RaN41 「うつ病」と「認知行動療法」について
RaN41 On Depression & Cognitive-Behavioral Therapy
黒月樹人のランダムノート (Random Note by Kinohito KULOTSUKI)
RaN41 「うつ病」と「認知行動療法」について

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 テレビで「うつ病」を取り上げていた。脳内をスキャンして、うつ病患者と正常者との脳内前頭葉部分での血流量が異なることが確認できたというところを切り口として、うつ病患者の治療法と、その脳内血流量画像の変化についての対応が紹介されていた。

 うつ病患者と正常者との違いが、脳内血流量の変化という、目に見える結果で示されるようになったということの意義は大きいのだろう。

 これに応じて、うつ病患者に対しては、投薬治療とともに、カウンセリング治療が行われているという。漢字6文字で、難しそうな言葉になっていた。かすかな記憶を手掛かりにして、ウェブで正確な用語を調べた。それは認知行動療法と呼ばれている。次の枠内の知識は、うつ病.com[1] からの引用である。

 

認知行動療法

@認知のゆがみにつながったきっかけを明らかにする。

A認知のゆがみを患者さん自身に気づいてもらう。

B柔軟性をもった考え方に変えていく。

 

 簡潔にまとめられている。テレビでは実際の治療ケースが、患者の顔を隠し、声を変えて紹介されていた。ある若い女性が会社に行けなくなった。会社で疎外されていると感じてのことだという。話を聞くと、上司にあいさつしたのだが、まったく無視されているという。これが「認知行動療法の@」に対応する。精神科の医者は、「同じようなことが、同僚の誰かに起こったことを知り、その相談をあなたが受けたとしたら、どのように答えてあげますか」と質問した。患者である若い女性は、「上司が無反応だったのは、声が小さくて聞こえていなかったのではないか」と答える。テレビの解説では、このようにして、患者は、患者自身の外側に立場を置き換えて考えることを学ぶとしている。このような質問に答えることにより、患者は「認知のゆがみ」を他人の立場に立って気づき、さらに、「B柔軟性をもった考え方」を学ぶということなのだろう。

 テレビでは、これで「うつ病」が快方へと向かってゆくと、まとめていったように思う。しかし、私には、そうは思えない。テレビで扱った、このケースでは、「認知のゆがみ」は、この若い女性のほうにあって、この患者の考え方を変えれば、「うつ病」が治ってゆくのだと見なしている。ところが、複雑な現実には、これ以外の状況がいくらでもある。

 たとえば、この女性が感じていることは、彼女の思い込みなどではなく、「ほんとうのこと」であるというケースがある。このとき、上のような「解法」は無効となる。若くて感受性の高い人は、おうおうにしてテレパシーの能力に優れていることがあり、雰囲気どころか、その上司の心の中を読み取ってしまうことがある。彼女が感じていることは、「認知のゆがみ」によって、彼女が作り出した虚像などではなく、「正しい認知」によって知りえた、ほんとうのことだとしたら、彼女に嘘のシナリオを刷り込んで、もとの世界へと送り返したとしても、問題はこじれ続けるだけだ。もっと特殊なケースとして、彼女が無視される原因を、彼女自身が持っているのだが、そのことに気がついていないというケースもありうる。このときも、やはり、問題は解決してゆかないだろう。このように、「認知のゆがみ」というものが、どこにあるのかということは、大きな問題となる。うつ病患者はおおよそ、正常な生活を行うことができている人と同じようには、この世界のことや自分と周囲との関係を「見る」ことができない。そこからの情報だけで判断しなければならない精神科の先生が、起こっていることの全体像を、いったい、どれだけ真に把握できるのか。

