ナタリー・ゴールドバーグの「魂の文章術」を読んで

黒月樹人(Kinohito KULOTSUKI)



 ナタリー・ゴールドバーグの「魂の文章術」[1] を読んで、それではと、「ナタリー」と「ゴールドバーグ」をキーワードとして、グーグルで検索してみたら、そのサイト・リストの18番目に「RaN54 私にできること」[2] があった。数日前、本文中に少し引用しただけなのに、もう見つかってリストに加えられている。早いなあ。まるで、スパイに監視されているみたいだ。それなら、こっちにも考えがある。この本についての感想文をまとめるまでだ。

 あっという間に読み終えてしまった。これは、もったいないやり方だったなと、少し後悔している。この本は、23ページほどの、小さなエッセイが集まったもの。それぞれに、しかるべきタイトルが付いている。それらの関連や、全体としての流れのようなものは、ほとんど感じ取れない。これらを眺めると、訳者も取り上げているような、ナタリー・ゴールドバーグの標語「黙って書きなさい」が、ひしひしと伝わってくる。

 読み終えて、改めて感心させてもらったのは、この本がナタリー・ゴールドバーグの「処女作」であるということだ。賞を取るような、完成された「小説」や、何か別の分野でのベストセラーを出した後で、それでは「文章読本」や「文章術」でも書いてみようかと、作品群の付録のように生み出されるものが多い。ところが、この「魂の文章術」は、これそのものが作品であるというのだ。

 私も、何十年も前から、「黒月樹人」というペンネームだけは持っているが、「処女作」どころか、市販できる著作物なぞ、一冊も生み出してこなかった。というと、嘘になるか。ささやかな「手造りの詩集」を作ったことはある。ただし、そのときは本名を使っていた。私が「詩」を書いたのは、ストレートな表現では言い表せないものを、たくさんかかえこんでいたからだった。それらを、すっかり吐き出した後、私の、この人生における目標は「詩人」になることではないということに気づいた。イラストレイターでもなく、版画家でもなく、彫刻家でもなかった。何か一つだけ選ぶというのであれば、それは「科学者」だと考えるようになっていた。「詩集」の類は、もう、どこかに消えてしまっている。

 ナタリー・ゴールドバーグの「魂の文章術」に戻って、私が強く印象づけられたリーフページ(葉っぱのページ)[3] は「即興詩人」である。これは、バザーやお祭りで、ナタリー・ゴールドバーグが、「詩のご注文お受けします」「即興で詩を作ります」「どんなテーマでも書きます」といった看板を掲げ、一作1ドルほどのお金を取って「詩」を売ったことの経験談。ナタリーは、これを「作品に執着しないための効果的な修行」として行ったという。「店の前には一日中行列ができた」とも書かれている。これには驚いた。すでに作ってある「詩集」を売るのではない。即興で描く「似顔絵」を売るのでもない。これは、ちょっと真似できない。

 ごちゃごちゃと、これにまつわるエピソードが書かれた後で、ナタリーは、サンフランシスコに住む男性からもらった手紙のことに触れている。彼は、「ろくに考えもせずに沿岸警備隊に志願した」そうだ。船に乗るときに持ち込んだのは、家族の写真と、ナタリーが「ミネソタのバザーで三年前に書いた詩」だけだったらしい。その後、彼はコンピュータの仕事で成功しており、ナタリーがお金に困っているなら、喜んで送金すると書いてあったという。

 私の「詩」には、こんな力はないようだ。「エッセイ」だったら、どうだろうか。ひょっとすると、「黒月樹人のホームページ」で茂らせている、幾枚かのリーフページが、何らかの影響力をもっているかもしれない。実は、明らかになってしまうと、とんでもない状況になってしまうかもしれないので、秘密にしていることがある。「黒月樹人のホームページ」における「スポーツ解析」は、「速く走りたい」と願う人を援助しようとするものなので、ときどき、質問メールが届くことがある。これらの質問に応えている状況ではないときもあるにはあるのだが、そんなとき、カルロス・カスタネダを「弟子」として指導しようとしていたときの、インディアンのドン・ファンの気持ちや、何を聞いているのか分からないような質問にも、真面目に応えようとしている「ラーたち」の態度を思い起こす。私が「スポーツ解析」で、これまでに得た知識を公開しているのは、それらの知識を利用してもらいたいからなのであるから、どのような質問にも、それなりに応える義務があるのだ。

