RaN259 地球人はどこにいるのか(13)精霊の顕示
Where is the earthian? (13)Unveiling of Spirit

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 はじめに

 カルロス・カスタネダの「沈黙の力」[1] は、濃密な情報が押し込められた「序文」に続いて、「六つの抽象の核」から成る組(セット)の、その最初の一組についての物語が語られてゆきます。
 この本は初めて読むと思い込んでいたのでしたが、これらの物語をゆっくりと読み進めるにつれて、ところどころに、記憶に残っている、印象的な部分があって、ひょっとすると、途中までかもしれませんが、若いころに一度読み進めていたことがあるということが分かりました。
 その時期はというと、ちょうど、「昔お世話になった人へ」で述べた、ある工場で働いていたときから、保証人になってもらって、次の仕事の世界へと移っていったころのことだと思われます。

 精霊の顕示

 この章は2つの節に分かれていて、「第一の抽象の核」と「ナワール・エリアスの無欠性」というタイトルが付けられています。
 「第一の抽象の核」について概観します。そのために、やはり、ここのところで重要なところを、引用もしくは要約しておきたいと思います。

 呪術には21の抽象の核がある。それから、わしらの系統につらなり、精霊を理解しようと闘ったナワールたちについての、抽象の核に基づいた呪術の物語が何十とある。(p21)

 このあともう少しセリフ(発言)がありますが、その内容は、これらの物語をナワールとしてのドン・ファンが弟子のカルロス・カスタネダに「話して聞かせるときが来た」というものです。
 そして、最初の抽象の核である「精霊の顕示」についての物語が語られてゆきます。その物語は「遠い昔、何の変哲もない、ひとりのふつうの男がいた」という語り口で始まります。これがp24の4行目にあります。
 そして、同じページの後ろから2行目(前から数えると18行目)に、「さあ、これで第一の抽象の核の話は終わったぞ」と宣言されてしまいます。
 この前の3行分は、カルロス・カスタネダの「地の文」ですから、「第一の抽象の核の話」は、「遠い昔…」の4行目から、15行目の「…まるで何も気づかなかった」までの、わずか12行に収められてしまいます。
 まるで、マルシア・ガルケスの「百年の孤独」に多く見られる、抽象的に要約されて語られる物語とそっくりです。
 その12行について、ここで引用してもよいのですが、おそらく、そのようにしたとしても、カルロス・カスタネダの、その時の反応と同じように、そして、20何年か前の私と同じように、ここにどのような「抽象の核」が潜んでいるのかということは、なかなか分からないことでしょう。
 その12行について、さらに要約すれば、このようなことです。

 その男は、他のすべての人間と同様、精霊のひとつの通りみちだった。だが彼はそのことを知らなかった。精霊は男とのつながりを顕わそうと、内なる声を使って、その秘密を明らかにしようとしたが、男はその顕示を理解することができなかった。精霊は、はっきりとそれとわかるやり方で、物理的に男の前を横切ったりもした。それでも男は、自分自身のささいな関心事以外のことには、まるで何も気づかなかった。(p24, 一部要約のため変えてあります。)

 なんとか半分くらいになりました。
 ここから重要なフレーズをいくつか抜き出します。
 精霊のひとつの通りみち
 内なる声
 自分自身のささいな関心事
 これらのフレーズについて、私自身の解釈とそれについてのエピソードを述べてゆくこともできますが、そうすると、このページの終わりが見えなくなってしまいますので、先を急ぐことにします。

 カルロス・カスタネダが「煙に巻かれたような気分」で、いったい何のことか分からず、「精霊の顕示」にまつわるカルロス・カスタネダの物語というものについて質問します。
 ドン・ファンは、その質問に対して、「自分の物語を知っている戦士といえば、おまえをおいて他にはいない」と、きびしく突き放し、カルロス・カスタネダの意識や視点(ドン・ファンの言葉では、観点)の何が問題なのかということを指摘します。
 カルロス・カスタネダが、自分の物語に潜む抽象の核の存在に気づかなかったのは、「何をするにも実用的な価値を高めることだけを目的にしようとする」からだと。