 あまり自慢になることではないが、私は、これまで、何度も、うつ病から抜け出してきた。そして、自慢すべきかどうかは疑わしいが、薬物療法にも、認知行動療法を主張する医者にも頼っていない。そのときそのときで、抜け出すためのきっかけは異なっていたかもしれない。一度目のうつ病からの離脱のとき、少し抽象的になるが、「失ったものにしがみつくのは、もういい」と決断したことで、目の前が明るくなった。二度目のときは、これまでの過去を失敗だったと考えてしまい、あっという間に、周囲の世界が無意味なものになったのだったが、六か月後、ようやく、自分自身ができることを見いだして、世界が意味のあるものと考えられるようになった。三度目のうつ病は、このホームページを充実させるということで、これまで失っていた、周囲の世界とのつながりを見出せるようになった。そういえば、このとき、「躁鬱病」についてのサイト[10] を見ることができ、ここのページにおける、明らかに私よりも重症の人の、具体的な物語 [11] を読むことにより、自分自身の症状について、自分から離れた視点で考えることができたのかもしれない。

細かく分析すれば、もっと色々な波があったかもしれない。私は、ただのうつ病ではなく、典型的な躁鬱病なので、反対の「躁期」というものがある。あまりに激しい「躁期」は厄介なのだが、おだやかな躁期のとき、私はただ心地よいだけではなく、高められた知能とシャープな意識のコンディションのもとで、多くの成果を上げてきている。そのときの感覚からは、正常な人々が、まるで、眠りながら生きているだけのように見えてしまう。何人かのサンプルを知っているが、躁鬱病ではなく、うつ期を知らない、純粋な躁病というものがあることも知った。彼らは、せっかくの幸せな気分を、ただむやみに過ごしているだけで、ほとんど成果らしきものを生み出さず、経済的な感覚が狂うという、躁状態の欠陥だけを表現しているように見える。それと、うるさいばかりの冗舌さ。芸能界でなら、これを生かす道もあるのだろうが、通常の世界では、周囲の者にとって、じゃまになることが多い。おだやかな「躁病」なら、それだけで、すべてよいというわけではないようだ。

 テレビでのケースに戻ろう。上司に無視されたことがきっかけで、「私は、この会社では無意味な存在」と考えて、会社にゆけなくなった女性のことである。ここにある「認知のゆがみ」が、いったい、どこにあるのかということを判断するのは、かなり難しい。仮に、この女性は、その会社で、ほんとうに無視されていて、ほとんど無用だとされていることに気づいたのだというとき、どのような解決法があるのだろうか。

 たとえば、カルロス・カスタネダがシリーズ化したインディアンの呪術師ドン・ファンによる教えの中に、「小暴君」という考えがある[2]。本の中で述べられていたこととは違うかもしれないが、私が学んだのは、次のようなことだ。私たちの世界に「小暴君」が現れたとき、それと巧みに対決して、うまく状況を変化させることができたら、そのとき、自分自身には、大きな力がつくことになる。それは「呪術の力」である。普通の人には信じられないようなことの、エネルギーの源が得られることになる。ただし、この力は、どのようにも使うことができるという点で、大きな危険が潜むことになる。

 そのような世界で「小暴君」と対決するなんて、まったく考えられないというのなら、そして、他にやりたいことがあって、それをやることのほうがずうっとよいと考えられるのなら、かつて、バシャール[3] があおったように、さっさと、自分の世界を変えてしまえばよいのかもしれない。

 それでも、周囲の世界が変わり、自分自身も変わったと思っているのに、再び同じ問題が現れるということがある。何か根本的な原因があるのかもしれない。そのときは、この問題を解決しないと、同じことを何度も繰り返してしまうということに気がつくべきである。そして、いったい何が問題なのかを、繰り返された状況を比較して、つきとめて、解決法を考え、それを実行する必要がある。ここには、ドン・ファンが言っている「抽象の核」というものが役だつ[4]。これは、人生の中に現れる、行動や結果についての「青写真」のことである。何度も繰り返されるドラマのシナリオがあるということだ。これらのストーリーの流れの「核」を見抜く必要がある。私は、このような問題に取り組みやすくするためにと考えて、「思考言語コア」[5] を開発したのだった。

