RaN246 地球人はどこにいるのか(1)スタニスワフ・レム「新しい宇宙創造説」
Where is the earthian? (1) “Nowa Kosmogonia”

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 スタニスワフ・レム

 スタニスワフ・レムはポーランドのSF作家です。
 2006年に84歳で亡くなられました。世界中で翻訳され、広く親しまれています。遺作となったのは「大失敗」というSF小説です。ここまでくると、小説家としての表現力の輝きが、あちこちに結晶のようにちりばめられており、「バーナムの森」のところの緻密な描写は、そこのところだけでも、一つの作品として取り上げてもよいものです。ラストの展開と表現も見事でした。
 SF小説をたくさん読み始めたのは、大学生のころ、同じクラスの友達(女性)から、レンズマン・シリーズをすすめられたからだったと思います。その女性との話題を広げるために手にしたものでしたが、なるほど、これはのめり込んでしまうと感じました。(当時、本屋で手に入れることができたものという意味で)全部読んだと記憶しています。でも、あまりにスペース・オペラじみていて、何万光年も離れているのに、まるで電話回線が引かれているかのように、情報が瞬時に伝えられるというあたりに違和感を覚えました。
 今から40年ほど昔のことになります。スタニスワフ・レムは当時40歳台で、すでにSF作家として地位を固めており、数多くの作品を生み出していました。
 映画にもなった作品として「ソラリスの陽のもとに」があります。ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーによる、この作品の名は「惑星ソラリス」となっていますが、原作では、確か「ソラリス」というのは、恒星の名称だったと思います。大阪の朝日会館まで電車で行って、その映画を見ました。近未来都市の映像として使われたのが、当時の、東京首都高速のシーンでした。黒沢明監督が新聞で、とても長い、冒頭の「水草のシーン」を編集で短くしないようにと警告しておられましたが、おそらく、それは短くされたようです。そのシーンがなぜ重要なのかということは、この地球で永く生きてゆくにつれ、よく分かるようになってきました。
 映画を先に見てから、日本語に訳されていた、文庫本(ハヤカワノベルズ)の「ソラリスの陽のもとに」を読み始め、その、緻密で哲学的な文体に引き込まれました。
 レムのSF小説は、文庫本でも数多く並べられていましたが、ハードカバーのものも、次々と翻訳されていました。手元に残してあるものとして、「エデン」「宇宙飛行士ピルクス物語」「泰平ヨンの未来学会議」などがあります。
 「完全な真空」も「虚数」も残してあります。
 「新しい宇宙創造説」は、もともと「完全な真空」に収められたものですが、私がさいしょに読んだのは、F・ロッテンシュタイナーが編集した「レムの宇宙カタログ」に収められていたものでした。
 黄色のマーカーで文章を光らせ、赤ボールペンでさらに分類し、段落ごとに数字を書き込み、何度も読み返しました。
 それだけではありません。私は、この難解な文章の内容を理解しようと、ただ読むだけではなく、要点の意味を、新たな記号体系に変換するという、不思議な試みを始めたのです。それが「思考言語コア」を生み出すときの、さいしょの取り組みだったと思います。
 レムは子供のころ、知能指数が180もあったということです。同じくらいの歳のころの私は128でした。平均より少し高めですが、決して天才とか呼ばれるようなものではありません。「新しい宇宙創造説」を読んだのは30歳前後のころでしたが、やはり、そのころの私の知能指数は、それくらいの値だったと思われます。
 やがて私は「思考言語コア」を使いやすいものへと改良し、「新しい宇宙創造説」の内容を、この言語体系の記号でまとめることにより、そして、この方法を、いろいろな文章に適用してゆく訓練を重ねてゆくことで、実際に計測したことはありませんが、(ゆっくりと時間をかけて、いろいろな問題を解決してきたことから)高い知能レベルへと変化していった、と思います。

 「新しい宇宙創造説」

 「新しい宇宙創造説(Nowa Kosmogonia)」の内容へと進みます。
 これはアルフレッド・テスタ(Alfred Testa)教授が「ノーベル賞受賞の際に行った講演のテキストである」という、小さな文字での注釈から始まっています。もちろん、架空の人物です。
 それでは、「新しい宇宙創造説」というのはテスタ教授によるものかというと、そうではなくて、ギリシャ人、アリスティデス・アヘロプーロスの主著ということになっています。これも架空の人物です。
 このようなレベルで語ってゆくと、いつまでたっても終わりそうにないので、細かいことには目をつぶって、この小説の主要なテーマへと進むことにします。
 11段落目のところで、テスタ教授は、私たちが親しんでいる物理世界の「造物者自身が数学者」であるということを、そのような認識に至った、ニュートン、アインシュタイン、ジーンズ、エディントンの名前を連ねて、論じてゆきます。
 さらに、13段落目の結論として「宇宙には創造者がいる」という展開へと進んでゆきます。
 このあと、言葉としては出てこなかったと思いますが、宇宙人が周囲に見あたらないという「フェルミのパラドックス」のことにふれています。
 私たちの宇宙の存続期間が百二十億年はあると見積もり、私たちの太陽系の年齢を五十億年とすると、「太陽系は宇宙が生み出した星々の最初の世代には属さない」と考え、その「最初の世代」(の星で進化した知性体という意味です)が何をして、どのようになったのかと、考えを進めてゆきます。
 そして、私たちが存在している、この物理的な宇宙というものが、それらの「最初の世代」によって生み出されたものであり、私たちが「自然の法則」とみなしているもの(物理学)は、「最初の世代」の「機械(マシン)」のようなものだと論じられます。
 このような前提があって、ようやく、この「新しい宇宙創造説」の核心へと進んでゆきます。
 その核心というのは、「最初の世代」が、この物理学の法則によってコントロールされる(物理的な)宇宙をデザインするときに、その指針としたのは、私たちにも、ようやく明らかになってきた「ゲーム理論」だというところです。
 このような「ゲーム理論」という指針から、「宇宙の沈黙」(フェルミのパラドックス)が導かれてくるのだそうです。
 このあと、段落は57まで続けられてゆきますが、このあたりの表現の複雑さは、レムの小説家としての芸術的な能力がなせる業として鑑賞してゆくべきところでしょう。
 「宇宙の沈黙」(フェルミのパラドックス)ということについて、物理学者だけでなく、SF作家としてのスタニスワフ・レムも、この作品で、一つの可能性を示そうとしたのかもしれません。
 はたして、この宇宙の自然法則がデザインされ、広大な宇宙が生み出されたとき、「ゲームの理論」が考慮されたかどうかということは、この著作以外には、あまり触れられることはありませんが、自然法則としての物理学のあちらこちらに数学が使われているということから派生する謎や、「宇宙人はどこにいるのか」と問われることもある、「宇宙の沈黙」(フェルミのパラドックス)については、このあとも、続けて考えてゆくことになります。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, Feb 24, 2016)

 

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