 20何年か前の私は、やはり、このあたりのところを読んでいて、「抽象の核」という言葉を記憶に残し、「精霊の顕示」について意識しながら、起こってゆくドラマの、まるで主人公のような立場で、生活の場所を変え、仕事を変えて、新しいドラマの舞台へと突き進んでゆきました。
 だが、やはり、そのような観点では、何も見えてこなかったのだと思います。
 「主人公」ではなく、「監督」もしくは「脚本家」のように、このドラマの中に潜む、ストーリーの流れとか、テーマのようなものを、しっかりと見つめておく必要があったと思います。
 いつしか私は、自分が「精霊のひとつの通りみち」であることを忘れ、「内なる声」も聞かなくなり、「自分自身のささいな関心事」にとらわれて、最低限生きてゆくための生活費を稼ぐため、昼夜を逆転して働く仕事へと流されてゆき、精神はまだなんとかなっていたものの、肉体的には、いろいろな不調を背負い込むことになっていったようです。
 でも、そのようなことが、この後の私のドラマに結びついてゆく、「精霊の顕示」なのかもしれないと、今私は思っています。このドラマはまだ始まっていませんが、その「あらすじ」は分かり始めてきました。そこには、いくつもの「抽象の核」がかかわっているようです。

 この「第一の抽象の核」の最後に、ドン・ファンによる補足説明がまとめられているところがあります。

 ナワールは弟子たちに、宇宙にあまねく存在する力をかいまみせる。それがすなわち、意志、つまり、物事を変化させたり整理しなおしたり、あるがままの姿に保ったりする力だ。(p30, 一部表現を変えています。)

 もう一つのところは、少し引用して、残りは要約します。

 意志を理解する方法は、意志とあらゆる知覚的存在とのあいだにある生きたつながりをとおして直接に知る以外ありえない。(p30)

 この意志というものを、呪術師たちは、「表現不可能なもの」「精霊」「抽象」「ナワール」などと、いろいろに呼ぶのだそうですが、この中で「ナワール」は、呪術師の中での指導者の意味で使われることがあるので、取り除かれます。
 おそらくこれは、別の文献で「一なるもの」と呼ばれているものか、あるいは、それよりもう少し部分的に独立したものに対応しているのかもしれません。とりあえずは、この本で使われているように、「精霊」としておくのが、もっとも分かりやすいと思われます。

 あとがき

 カルロス・カスタネダの「沈黙の力」の、第二章「精霊の顕示」には、もうひとつ、「ナワール・エリアスの無欠性」という節があります。ここに、「精霊の顕示」についての、具体的な物語が表されています。これについて説明してゆくと、また、恐ろしく長くなりそうなので、ここで止めておきます。
 はじめ、このページは、第三章「精霊のノック」もあわせてまとめるつもりでしたが、それは無理だと気づきました。
 カルロス・カスタネダが記録した、呪術師たちの物語には、私たちの科学では容易に説明することができない、膨大な未知の情報が含まれているのです。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, March 12, 2016)

 追記(ナワール・エリアスの無欠性)

 まとまりがつかないので、追記として、「ナワール・エリアスの無欠性」の物語の中での「精霊の顕示」がどのようなものかについて述べておきます。
 まずは、この物語の登場人物についての、簡単な説明から始めます。
 この物語には登場しませんが、まず、カルロス・カスタネダがいます。そして、彼を弟子として見つけ、呪術の指導をとしている、ドン・ファン・マトゥスがいます。この記録の中で、ドン・ファンはもう中年から老年のあたりにさしかかっているように見えています。もちろん、そんなに老いぼれてはいないようなので、正確な年齢は分かりません。
 そのドン・ファンが呪術師の弟子となったのは20歳を少し過ぎたころのことで、彼が「恩人」と呼んでいる、ナワール・フリアンに指導されることになったわけです。そのときの物語は「第三章 精霊のトリック」のところで詳しく語られますので、ここでは割愛します。
 ナワール・フリアンが、呪術師の世界で「父親」にあたるとすれば、さらに、その「父親」を指導した「祖父」がいました。それが、ナワール・エリアスです。
 ドン・ファンが呪術の世界へ入ったとき、「父親」のナワール・フリアンと、「祖父」のナワール・エリアスの二人から、いろいろなことを学ぶことができたのだそうです。もちろん、ナワール・エリアス、ナワール・フリアン、ドン・ファン、カルロス・カスタネダの間には、DNAはもちろん、何の血縁関係もありません。まったく赤の他人であったものが、たとえば、日本の歌舞伎の家系や落語の一門のように、ひとつの体系を引き継いでゆくのです。
 「ナワール・エリアスの無欠性」は、「祖父」のナワール・エリアスが、将来の弟子となる、「父親」のナワール・フリアンを見出すときの物語です。これは、「祖父」のナワール・エリアスが、「孫」のドン・ファンに語ったときの視点によります。
 同じ物語が、「第二章 精霊のノック」では、「父親」のナワール・フリアンの視点から、ドン・ファンへと語られ、それらのすべてを、「ひ孫」のカルロス・カスタネダが記録したわけです。
 まるで、最近の小説では、朝井リョウの「桐島、部活やめるってよ」、少し前だと、芥川龍之介の「藪の中」のスタイルです。「複数の視点から同一の事象を描く内的多元焦点化(ジュネット)の手法」なのだそうです。
 しかし、カルロス・カスタネダは、そのような文学的なスタイルについて意識したのではなく、二人の視点の違いによって、異なる「抽象の核」を学ぶことができるということから、このような構成にしたものと思われます。
 追記の「まえがき」が、ずいぶん長くなってしまいました。