ナタリー・ゴールドバーグは、何の文学的な作品も生み出すことなく、「魂の文章術」のための、さまざまなタイトルで象徴されるような、これまでの視点とは異なるものを書き記した。これは、私にとって、じゅうぶん刺激的なことである。今の私だったら、そう考えてみると、樹木のようなホームページに、どのようにして、葉っぱのページを増やしてゆくかという意味で、「何らかのノウハウもの」を作ってゆくことができるかもしれない。とにかく、「黒月樹人のホームページ」は普通じゃない。多彩な内容も、それらの量も。制作してきた私ですら、他人事のように驚いてしまう。ここには、何らかのノウハウが潜んでいるはずだ。このことの、次なる展開は、別のタイトルのページで展開することにしよう。

さて、ナタリー・ゴールドバーグの「魂の文章術」では、「禅の思想」が幹となっている。あちらこちらに、この「禅の思想」の中へと取り込まれた、「宇宙の法則」のようなものがあらわれている。これがナタリー・ゴールドバーグの「魂の文章術」を、特異なものへと色づけている。文章制作のノウハウ本と、人生修業のノウハウ本との、これまで何も無かった境界領域で、ユニークなものとして出現したわけである。生態学的な、新たなニッチを見出した生物は、それによって生き残ってゆくことができる。文章にかかわることや、経済的な利益にかかわることといった、人間世界の中にも、それによく似た「生態学」は、あちらこちらに存在している。

「黒月樹人のホームページ」において、「宇宙の法則」のようなものが根付いてきたのは、ごくごく最近のこと。古くは「ハトホル」と「ゾクチェン」の関係について調べたリーフページがあったが、「セス」や「アフ」や「ラー」についてのページを加えたのは、2010年に入ってからではなかっただろうか。まだまだ、知らないことは、いっぱいある。

ナタリー・ゴールドバーグの「魂の文章術」では、禅の指導を受けていた、片桐老師の言葉が、ところどころで引用される。それらの中でも印象的だったのは、座禅を習いにきているナタリーに向かって、述べた言葉だ。「なぜ座禅をしにくるのかね。書くことを自分の修行にしたらどうなんだい。書くことの中にどっぷり入って行ったら、それはあんたをあらゆる場所に連れていってくれるよ。」表向き座禅を指導するものが、そんなものより、書くことを選べと言っているのだ。

私は座禅が苦手だ。陸上競技のトレーニングで発達しすぎた、脚の筋肉が邪魔になって、長時間安定して座ることなぞできっこない。しかし、これまでの私を振り返ってみると、ナタリーが「書くことの中にどっぷり入って行った」ように、私は、陸上競技のトレーニングや指導、さらには、走高跳やランニングについての、力学的なメカニズムの研究の中に、「どっぷり入って行った」ことが分かる。私のケースでは、このような「修行のためにすること」というものが、幾つも現れてきたのだ。たとえば、「思考言語コア」、「アインシュタインらの矛盾の研究」、「C言語による、これまでにない画像解析プログラムの開発」などなど、幾つかの「修行の道」の中に、「どっぷり入ってきている」。それらの「ショーウィンドウ」のようなものが、「黒月樹人のホームページ」となっているようだ。

ナタリー・ゴールドバーグは「とにかく黙って書く」ことにより、いろいろなことを確かなものとしてきた。私も、何らかのリーフページを「とにかく作る」ことにより、私がここで生きていることを、しっかりと味わいたいと思う。

(2010.05.24 Written by Kinohito KULOTSUKI [@] KULOTSUKI ANALYSIS INSTITUTION)

 参照資料
[1] ナタリー・ゴールドバーグ「魂の文章術」小谷啓子訳 春秋社 1995

[2] RaN54 私にできること
[3] 「リーフページ(葉っぱページ)」という言葉を、これから使おうと思う。ホームページの全体を「樹木(tree)」と見たとき、幹や枝に相当する、下部のページの一覧を集めた「ブランチページ(枝っこページ)」があって、それらの葉として、最後に、ここでの、RaN57 ナタリー・ゴールドバーグの「魂の文章術」を読んで のような、ひとつのまとまったページ群へと至ることになる。最後のまとまったものを、「リーフページ」と呼ぶことにしよう。そこからリンクが張られていて…というところは、まさに、クモの糸のようなものだ。それは、wwwのところで、言いあらわされている。