RaN275 地球人はどこにいるのか(29)チベットのゾクチェン
Where is the earthian?(29)Rdzogschen of Tibet

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 はじめに

 カルロス・カスタネダの「沈黙の力」[1] をなんとか読みあげ、2回目の3週間を終えて森の図書館へ返却することができました。3回連続で借りることはできないので、そうしようとすれば、別の日にやってきて、あらためて駆り出さなくてはなりません。その手間さえいとわなければ、何回でも借りることはできそうですが、どこかで区切りをつけてしまう必要があります。まるで子供のころの夏休みの宿題のようなプレッシャーでした。
 ところが、目標としていた返却日の朝3時に起きて、最後の3リーフページをまとめたくらいですから、ずいぶんと、やっつけ仕事になってしまったと思います。たった一冊の本なのに、リーフページとして「RaN253 地球人は(7)カルロス・カスタネダ「沈黙の力」序文 の思考言語ノート」から「RaN273 地球人は(27)「沈黙の力」意志の操作「外見を意図する」」まで、間に他のテーマのリーフページをいくつか挟んで、15リーフページにも分けてしまいました。
 このままでは、この「沈黙の力」という本の全貌がかえって見えにくいということになってしまいます。ですから、この本についての、さらに要約した「まとめのリーフページ」を作らなければならないだろうな、とぼんやり思ってみたのですが、ここで立場を変えて、私のホームページの、これらのリーフページを読む人にとっては、こんなに思考言語コアによる記号表示だらけで、むつかしいことが、ねちねちと、草地をはい回る(ガラガラヘビと言いたいところですが、見たことがないので)ヒバカリかヤマカガシ(どちらもかつて飼っていたことがあります)の踏み跡のように記されていたら、それをカラスの視線で鳥瞰して、知識や認識の「餌」を見つけることができないと思われてしまうかもしれません(思いませんよね)。
 ですから、これらの「まとめのリーフページ」を作るのではなく、それとほぼ同じ意味での、カルロス・カスタネダの著作から離れたテーマについて取り上げ、それらの「抽象の核」のようなものが、どのように関連づけられているのかということを調べることにしました。
 つまり「抽象のタペストリー」を編み上げるときの、カルロス・カスタネダの「沈黙の力」を横糸としたときカルロス・カスタネダの他の本は、隣の横糸とみなすことができます。横糸ばかりでは布になってゆきません。次に織り込むべきなのは、それらの横糸と交わってゆく経糸となるものです。
 このような経糸には、いろいろなものがあります。それらのひとつが、このリーフページのタイトルとして挙げた「チベットのゾクチェン」です。

 ゾクチェン

 ゾクチェンは大きく分類すると仏教の中に含まれる宗教の一つのようです。
 仏教をおおまかに3分類すると、大乗、小乗、密教となるとされています。ゾクチェンは、それらの密教に含まれるようです。
 私が継いだ家の宗教は大乗仏教の一派だと思います。田舎に住む日本人の枠組みのなかで生きようとすると、このようなしきたりから逃れることはできません。キリスト教徒になる機会もあったのですが、なんとなく抵抗があって、その世界から飛び出しました。私自身は特定の宗教に近づくことなく、それでいて、それに近い体系の、いろいろなものの知識を追い求めてきました。私はこの世界の宗教を追い求めてきたというより、この世界に潜む未知なるものを知りたいと思ってきたと言えます。宇宙のさまざまな科学知識であったり、物理学や数学のことであったり、いくらか飛びますが、UFO画像の真偽であったりしてきたわけです。
 ゾクチェンに戻ることにしましょう。
 私はどの宗教のどの宗派にも属さない人間なので、ゾクチェンのことを遠巻きに知るために、何冊かの本を読むこととなります。このため、「知恵のエッセンス」[2], 「ゾクチェンの教え」[3], 「チベット密教の瞑想法」[4] , 「チベットの生と死の書」[5] にあたることにしました。

