」, トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著, 紫上はとる訳, ナチュラルスピリット 2003

[12] RaN35 ラー文書「一なるものの法則」第一巻 セッション0113

http://www.treeman9621.com/RaN_2010/RaN35/RaN35_THE_RA_MATERIA_THE_LAW_OF_ONE_1_session01_13.html

RaN36 ラー文書「一なるものの法則」第一巻 セッション1426

http://www.treeman9621.com/RaN_2010/RaN36/RaN36_THE_RA_MATERIAL_THE_LAW_OF_ONE_1_session14_26.html

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