RaN276 地球人はどこにいるのか(30)村上 龍「オールド・テロリスト」
Where is the earthian?(30)MURAKAMI Ryu “OLD TERRORIST”

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

ランダムノート2016ブランチページへもどる

 はじめに

 突然ですが、今回のタイトルは、村上 龍「オールド・テロリスト」[1] です。
 これまで取り上げている資料本のリストを思い浮かべると、どう考えても、ここには分類できないものです。実は、ここ最近、村上春樹さんの著作をいくらか読みました。
 さいしょに読んだ「1Q84」[2] は、何年か前に本屋に平積みされ、これはまた(売り上げ部数の)新記録を作るのではないかと思われる勢いだったと記憶しています。
 村上春樹さんの「1Q84」は、ジョージ・オーウェルの「1984」[3] を巧みに利用したタイトルだということは知っていました。かつて私はオーウェルの「動物農場」[4] を、思考言語コアを構成するときのテキストとして使っていたこともあります。
 そのころ(2009年)私は、もっぱら、難解な数学や物理学の本へと関心が向かっていました。そうか、このころ私は貯金と借金にたより、まるで「引きこもり」のうつ病患者であるかのように振舞って時間をつくり、C言語の初級から始めて、順次中級から上級へと、まったくの独学で、画像解析のプログラムを構成し、それらに、かつて習得していたデータ解析の知識を組み込むことに集中していたわけです。
 「1Q84」を3巻とも読み終え、次に手にとったのは、「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」[5] でした。これらの小説のプロットの中に、カルロス・カスタネダが記した呪術師たちの物語で語られている、「第二の注意力」に関連することがらや「夢見のからだ」の影響と考えられるものが含まれています。だからと言って、これらの小説の骨子を、そのことだけで説明できるわけではありません。いくつかの「道具立て」のことに触れるより、それらを使って、ここまで巨大な小説を生み出される力量には、おそれ入ってしまいます。
 実は、村上春樹さんのもっと軽いエッセイ集も、並行してたくさん読みました。その中に、夢の中で空に浮かぶシリーズがあります。これらは、とても興味深いものでした。そして、同じように軽いエッセイなのかな、と手にした「職業としての小説家」[12] を読み、これはとても重い、と感じることとなりました。「1Q84」や「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」に比べ、この「職業としての小説家」のほうが、ずうっと濃く、重いものだと、私は理解しています。それはなぜかと考えました。
 比較的若い段階で、日本の文壇という集団への「入場チケット」を獲得され、数々の作品を生み出されてきましたが、それらの作品の中に、作者がこの人生で見出した、「抽象の核」のようなものが、あまりよく見えてこないのです。しかし、「職業としての小説家」には、いくつもありました。そして、この本を読むことによって、私はずいぶんと勇気づけられました。心して生きてゆくための心構えのようなものを学ぶことができました。皮肉なものです。小説作品を読んでも、このような感動はえられなかったというのに。

 村上 龍さんの作品について語りたいと思います。
 私の本棚に残っている村上 龍さんの本としては「ヒュウガ・ウィルス」(五分後の世界U)[6] がありました。「五分後の世界」[7] を読んで、その続きだということで買って読んだのだと思います。この「五分後の世界」というプロットは「第二の注意力」での異世界と通じるものがあり、これも「経糸」として見ることができるかもしれませんが、一般に、小説家というものは、このような異世界を舞台として、わたしたちの世界に潜む「抽象の核」のような、何か小説家がとらえているものを表現します。
 「半島を出よ」[8] は初版第一刷をただちに買い求め、長い小説ですが、引き込まれるように、どんどん読み進んで、ほんの数日で読み終えてしまいました。この本は手元になくて、おもしろいからと、仕事仲間であった知人に貸したままになっています。
 これらの本を読んで、村上 龍さんのストーリー構成の巧みさもすばらしいとおもいましたが、それより圧倒的だったのは、ときどき組み込まれてゆく、緻密で濃密な表現力についてでした。わずかな読書経験の中で見渡すと、スタニスワフ・レムの「大失敗」[9] の中にある「バーナムの森」のところで、同じような「ため息」をついた覚えがあります。
 今回取り上げる、村上 龍「オールド・テロリスト」[1] には、これまで取り上げてきた、未知の存在たちからの知識本、呪術師たちの物語、神秘学や魔法、初期の宗教的知識を伝承しているチベットのゾクチェンなどのような、分かりやすい項目は見つかりそうもありません。でも、何かあるはずだ、と思ってしばらくアルファ波のモードでくつろいでいると、ある種の「経糸」が潜んでいるということに気がつきました。