 「知恵のエッセンス」ボン教のゾクチェンの教え

 この本や「チベットの生と死の書」[5] の中で「虹の身体」のことが語られています。「チベットの生と死の書」[5] では、昔読んだときの記憶に基づくものなので、どこに記されているかはまだ確認できていませんが、なにやら、チベットのゾクチェンの修行者の中には、自分の死期を自分で決めて、自殺するのではなく、この生の最後の修行のあかしとして、洞窟か祠([2]のケースではテント)のようなところに閉じこもって、死の準備をする人がいるそうです。このとき弟子たちには、決して中を見ることのないようにと指示しておきます。
 その間に(このあとは[2]のケースについて引用しますが)、テントの上にたくさんの虹がかかる、「白色の長いスカーフのような白い光が、キラキラ輝き出ている」、地震がおこる、「大きくて奇妙な音」がする、「花のシャワーが舞い降りて」くる、「テントの縫い目の間から、五色や白色のさまざまな色彩をした光がたくさん流れでる」といった、不思議な現象が数々と目撃されます。やがて、指定された日が経過するとか、弟子が待ち切れずに遺物を確認しようとして、何もなくなってしまう前の修行者の姿を目撃します。すると、その指導者の身体は「全身光で包まれ、大きさは一歳くらいの子供の大きさに縮み、伸ばした指先と肘の長さと同じ高さで、その身体は座布団の上に浮かんでいた」のです。
 これが「虹の身体」なのだそうです。
 日本の仏教の世界では、(あまり深入りしていないので知らないのかもしれませんが)、このような現象のことは、ほとんど知られることもないし、見る機会もないようですが、チベットのゾクチェンに関する資料を調べてゆくと、たくさんの事例が紹介されています。
 この「知恵のエッセンス」[2] では、もっといろいろなことも語られていますが、とりあえず、この「虹の身体」にかかわる部分を探すことにします。
 この本で説明されている経典の「第三巻 トゥーゲルの修行」のところに、次のような説明があります。

 修行者が虹の身体を達成していても、穢れた人の目には、修行者が普通の人間のままに見える。しかし修行者は光の身体を獲得しているのだ。その修行者の身体は、物質から構成された身体ではない。その身体は完全に消えることもできるし、堅い壁を通り抜けることも、空を飛ぶこともできる。([2] p122)

 さらにいくつかの情報もありますが、これらのことを、カルロス・カスタネダが報告した呪術師たちの物語に照らし合わせば、ゾクチェンの「虹の身体」は、呪術師たちの「もうひとりの自分」のことだと分かります。
 もう少し別の世界の物語に対応させるなら、幽体離脱の「幽体」と考えることもできるかもしれません。ただし、ゾクチェンの「虹の身体」や呪術師たちの「もうひとりの自分」のほうが、より意図的にコントロールできるという点で、もうすこし特別なものとして区別すべきものかもしれません。

 少し戻って、「知恵のエッセンス」[2] の「第一巻 加行」のところに、次のような記述があります。

 一切は思考から生まれるのだ。([2] p47)

 すべての存在は意識によって成り立っている。([2] p47)

 世界というものは、共有された意識みたいなものだ。すべての人間が、同じ顕現や同じ業(カルマ)を共有しているのだ。([2] p47)

 世界は業によって生み出された顕現であり、それを皆で一緒に見ているのだ。([2] p47)

 ここのところは、ドン・ファンらによる呪術師たちの認識とほぼ同じです。
 「第一巻 加行」のべつのところに、「フーム」というものについてのイメージを思い浮かべる加行がありますが、この(ゾクチェにおいては)仮想的な「フーム」というもののふるまいや様子は、呪術師たちが見ているという、光の束に対応します。
 しかし、どうやら、呪術師たちが「集合点」と呼んでいるものについては、ゾクチェンの世界では認識されていないようです。
 さらに詳しい項目を取りあげてゆけば、呪術師たちの世界についての「横糸」と、ゾクチェンの修行者たちの世界についての「経糸」とが、いくつもの点で接していることが分かります。しかし、これは、そのような文化人類学上の論文ではないので、このあたりで切り上げ、先に進むことにします。

 ナムカイ・ノルブ「ゾクチェンの教え」

 「知恵のエッセンス」ボン教のゾクチェンの教え、の著者、シャルザ・タシ・ギャルツェンの略歴を巻末の「著者紹介」で確認すると、「1859年に生まれ(中略)、1935年、76歳で虹の身体を実現して、遷化」とあります。
 こちらのナムカイ・ノルブは1938年に生まれ、1958年、中国のチベット侵攻に伴い、シッキムに脱出。1960年にイタリアに渡り(後略)、大学などで教え、チベット文化やゾクチェンを世界中に広めているそうです。
 シャルザ・タシ・ギャルツェンはチベットで僧として、大きな波乱もなく、順調に「虹の身体」のところまで進み、「遷化」したということです。一方、ナムカイ・ノルブは20歳のときに国を追われて逃亡するという危機を体験し、信仰厚いチベットの人々の中でではなく、まったく異文化のヨーロッパ文明の中で、ゾクチェンのことを語るという、大きな変化を体験しています。
 このような違いが、同じゾクチェンとはいえ、それに対する語り方、説明の仕方が大きく異なることとなります。ナムカイ・ノルブによるゾクチェンの説明は、西洋文化圏のはしっこに片足を踏み入れている私たちにも、理解がしやすいものとなっています。
 さらに述べると、ドン・ファンとカルロス・カスタネダのケースでは、呪術についての説明が一般的に進められることもありますが、完全に西洋物質文明の中で育ったカルロス・カスタネダを、ナワールと呼ばれるまでの、本格的な呪術師へと指導する、そのプロセスが、何も分かっていなかった段階からの、カルロス・カスタネダの視点によって語られてゆくのです。これは、とてもありがたいことです。
 ナムカイ・ノルブの「ゾクチェンの教え」に戻ります。
 この本を読むのは二度目となりますが、今回通読して、いくつかのところに付箋をつけました。自分の本なので▽マークも記してあります。それらの中から、さらに選んで、つぎのような部分を引用します。

