RaN262 地球人はどこにいるのか
(16)精霊のノック「ナワール・フリアンの最後の誘惑」
Where is the earthian?
(16)Knock of Spirit “The last temptation of Nagual Friand(※)”

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 はじめに

 カルロス・カスタネダの「沈黙の力」[1] の第二章「精霊のノック」は、「抽象」と「ナワール・フリアンの最後の誘惑」と名づけられた、2つの節に分けられています。その後半部分の「ナワール・フリアンの最後の誘惑」における「精霊のノック」について調べます。
 (※)ナワール(Nagual)のスペルは見つけましたが、フリアン(Friand)のほうは確かではありません。お菓子の名前のFriand(仏語)ですが、これには「金持ち」「金融家」の意味があり、ナワール・フリアンの履歴を象徴するのにふさわしい言葉として、カスタネダによってつけられたものではないでしょうか。英文の原作を見つけて確認したいのですが、手元にありません。悪しからず。

 準備

 樹の集合点
 樹の集合点は、やつらの巨大な輝くさやのずうっと下のほうの位置にあって、それのおかげでわしらの気持ちを知ることもできるんだ。(*D1 p64)

 精霊のノック
 ◇ 第二の抽象の核の物語
 ◇ 意志が造りだして呪術師の前に置き、なかに入るように招かれた(というより強制された)初心者によって見られたものなのだ。(*D2 pp64-65)

 意志につながる環
 ◇ 呪術師の道を歩むということは、この意志につながる環に秩序をもたらすための荒々しい手続きなのだ。(*D3 p66)
 ◇ 呪術師の弟子とは、自分と精霊とをつなぐ環を清めて生き返らせようと闘っている者たちだ。いったん環が生き返れば、その者はもう弟子ではない。だがそのときが来るまで進み続けるには、ひじょうに強い目的意識が必要で、もちろん彼はそんなものをもちあわせていない。だから、ナワールにその目的を与えてもらい、自分の個性を捨てなくてはならん。そこがむずかしいところなのさ。(*D4 p67)

 ナワール・エリアスと精霊の顕示にまつわる物語も、彼の弟子だったナワール・フリアンに焦点を合わせれば、自分の恩人のドアを精霊がノックするときのむずかしさの物語となる。(*D5 p68)

 精霊が彼のドアをノックした

 「精霊のノック」についての、ナワール・フリアンの視点からの物語が、ドン・ファンによって語られてゆきます。
 その物語は、この本のp68の中ごろからp71の終わりあたりまで、わずか3ページ半に要約されていますが、何がいったい「精霊のノック」なのか、よく分かりません。ひょっとすると、それは、これらの物語の全体のことなのでしょうか。
 この3ページ半の物語を、さらに要約すると、次のようになります。

 ナワール・フリアンの少年のころの様子が説明されます。裕福な未亡人の一人息子で、甘やかされて育ったそうです。若者になって、自堕落な生活のためか、当時は不治の病と呼ばれた結核にかかってしまいます。彼は旅まわりの芝居の一座に加わり、俳優となります。
 北部地方をまわる旅の途中、デュランゴの町で、彼の命が終わりに達し、精霊が科のドアをノックしました。
 彼がある若い女を誘惑しようとしているとき、その娘はからだを許すという約束をしておきながら、彼と数時間にわたって「格闘」したのだそうです。娘がやっと従う気になったとき、「彼はすっかり弱りはて、激しく咳こんで、ほとんど息もできないありさまだった」と記されています。
 彼は娘との行為におよびます。それが終わったあと、娘は怯えてもいなければ、平静さも失わず、衣服を身につれると、すばやくその場を去りました。男(ナワール・フリアン)のほうは、「大吐血」のまま、横たわっていたのに。
 これらのことを遠巻きに見ていたナワール・エリアス(男からはインディアンとみなされています)が、彼のところにやってきて、彼の理解を超えるようなことを行ってゆきます。
 「インディアンは精霊に対して誓いを立て」、「彼には理解できない外国のことばを口にし」、「背中にぴしゃりと強い一撃をくらわした
 これらのことに対する男の解釈が変化してゆきます。「こいつは娘の愛人か夫で」「自分のことを殺そうとしている」から、「この男はただ頭がおかしいだけで、娘とはなんの関係もない」へと。そして、薄れていく意識で、このインディアンの呟きに集中します。「人間の力」のこと、「死の意図」のこと、そして、「死の意志は集合点の位置を変えることで中断させられる」ということを。
 彼は、「狂ったインディアンの手の中で死のうとしている」という状況にふさわしく、「苦い結末を迎えるへぼ役者のようにふるまおう」と思い、「そして結核やらなぐられたせいやらで死ぬのではなく、笑い死にしてやろう」と自分に誓い、「そして、死ぬまで笑いつづけたのである。