 このような、個人に必須の問題が現れるということに対して、アフは、これらの課題は一人ずつ違うと述べている[6]。このコメントが、私の心を身軽にしてくれたことを覚えている。私には私の課題がある。他の人には他の人の課題がある。そのために必要とすることは、互いに異なっているのである。解決しなければならない課題に応じて、そのための道具は異なってくる。それぞれが、まったく同じである必要はないのだ。高い社会的地位が必要な場合があるし、それらが無いほうがよい場合がある。何が役だっていて、何がじゃまとなっているかも、人によって違うのだ。だから、他人と自分とを、何であろうと比較しようとするのはナンセンスである。

 シュタイナー[7]やハトホルたち[8]やラーたち[9]がアドバイスしてくれている、より根本的な視野がある。私たちがばらばらになって、お互いに理解できなくなっているのは、単なるドラマのようなものであり、まるで「敵」のように見える相手は、このときの、私との関係で生じる問題を明らかにするためのドラマにおいて、「敵の役」を演じてくれているというものだ。私と「敵役」とは、もともとひとつの存在であるのだが、この世界では、それも忘れて、別々の存在として、この問題についてのドラマを演じているだけ。この視点をほんとうに理解して、私と「敵役」の、いずれとも別のところから、この世界で起こっていることを眺められるようになると、私のことが消えてしまい、不思議な感覚になることがある。それまで憎くてたまらなかった相手のことが、なんともないようになる。そのとき、やはり、不思議な力のエネルギーが与えられることがある。これをうまく使うことができれば、自分だけでなく、周囲の世界までが、信じられないくらい、うまく変わることになる。しかし、まったく逆のことが起こることもある。私が思い出してしまうのは、ほとんど後者のことばかりだ。私自身が「小暴君」に成ってしまう可能性もあるわけだ。

 ほんとうのことが幾つもあるので、あまり具体的な物語は話せない。私が学んできたことの、これがすべてのものでもないし、これが正解だというものでもない。私も「うつ病」にかかってしまって、そこから何度も抜け出してきたのだが、それでも、この後、再び落ちてしまわないとも限らない。意図的にバランスをとって、すべきことやすべきではないことを判じてゆかなければ、ちょうどよい状態を続けることはできない。

(2010.04.22 Written by Kinohito KULOTSUKI [@] KULOTSUKI ANALYSIS INSTITUTION)

参照資料

[1] うつ病.com  http://www.u-tsu.com/

[2] 「小暴君」, カルロス・カスタネダのシリーズ, 「呪術師と私」(ほとんど真崎義博訳1980前後のあたりから)〜「無限の本質」(結城山和夫訳2001), 二見書房

[3] 「バシャール」ダリル・アンカ著, VOICE

[4] 「抽象の核」, カルロス・カスタネダのシリーズ, 「呪術師と私」(ほとんど真崎義博訳1980前後のあたりから)〜「無限の本質」(結城山和夫訳2001), 二見書房

[5] 思考言語コア

http://www.treeman9621.com/Think_language_CORE_center.html

[6] 輪廻を超えて, ジュティー・ラドン◆著, 片桐すみ子◆訳, 人文書院, 1996.6.30

[7] ルドルフ・シュタイナー「いかにして高次の世界を認識するか」松浦賢訳, 柏書房2001

(難しいので、このような視点のことへは結びつかないかもしれないが)

[8] 「ハトホルの書」, トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著, 紫上はとる訳, ナチュラルスピリット 2003

[9] ラー文書 「一なるものの法則」第一巻, ドン・エルキンズ、カーラ・L・ルカート、ジェーム ズ・マッカーティ著, 紫上はとる訳, ナ チュラルスピリット2008

[10] 躁鬱病とこころの部屋   http://aqugemi.net/

[11] 閉鎖病棟入院記   http://aqugemi.net/nuinki/heisa.html

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