RaN273 地球人はどこにいるのか(27)意志の操作「外見を意図する」
Where is the earthian?
(27)Control of Will " To Aim at Appearance"(※)

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 はじめに

 カルロス・カスタネダの「沈黙の力」[1] の第六章「意志の操作」は、「第三の点」と「二本の一方通行の橋」と「外見を意図する」の三つの節から成っています。
 ここでは「外見を意図する」について考えます。
 (※)意志の操作「外見を意図する」をControl of Will " To Aim at Appearance"としましたが、原文で確認していないので、ほんとうは違う表現となっているかもしれません。

 準備

 いよいよ、この本の最後の章の最後の節です。
 残念ながら、ここのところも、かんたんな要約など、ここで記されている物語についてのことに触れることは、避けなければなりません。
 ここのところの物語も、かなりドラマチックです。
 この「沈黙の知」という本には、短編小説や中編小説にでもなりそうな、素晴らしい構成のプロットが、これでもかと言わんばかりに、いくつもいくつも押し込められています。
 ウェブなどを調べてみると、ドン・ファンという名の人物は実在していなかったという調査がなされ、カルロス・カスタネダが記した本は空想の物語、つまり小説なのだという仮説があるようです。
 もし、その仮説に従って、これが小説だとしたら、これは20世紀を代表する、たとえば、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」に匹敵するか、はるかにそれを上回る、偉大な作品だと評価されるべきものとなります。
 アインシュタインや夏目漱石の知能指数が200を超えていただろうと推測されているようですが、それなら、カルロス・カスタネダの知能指数も200を超えていると判断しなければなりません。しかし、ウェブで紹介されているカスタネダの写真を見ると、とてもそのようには見えません。文学的な才能もかなり磨かれたようですが、それよりも、フィールドワークを中心とした研究者のほうが似合っています。
 ドン・ファンのほうはと言うと、こちらの評価は、私たちが勝手に生み出した知能指数などという基準で評価することはできません。この本を生み出したのはカルロス・カスタネダではなく、その奥にプロデューサーとしてのドン・ファンがいたのだとして、これらの物語の着想を指示したという、私たちの世界での視点をあてはめれば、やはり知能指数は200を超えていることになるかもしれませんが、そのようなとらえかたは意味です。
 何らかの意味があるとしたら、「ドン・ファンの魂の年齢」は、私たちのような「若造」に比べ、はるかに進んだものでありそうだということです。

 忍び寄る者についての三つのカテゴリー

 ここのところの物語に(私は、ここでは、入りませんが)入るまえに、ドン・ファンによる「忍び寄る者についての三つのカテゴリー」についての説明があります。

 忍び寄りのなかに、呪術師が大いに利用する技術がある。コントロールされた愚行がそれだ。コントロールされた愚行とは、認識と知覚が拡張した状態にある自分自身や日常の世界のあらゆる人間に関わるうえで自分たちが手にしているただひとつの方法だ、と呪術師は主張している。(p296)

 コントロールされた愚行を実践する忍び寄る者は、人間性の問題で全人類は三つのカテゴリーに分類されると思っている。(p297)

 その三つのカテゴリーについての説明部分はかなり長いものなので引用しません。なんとか短く要約することにします。

 (1) [特性] 実用向き 思いやり深い 家庭的 やりくり上手 ユーモアにあふれる 行儀がよい やさしい 繊細 
 [欠点] ひとりでは何もできない 指導者が必要 
 (2) [特性] 狭量 執念深い すぐに妬む 自己中心的
 いつも自分の基準に他人を従わせようとする
 いつもイニシアチブをとる
 けっしてくつろがない
 不安 喜びを知らない
 不安になればなるほど意地悪くなる 
 [欠点] 指導者になるためなら人殺しさえしかねない
 (3) [特性] 誰にも仕えない 誰にも自分を押しつけない というより無関心
 ただ空想と希望的観測から生まれた自分自身についての過大な考えをもっている
 発見され、攻略されるのを待ちながら、自分には隠されたすばらしいものがあるという幻想をつくりだすという、驚くべき器用さをもっている

 ドン・ファンは(2)と自分を評価し、カスタネダに、自分の分類を求めますが、彼は「三つが組み合わさっているようだ」と答えます。すると、ドン・ファンに否定され、「おまえは二番目(2)に属している。忍び寄る者はそのカテゴリーの人間をろくでなし、と呼んでいるよ」と説明されます。
 カルロス・カスタネダは抗議しようとしますが、思いとどまって、ドン・ファンに質問を続けます。「私たちはみなその三つのカテゴリーのひとつに一生閉じ込められ、変化も救いも期待できない」のかということを。
 ドン・ファンは次のように説明します。

 ただひとつ救いの道は残されている。そのカテゴリーのひとつに落ち込むのは私たちの内省だけだということを、呪術師はずうっと昔に学んでいた。(p299)

 面倒なのは、わしらが自分のことを重く考えていることなんだ。わしらの自己イメージがどのカテゴリーにあてはまるかなんてことを気にするのは、ただ自分が大切だからだ。(中略)
 わしは自分のことを重く見ていないろくでなしだ。おまえはまだ自分が大切だろうがな。(p299)


 うぬぼれは三千の頭をもつ怪物

 この表現は、ナワール・フリアンが若いころのドン・ファンに、「うぬぼれの性質と集合点の移動」について講義したときのものです。
 この怪物に立ち向かうには、次の三つの方法があるということです。
(1) 一度にひとつずつその頭を断ち切っていく
(2) 憐みのない場所と呼ばれる不思議な状態に到達する
 そうして、ゆっくりと補給を断つことによってうぬぼれを破壊する
(3) みずからの象徴的な死で三千の頭をもつ怪物を瞬時にして葬りさる

 ここでドン・ファンの「三千の頭をもつ怪物」はどのようになったのか、と問いたくなります。しかし、その答えは、どこかに隠されてしまっています。

 外見を意図する

 ようやく、ここのところの物語が始まります。ここでの登場人物は、ドン・ファンと恩人のナワール・フリアン、それと、「彼の屋敷の不愛想なメンバー」、トゥリオです。
 ここのところの物語については要約や解説は行いません。本文にあたってください。
 かわりに、この物語が終わってから、ドン・ファンがカスタネダに語ることを拾い上げておきます。

 人間の認識は広大なお化け屋敷のようなものだ。日常生活の認識は、その広い家のなかの一室に生涯封じこめられているようなものなのだ。私たちは、誕生という不思議なドアを通ってその部屋に入る。そしてもうひとつの不思議なドア、死を通って退場するのだ。
 しかし呪術師はさらに別のドアを見つける力をもっていて、死なないうちにその封印された部屋をあとにすることができる。
(p317)

 (Written by KLOTSUKI Kinohito, March 20, 2016)

 参照資料

[1] 「沈黙の力」意識の処女地、カルロス・カスタネダ(著)、真崎義博(訳)、二見書房(刊)、1990

 

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