 ナワール・フリアンがドン・ファンを見つけたとき

 「ナワール・エリアスの無欠性」のさいしょのところに、ナワール・フリアンがドン・ファンを見つけたときの精霊の顕示が説明されていました。
 カルロス・カスタネダによる文章をさらに要約すると、このようになります。
 ドン・ファンが若いころ、ある農場で働くことになったのですが、そこでは奴隷も同然の扱いだったので、彼は逃げ出しました。その農場の監督は、彼を追って、路上で彼の胸を(おそらく銃で)打ち、これで死んだものと思って立ち去りました。そこに、たまたまやってきたナワール・フリアンがドン・ファンの命を救ったのです。だから「恩人」なのです。
 これだけだったら、ただの救急物語ですが、ナワール・フリアンにとって、このときのドン・ファンは、「おまえが弟子とすべき男だ」と「精霊の顕示」によって示されたものだったのです。ですから、命を救って、その傷が癒えたからといって、「じゃあ元気でな」と送り出すべき相手ではなかったということです。これは「第三章 精霊のトリック」で詳しく語られてゆきます。
 このときのナワール・フリアンにもたらされた「精霊の顕示」というのは、次のようなことでした。

 (1) 「小さなつむじ風」が起こった。
 (2) 銃声を聞く前に、ナワール・フリアンの頭に「弟子のナワールをもつ時機が来た」という考えがよぎった。
 (3) ナワール・フリアンが「銃を持った男との鉢合わせを避けて身を隠した。」

 ナワール・エリアンがナワール・フリアンを見つけたとき

 このあとさらに「精霊の顕示」についての別の物語が語られてゆくのは、カルロス・カスタネダが、「呪術師が、ある前兆を誤って解釈することもありうるのではないか」と、ドン・ファンに問い返したからです。
 この後のドン・ファンの分析は鋭いものです。そして、そのドン・ファンの視点が間違っていないということを示すため、「ダメ押し」となる、さらに別のケースにおける「精霊の顕示」の物語を聞かせます。
 それは、「祖父」のナワール・エリアスが、「父親(恩人)」のナワール・フリアンと、初めて出会うときの物語でしたが、それについて詳しく(あるいは要約して)述べるのはやめて、ナワール・エリアスの前に現われた「精霊の顕示」を拾い上げます。
 「ある日ナワール・エリアスは、馬に乗って街へと向かっていた。トウモロコシ畑のなかを延びる近道を行くうちに、突然馬がおびえて横飛びをした。
 このような舞台設定のもとで、「精霊の顕示」が現われてゆきます。

 (4) 一羽のハヤブサが現われ、ナワール(エリアス)の麦わら帽子のすぐ上をかすめていった。
 (5) トウモロコシの茎の向こうに、ここでは場ちがいに見えるダーク・スーツを着た若い男がいた。
 (6) ナワール・エリアスが立ち去ろうとしたとき、さっきのハヤブサが降りてきて、若者の頭をかすめていった
 (7) 若者が百姓の女を誘惑するため、一糸まとわぬ姿となって、女のまわりを歩いた
 (8) 若者が金持ちの地主の娘を誘惑しようとしたとき、若者が何もしていないのに、娘は若者に暴行を加え始めた
 (9) ことが終わったとき、若者は生死の境をさまよっていたのだが、その娘は、すたすたと歩いていった

 「精霊の顕示」に関する部分は、これくらいだと思われます。ドン・ファンの解説によれば、「金持ちの地主の娘」の奇妙なふるまいも、「精霊の顕示の重要な一部分」だということです。
 ここでは、物語の全体的な内容のことは、あえて無視しました。なかなかドラマチックな構成です。きっと、これがテレビドラマや映画になったとしたら、ここにあげた「精霊の顕示」についてのシーンが、印象的に、そして、象徴的に組み込まれることでしょう。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, March 14, 2016)

 参照資料

[1] 「沈黙の力」意識の処女地、カルロス・カスタネダ(著)、真崎義博(訳)、二見書房(刊)、1990

 

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