 物語の部分はここまでです。ナワール・エリアスの視点から語られた物語が「精霊の顕示」のところにありますから、このあとナワール・フリアンは死なずにすむということは、分かっています。
 さて、この物語の何が「精霊のノック」を意味しているのでしょうか。「精霊の顕示」では、さりげない現象がいくつかあり、それを呪術師なら「精霊の顕示」だと分かるということでした。「精霊のノック」というのは、「もっと強いはたらきかけ」ということかもしれません。
 ナワール・エリアスの意味不明な呟きと行為、まだ弟子にもなっていないときの、ナワール・フリアンの奇妙な視点と、「笑い死にしよう」と考えて行動したことの組み合わせ、このようなことは、とても見過ごすことができるようなことではありません。

 沈黙の知

 このあと、「ナワール・フリアンの最後の誘惑」の節は、まだ6ページもあって、この物語の内容のことは、まったく語られません。
 ここからはもっぱら、カルロス・カスタネダがまとめた、ドン・ファン教授の講義録のようなものと、研究室で交わした雑談とを組み合わせたような展開で進んでゆきます。

 はじめのあたりで気になる言葉は「沈黙の知」です。

 精霊の視点に立っていえば、呪術の仕事は私たちと精霊をつなぐ環をきいにすることだ。そのとき意志が私たちの前に提示する建築物は、情報センターとなる。そのなかで私たちは、自分の環をきれいにするための手続よりもむしろ、その手続きを生じさせる沈黙の知そのものを見つけることとなる。(*D6 p72, 一部編集)

 ここのところの意味の構造を確認するため、「私たち」を(*)とおき、>>> を「使役」(〜させる)として、思考言語コアで表します。

 沈黙の知 >>> [手続き] (*) >>> 環(*)<> きれい, @建築物(意志);
 手続き  < 見つける (*) , @建築物(意志);
[比較(<)] 沈黙の知 < 見つける (*) , @建築物(意志);


 むつかしい構造です。
 このあとの段落では、「沈黙の知」に関連するいろいろなことは、「じつに単純だがまたあまりに抽象的でもあるので」、呪術師たちが、これらのできごとについては、「抽象的なことばでしかふれないようにしようと決定した」ということが語られます。
 このような、視点についての注意点が説明されてから、「沈黙の知」と「私たち」の間にあるものについて語られてゆきます。

 沈黙の知 <個人に固有な自然の障壁> 私たち ;

 カルロス・カスタネダについては、次のような図式となります。

 沈黙の知 <自己満足にすぎないものを独立心の発露に見せかけがちな点> カルロス・カスタネダ ;

 カルロス・カスタネダがドン・ファンに求めた、さらなる解説の中に、このような表現があります。

 おまえは自分の独立心という障壁を、ある障害を乗り越えるために利用した。その同じ障壁が、現在でもはたらいているんだ。だからおまえはいつまでたっても、漠然とした苦しみをもちつづけているのさ。さて、そこで問題は、おまえはどういうふうに自分の結論をととのえて、ここのところの新しい体験をおまえの自己満足という図式にあてはめようとしているか、ということだ。 (*D7 p73)

 この言葉を受けて、カルロス・カスタネダが「独立心を維持するには、自分の体験したことをまったく考えないようにするよりほかに道はない」と白状すると、ドン・ファンは笑い出します。ここのところのカスタネダの文章はもっとリアルなものです。ドン・ファンの心持ちがよく分かります。それからドン・ファンは「私たちと意志とをつなぐ環」について少し注釈したあと、「詩」について語りだします。
 「詩人は私たちと精霊をつなぐ環の存在を強く意識している」けれど、呪術師のようには理解していないそうです。このあと、ある詩が取り上げられ、それについてのドン・ファンの解説で締めくくられます。次のような表現です。

 名前をもたないある要因、単純であるがゆえに畏しく、わしらの運命を決定づける何かがそこにあることを、彼(その詩を書いた詩人)はじつにはっきりと感じとっているんだ。(*D8 p77)

 あとがき

 ここのところは、とても「まとめ」とすることはできません。
 「ナワール・フリアンの最後の誘惑」とされているところの内容を、なんとかまとめようと思ったのですが、うまくまとまりませんでした。
 「樹の集合点」は、落語の「まくら」に対応する部分で、これはよいとして、ここのところには、「精霊のノック」の前後に、「沈黙の知」と、「私たちと意志とをつなぐ環」のことが、かなり込み入った構図の中で組み込まれています。
 カルロス・カスタネダの、これらの本においては、このように混乱した内容のようなものが、あとから整理され、さらに詳しく語られてゆくことが、よくあります。それが彼のやり方、というより、ドン・ファンの「講義プラン」(指導の手順)なのかもしれません。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, March 17, 2016)

 参照資料

[1] 「沈黙の力」意識の処女地、カルロス・カスタネダ(著)、真崎義博(訳)、二見書房(刊)、1990

 

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