 個人のエネルギーが弱まるのは、ちょうど、扉を開け放しにしてしまうようなものだ。その入口から、さまざまな種類の妨害が入り込んでくる。だから、自分のエネルギーを、バランスのとれた完全な状態に保つことが、ひじょうに大切だ。
 逆に、外部のエネルギーに影響を与えることによって、いわゆる<神変><奇跡>を起こすこともできる。自分のエネルギーを実際に支配できれば、そのエネルギーをつうじて、外部の現象に対して力をふるうことが可能になるのである。
([3] p21)

 すべての生き物は、鳥籠に閉じ込められながら、その鳥籠によって守られている小鳥のようなものだ。([3] p27)

 これらは「第一部 ゾクチェンとは何か」に収められていることです。ほかにもいろいろとあるのですが、先へと進めることにします。
 「第二部 覚醒の境地のカッコー」は、わずか六行だけの、詩となっている経典についての解説です。これについて、ナムカイ・ノルブの解説をすべて忘れ、呪術師たちの物語や、神秘学、科学透視者の視点、宇宙人たちからの情報、ジャーメインやアフやセスといった、物質としての肉体をもたない(セスはどっちだったかな)による教えなどを参照して、まったく別の解説を試みたいところですが、やめておきます。
 わずか六行だけの詩なので、引用するのは、そんなにたいへんなことではありません。次のようなものです。

 多様な現象の本性は、不二だ。
 ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。

 あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
 にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。

 一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、
 あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。
([3] p95)

 この第二連「あるがままの(中略)すべてよし」についての解説が「第7章 修行の方法」として説明されています。
 ここのところに、少し拾い上げておきたい表現がいくつかあります。

 何も変えたりする必要などない。すべてをあるがままの状態に放置しておけばいい。そうすれば、生活のすべての状況は、修行のための機会となる。([3] p128)

 大成成就者ヴィルーパが成就した瞬間の物語が説明されます。呪術師たちの物語に似たものと言えるかもしれません。

 ある日、完全な光明の三昧に入ったとき、ヴィルーパは突然立ち上がり、いつも真言を唱えるとき手の中に持っていた数珠を、便所に投げ捨てた。そして、部屋に帰り、修行のために準備した供養マンダラを地面に投げつけ、立ち去った。そして二度と戻ることはなかった。ヴィルーパはついに覚醒したのだ。けれども、誰もが彼は狂ってしまったと思っていた。
 (中略)だが、実際に狂っているのはわたしたちのほうだ。煩悩や執着によって「狂ってしまっている」のはわたしたちの方だ。([3] p131)

 もうひとつ取り上げておきます。

 ゾクチェンの修行者は、山の頂上で瞑想するために、社会を放棄して隠棲する必要など、ない。(中略)三昧をいかに日常生活と一つのものにしていくか悟ることができれば、日常生活を続けながら、隠棲しているのとまったく同じ進歩をとげることができる。([3] p139)

 ここのところについて、私の視点を述べておきます。
 とくに、まだまだ多くの課題をもっている、私たちのような未熟な人間にとっては、呪術者の物語での「精霊とつながる環の掃除」や「内省の鏡を壊す」ためには、社会の中で、身に降りかかってくる問題と立ち向かうという、得難いチャンスを利用するほうが、ずうっと多くの成果へと進んでいけるのです。
 そのようなチャンスをおぜん立てするための手続きとして、仕事を変えなければならなくなったり、不幸な事件にまきこまれたりするとき、このように考えてゆくことによって、自分自身を変えてゆくことができます。
 そうではないとき、たぶん、同じ失敗を繰り返してゆくか、まったく何もできなくなってしまうか、いろいろな迷路へと追い込まれることになるでしょう。そんなことが、私のこれまでの人生の泥沼期間だったわけです。もちろん、まだ、そこから這い出していないと思われますが。そのうち、なんとかなるだろうと思えるようになってきました。「これでよし」かな。

