RaN258 地球人はどこにいるのか(12)リサ・ランド―ル「異次元は存在する」
Where is the earthian?
(12)Lisa Randall "Different Dimension Space exists"

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 はじめに

 リサ・ランド―ルの著書としては、「宇宙の扉をノックする」[1] という本が翻訳されて、2013年に出版されています。この本のカバー色は黄緑で、576ページもある大著です。森の図書館から借りてきました。
 これより少し多い604ページで、わずかにピンクがかった赤色のカバー色の本の「ワープする宇宙」[2] が、その6年前の2007年に出されています。こちらは私が買った本で、買った日付が2008年5月6日(火)、読み切った日付が同5月11日(日)と、裏表紙をめくったところの右側のページに記されています。
 その同じページに、これは思考言語コアの記号でメモられていた情報ですが、5月7日には右手の動きがおかしいとあり、5月9日に隣町にあった整形外科へ行ったとあります。これらの記号によるメモから、当時のことが鮮明に思い出されてきました。
 私はその月の3日か5日に、右腕がまったく自由に動かせなくなり、そのときの仕事を辞めたのでした。そのようになったのは、右腕だけを何時間も過酷に使う、その仕事のせいだということは明らかだったし、他の種類の仕事へと変更してもらうという選択肢がなかったことと、左手も動かなくなったら生活そのものが成り立たなくなると判断したことによりました。
 それから私は、何か月かを、それまでにためた貯金を頼りに、右腕が回復するまで、自宅で療養することになりました。そして、この(肉体的には不自由ですが)自由な時間帯を、以前失業したときに陥ったうつ状態へと戻らないため、いろいろな知的活動に使おうとしたのでした。ほとんど左手だけでハンドルを操って車を運転し、大きな街の本屋へとゆき、当時話題となっていた、リサ・ランドールの本を買いました。
 そのときちょうど、彼女と宇宙飛行士の若田光一さんが対談したときの内容をまとめた「異次元は存在する」[3] も買ったと思います。こちらは一時間もかけずに読み切れるもので、いわば、ガイドブックのようなものです。

 異次元はどこにあるのか

 「ワープする宇宙」[2] は日付メモに記されてあった6日間をかけて、自分の本なので、この本では黄色いマーカーでラインを引き、ほとんどそれが仕事でもあるかのように、朝から夜になるまで読み続けました。
 森の図書館で借りてきた「宇宙の扉をノックする」[1] はというと、これを読んだというのは心苦しいかもしれませんが、右手で表紙の端を抑え、左手で、まるで「殺人狂時代」のチャップリンが元銀行員の習慣で、驚くほどの速さで札を数えたのと同じように、1ページずつ左から右へとページをくり、その短い時間で、そこに何か読み取るべき情報が書かれているかを感じとってゆきました。
 あまりに対照的な読み方です。
 「ワープする宇宙」[2] を読んだのは2008年の春のことです。右腕がなんとか使えて、それで箸をもって食事がとれるようになってきた秋ごろに、アインシュタインの特殊相対性理論の牙城を崩す、これまで誰も気づかなかった盲点を見つけました。何度も記していますが、ダランペルシアンという数学的な形式を利用してローレンツ変換が導かれたとされる、ポアンカレの証明の中に、偏微分できない形式のまま、何も気づかず、強引に偏微分されているということが分かったのです。これが「幽霊変換」の骨子でした。
 「ワープする宇宙」[2] の中でリサ・ランドールは、共同研究者のような仲間に、宇宙の謎を解く方程式の研究のアドバイスを与えていました。確かそれは、アインシュタインの一般相対性理論をベースとして、それに何か別の条件を加えることにより、宇宙についての別のモデルを生み出すというものだったかと思います。たとえばC言語に慣れて、いろいろなプログラムを組み立てられるようになったら、どんどんとアイディアがわいてきて、ここをこのように変えて組み立ててゆけば、まったく違うものが生み出せると思うのと、よく似ています。プログラマーがプログラミング言語を扱うように、彼らは数学を扱っているのです。
 そして彼女は何を作り上げたかというと、詳しい数式表現での姿は、どこにもなく、一貫して、パンやカーテンという、どこにでもあるものを使って、まるでおとぎ話に現われるような、あるいは、魔法の童話であるかのような、たとえ話だけが語られてゆきます。
 少しは、本格的な理論についての説明があって、おそらく、彼女の講義を聞いている大学生にはちょうどよいのかもしれませんが、だから、いったい何が分かったのか、と問いかけると、きっと、これから分かるかもしれない、その入口の様子を語っているの、と返されることになるかもしれません。
 2013年の「宇宙の扉をノックする」[1] では、どうなったのかというと、これはまだ、新発見のための、迷路の洞窟の地図を描こうとしているところよ、と答えられてしまうかもしれません。
 そうですね、この「宇宙の扉をノックする」[1] で参照することがあるとしたら、第21章で語られている「ダークマターの直接検出実験」のあたりでしょうか。でも、このエピソードは、彼女が言い続けてきた「異次元は存在する」というテーマに、どのように結びついてゆくのか、詳しく読んでいないので、強く問いかけることはできませんが、よく分かりません。
 「異次元」は「余剰次元」として目に見えない大きさに巻き込まれてしまっているという、彼女らの解釈は、まるで、おとぎ話の中の魔法のように、ポカーンとして聞くしかありません。