 「チベット密教の瞑想法」

 この本は「法蔵館」という出版社の、いわゆる宗教分野の専門書です。裏表紙から開けてゆくと、「昼と夜のサイクル」チベット語テキスト、というものがあって、梵字によく似たチベットの文字で何かが記されています。おお、専門書だぁ、と感じたまま、(2800円で)買ってから10年ほど、書棚で眠っていました。おまけに、これの原著は英文の The Cycle of Day and Night という本ですが、これもネット販売で手に入れています。なんと、p126しかない薄い教科書くらいの簡易製本のものなのですが、3500 JPY(円)で買っています。まったく読んでいません。この本の価値が分からないというのに、貧乏生活にもかかわらず、およそ6000円もかけて、書棚の「コケ」状態として並べておいたものでした。
 今、少し前までカルロス・カスタネダの「沈黙の知」という、呪術の修行者がたどってゆく、「六つの抽象の核」というプロセスについて、それらの解説や物語を、詳しく、深く、あらためて読み進んだ今、その「チベット密教の瞑想法」という本の目次を見て、私は異常なときめきを覚えました。
 日本語で「昼と夜のサイクル」と訳されるものは、4行ずつ52連の詩のようなスタイルとなっている経典なのですが、これについて引用したり解説したりすることは、ここでは行いません。
 私がときめいたのは、ナムカイ・ノルブの「V 注釈」のところに、「三 昼の修行」に続いて「四 夜の修行」という項目があったからです。
 そこまでの部分を飛ばし、それが始まるp171を探して、そこからの部分を読み進めてゆくと、なんとそこには、「夢見の技法」が語られていたのです。驚きました。
 「宇宙人はどこにいるのか」で私は、若いころ「夢見」の体験をしようとして、何かに妨害されたときのことを記しました。そのとき、まず、そのころカッパブックスの「自己催眠術」(今も書棚に残っています)を読んで、自分に催眠術をかけてリラックスしてから、夢見の意図をもって眠りに入りました。
 「四 夜の修行」には、ちょうどそのことが記されている部分があります。(それを取り上げようとも思いましたが、あまり重要なことでもないので、やめておきます。)
 夢の中で、これは夢だと自覚することについても触れられています。
 「夢見の身体」についての記述もあります。これは引用しておきましょう。

 心はもはやベッドの上にはなく、感覚機能とともにはたらき始めている。そういう状態を竜成心と呼ぶ。
 (中略)たとえば、ふつうわたしたちは壁を通り抜けることはできない。ところが、竜成心にとって、壁は障碍(しょうがい)にはならないのである。([4] p174)

 「夢見の身体」もしくは、幽体離脱の「幽体」のことは、「竜成心」と呼ばれて、この特性が理解されているわけです。

 また、「夢見」や「第二の注意力」のことは、「明知にあるとき」として認識されています。翻訳者の言葉の選び方によるのかもしれませんが、「明晰夢」という用語も使われています。

 (前略)特に努力しなくても、明晰夢を体験し、また、その内容をコントロールできる。
 睡眠中も自分が眠っていることを自覚しつづけることができれば、明知を保ったまま死ぬこともできる。
([4] p192)

 まあ「死ぬ」ときのことまで、今から準備しておくというのは、まだ心配しておくべきことではないかもしれませんが、考えてみると、人は、いつ死ぬのか、よく分かっていません。私のいとこは28歳で、おさななじみの友人は31歳で、仲の良かった同僚は35歳くらいで、あっというまに、この世界から消えてしまいました。そう考えてみると、私はずいぶんと長生きです。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, March 23, 2016)

 参照資料

[1] 「沈黙の力」意識の処女地、カルロス・カスタネダ(著)、真崎義博(訳)、二見書房(刊)、1990
[2] 「知恵のエッセンス」ボン教のゾクチェンの教え、シャルザ・タシ・ギャルツェン(著)、ロポン・テンジン・ナムダク(解説)、森 孝彦(訳)、春秋社(刊)2007
[3] 「ゾクチェンの教え」チベットが伝承した覚醒の道、ナムカイ・ノルブ(著)、永沢 哲(訳)、地湧社(刊)1994
[4] 「チベット密教の瞑想法」、ナムカイ・ノルブ(著)、永沢 哲(訳)、法蔵館(刊)2000
[5] 「チベットの生と死の書」、ソギャル・リンポチェ(著)、大迫正弘・三浦順子(訳)、講談社(刊)1995

 

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