 異次元は目の前にあるかもしれない

 私が小さいころ、私が住んでいた町はまだ活気があって、親たちは商売の仕事のことで忙しく、私が幼稚園へ行くのをさぼって、野原や野山を歩き回り(ときには走り回って)、何かおもしろそうなものはないかと、遊び続けていたのに、何も非難されず、夕方になったら勝手に帰ってくる、と思われて、ほったらかしにしてもらっていました。
 町の広場にサーカスのテントが立ったときも、幼稚園児たちが、そのサーカスを見るため、手をつないでサーカスのテントに向かって行進しているのに、ばったり出会って、みんなが私のことを見つけて騒いでいるのに気づき、反対方向へと逃げたこともあります。(この物語は、ちょっとした短編小説になりそうなので、ここで止めておきます。)
 このころの私は、田んぼで乾かされている、刈り取った稲わらの束をマットレスのように使って、空を見上げるように横たわっていました。空はきれいに晴れあがっていて、雲がなければ、何も見るものはありません。
 ふと私は、目の前に何かがあることに気づきました。それはまるで、水槽の中でブクブクとあがってゆく空気の泡のように、小さな粒になって、ゆっくりと、ゆらゆら動いています。
 手でつかもうとしても、つかめません。手を動かして、どうなるかと観察しましたが、何も変わらず、同じように動いています。
 晴れた日中だけではなく、暗い夜にも見ることはできましたが、それの密度はずいぶんかすかなものとなります。
 見ようと思えば見えるものの、忘れてしまえば、何も見えません。
 これは何かということなぞ、いつのまにか忘れてしまって、小学校に入るや、私は一日も欠席することなく、この世界で学べることを、かたっぱしから吸収してゆくことにしました。
 目の前に見えているけれど、どうやら、この世界の塵や煙のようには、どうしようもできない、あの、ぷかぷかと浮いて、ゆっくりと動く泡についてのことが記されている本を見つけることができたのは、すっかり大人になってからのことでした。
 その本はもう手元にありませんが、確か、インドのヨガの体系の中で、そのことが語られており、それには「プラーナ」という名前がついていました。目の中にある毛細血管での血流が投影されたものだという説も、どこかで読んだかもしれませんが、昼と夜とで大きく変化して見えることから、この説は否定できます。「プラーナ」説のほうが、観察したことをうまく説明してくれていました。
 このような、目に見えないはずの、半透明の空気の泡は、私だけの何らかの(たとえば精神状態の)異常なのかもしれないと思ってもいましたが、あるとき、他の多くの子供たちに、このような「空気の泡」について語ったところ、同じようなものを見て、あれは何かと思っていたけど、誰も説明してくれなかったと聞くことができました。
 どうやら、何も説明されていないままの子供には見えるようですが、やがて、そのようなものは何でもないと説明されて、それを見ることをやめてしまっているようです。
 ここで少しコンピュータの前から離れ、中庭に出て、金魚とメダカのための人工池のそばにある、誰も暮らしていない二階建ての離れの縁側に座り、朝の陽ざしを受け、目の前にある防水テント幕の白い面を背景にして、目のピントを合わせないようにすることで、そいつを見ようとしましたが、うまくいきません。
 ダメか、と思って、その縁側で上向きに横たわり、視界に入ってくる太陽を片手で遮って、雲間に青い空をぼんやりと眺めました。
 まず見えているのが、私が寝転んだために舞い上がった埃の乱舞であることが分かりました。それらは一応、この世界の中での物質ですから、たとえば、うちわのようなもので風を送れば、それに影響されます。重力も作用しているので、しばらくすれば、風に乗って飛んで行ってしまうか、あきらめて、下に落ちてしまいます。
 次に気がつくのは、眼球の動きと同期している、二重の泡のようなイメージです。これは、眼球による偽像だと分かるので、気にしないようにします。
 すると、これらによく似ているけれど、どうやら、何にも影響されず、勝手な軌跡を描いて動いている、白い粒のようなものが残って見えます。
 まるで、子供のころの、夜に見たくらいの、まばらさでした。私が歳をとって変わってしまったのか、それとも、私たちの世界のほうが変わってしまったのか、それを判断する方法が分かりません。

 空気の精

 すでに画像解析の初期のソフトを作って、いろいろなものを調べていたころのことです。
 私は、あまり交流のない(他府県側の)隣町にいました。確か、母を連れて、その町の温泉に行った帰りのことです。夕暮れで、ちょうど夕日が沈もうとするころでした。空に金星が見え始めていたので、それをカメラに収めようとしました。同時に、何か別のことも考えていたのだと思いますが、あちらこちらの空と風景を記録して帰りました。
 家でその画像をコンピュータに取り込み、たぶん、ゴブリンクォーク2の光核解析を使って、その空の風景を調べたとき、何か、ゴマ粒のようなものがたくさん写っていることに気がつきました。
 夕暮れの画像なら、いつでも、それが写っているとは限りません。
 はじめ私は、その隣町の交通事情を考えて、車の排気ガスとして出てきた何かかもしれないと考え、そのような場所で撮影して調べることもしましたが、どうやら、この仮説は間違っているようです。
 それは、月食の画像を撮影したときにも、写り込んでいました。これは、空気が澄んでいるところ(寒冷なことで知られている山奥の実家)で記録したものです。
 夕方や夜だけではありません。
 あるとき、寺の門などを守るように置かれている、木彫りの仁王像を、下から上まで、モザイクのように再構成するための写真を撮っていました。もちろん、昼間のことです。そのときの、仁王像の足元を写した画像を調べたところ、そいつが、まるで、隠れ家に避難しているかのように、うじゃうじゃと写っていました。
 これはいったい何かということを説明していそうな本を見つけました。それは、ルドルフ・シュタイナーの本で、そこには「空気の精」のことが説明されていました。
 それが普通の物質ではないようだということは、撮影したときの、いろいろな状況から推測されました。しかし、それらは、肉眼では見えません。にもかかわらず、肉眼で見えてもおかしくないレベルで、ときには、うじゃうじゃと写り込みます。

 ハトホルたちの異次元

 ハトホルというのは、私たちとは異なる世界にいる存在だそうです。チャネリングという方法で、この世界のことや、私たち人間のことについて、ときどきは、おとぎ話や伝説のような内容と合わせて、現代科学の少し先を知り尽くしているかのような、より大きな体系で理解しているような内容を語ります。
 古い版の「ハトホルの書」の第二章「エネルギー体としての人間」の第一文として、このように記されています。

 あなたがたの兄であり姉であるわたしたちは、こことは別の、あなたがたが四次元と呼ぶ周波数の領域に棲んでいます。([4] p47)

 他の箇所の引用は、くどくなるので、控えておきますが、ハトホルたちの説明によれば、私たちの三次元物理時空と、四次元と私たちが呼んでしまう「異次元」との違いは、次元を数えるための座標軸の数にあるのではなく、単なる周波数の違いだというのです。
 このような視点から始まって、いろいろなことが説明されてゆきます。
 この本で説明されている「異次元」のことを知って、私は、「プラーナ」や「空気の精」が、私の精神が勝手に生み出したものではないと確信することができました。
 これは私の仮説ですが、現代のカメラなどは、私たちが見るものと同じものをとらえているのではなく、私たちが肉眼では見えない周波数のものまで記録できるのではないでしょうか。そして、「空気の精」のようなものが写り込む。ときどきではあるものの、私たちが見えないときも、幽霊のようなものを記録する。ひょっとすると、偶然写り込んだ、本物のUFOというものもあるのかもしれません。
 「異次元」が素粒子の世界のスケールより小さなものとして、小さくまるめこまれているということが、仮に本当だとして分かったとしても、それで、「プラーナ」の粒のことや、「空気の精」としての、空に浮かぶ白ゴマと黒ゴマのような、私たちが見つけることができるサイズのものを説明できるとは思えません。
 より単純な説明のほうが、本当のことを言い当てているという可能性が高いというのが、現代科学のドグマの一つです。これに従って、リサ・ランドールらの物理学者らの仮説とハトホルらの仮説を評価するとしたら、どちらのほうに「勝ち目」があるのかは明らかです。
 私たちは、もっと柔軟な思考で、ものごとを見つめ直してゆく必要があるのではないでしょうか。数学や物理学については、私もいくらか学び、それらを使って(最先端に近いところで)仕事もしました。しかし、そのような手法だけで、すべてのことが解明できると考えることに、ある種のデバイス(偏り)が存在するということが、私には分かってきたつもりです。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, March 11, 2016)

 参照資料

[1] 「宇宙の扉をノックする」リサ・ランドール(著)、向山新治(監訳)、塩原通緒(訳)、NHK出版(刊)2013
[2] 「ワープする宇宙」リサ・ランドール(著)、向山新治(監訳)、塩原通緒(訳)、NHK出版(刊)2007
[3] 「異次元は存在する」リサ・ランドール+若田光一(著), 日本放送協会(刊)2007
[4] 「ハトホルの書」トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン(著)、紫上はとる(訳)、株式会社ナチュラルスピリット(刊)2003

 

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