 「チベットの生と死の書」[10] より

 「チベットの生と死の書」[10] は、現代のゾクチェンの指導者であるソギャル・リンポチェによって書かれた解説書というスタイルで記されています。その「第一部 生きるということ」の「第一章 死という鏡」のところに、著者が「死を間近に経験した」ことが述べられています。
 さいしょの体験は、著者が7歳のときのことだそうです。それは、サムテンという僧の死に立ち会ったことでした。著者とサムテンとのかかわりのいろいろなことが述べられ、「そのサムテンが突然、病に倒れた」という一文のあと、しばらく説明があって、段落を変えて「サムテンの死は楽なものでなかった」と続き、その次の段落では「師ジャムヤン・キェンツェは死にゆくサムテンを冷静に導いた」と語りだされ、その内容についての段落が終わると、「サムテンの死はわたしを揺さぶった」の段落へと向かいます。
 このとき著者はチベットの首都ラサに向かって旅をしていたのですが、その途中、「もう一人の僧、ラマ・ツェテンが死に向かいはじめた」と締めくくられる段落に続いて、このときのことが「ラマ・ツェテンの死はわたしにとってひとつの強力な教えとなった」という文で語られてゆきます。
 これらの表現は、ここに要約してしまうのがもうしわけなく思ってしまうほど、豊かに語られています。
 こうして取り上げられた二人の僧の死は、ただ単に並べられたわけではなく、ソギャル・リンポチェにとって、死についての、ある種の違いを考えるものとしてとらえられています。
 サムテンは、信を持ちつづけていたとはいえ、苦痛に満ちた普通の死を死んだ。しかしラマ・ツェテンの死は、ひとつの精神の勝利の表れだった。([10] p22)

 ここのところにはタイトルが無かったので、もし何かつけるとしたら、「はじめに」という節となるのかもしません。
 この次の節には「現代社会における死」というタイトルがあります。
 ここのところに、引用しておきたい言葉や文が数多くあるのですが、このあとにつながるものとして、次の文を取り上げておきます。

 死にゆく人は、死ぬことの真の意味を、ひいては生きることの意味を、見出す必要があるのだ。([10] p27)
 死は生の意味の全貌を映しだす鏡なのだ。([10] p29)
 わたしたちの探求は死の意味への直接的な問いかけから始まる。それは<無常>の真理の種々相を探ることである。この探求によって、わたしたちはこの生をまだ時間のあるあいだに有効に使うことを学ぶだろう。そして、時間を無駄にしたという後悔と自責の念を持つことなく死に臨めるようになるだろう。([10] p30)

 カルロス・カスタネダ「無限の本質」[11] より

 これはカルロス・カスタネダの遺作となったものです。二見書房から出されたカスタネダの著作の10作目ですが、途中に、講談社から出版された「未知の次元」が入るので、英文の原作で数えれば11作目となるはずです。
 カルロス・カスタネダの著作の中に記されている物語は、まったく時系列になっていません。同じ物語が、異なるところで繰り返されたりすることはしょっちゅうです。これは、つまり、同じ物語においても、呪術の修行が進むにつれて、新たに分かってくることが違ってしまうため、もう一度、異なる視点と理解のもとで、そのような物語を繰り返すことになるのだと考えられます。
 カルロス・カスタネダがこの本を書いているときは、おそらくもう老境とよばれる歳であったようですが、この物語で登場する彼は、幼少のときの姿や、ドン・ファンに初めて出会ったときなど、とても若々しく、そして、未熟で平凡で、いろいろなことに振り回される、わたしたちにとって理解しやすい人間として描かれています。
 ここで取り上げたい物語は、「第二章 ひとつの時代の終わり」に含まれている「認知の測定」という節のものです。

 認知の測定
 カルロス・カスタネダはまだ、ドン・フアンのもとに通い始めて2年ほどですが、著作業に専念するというような状態にはなっていなくて、まだ大学に通う学生でした。
 カスタネダはロルカ教授の授業を取り、彼の認知システムについての講義の内容に強く惹かれます。具体的な内容についてはここでは割愛しますが、まさに、一流の学者が考え述べるような、教科書としてまとめてもよいような、あるいは、科学啓蒙書の一部として書き込んでもよいような、どこに出してもケチがつかないような内容です。
 カスタネダはドン・ファンのところに行ったとき、このロルカ教授のことを、称賛の念を込めて語りました。すると、ドン・ファンは「奇妙な警告をした」のです。
 「遠くから人を崇拝するのはやめておけ」([11] p151)
 そして、そのような警告の根拠となる、呪術師としての見解も説明するわけですが、ここでそれを引用しても理解が進まないと思われますので、先へ進めます。
 ドン・ファンの勧めというか指示のようなものに逆らえず、カスタネダは、ただの学生として講義を聞くだけではなく、ロルカ教授へ近づき、話しかけて、相手を知ることへと進んでゆきます。
 このような取り組みのなかでカスタネダは「本物のメキシコの呪術師を対象に研究」していることをロルカ教授に告げ、そのことについての話を聞いてもらいます。そして、ロルカ教授は、何らかのコメントを示すべきだと思い、次のように語ります。
 「きみにとっての問題は、われわれ全員が事実上生まれた日から慣れ親しんでいる日常世界の認知システムと、呪術師の世界の認知システムとは同じではないという点にある」([11] p156)
 カスタネダにとって、これはまさに当を得たものと感じられ、ロルカ教授に感謝の言葉を述べ、しばらくして、ドン・ファンのところに行ったとき、これらのことを語ります。すると、ドン・ファンは「不思議な反応」を示したそうです。これについては引用を略します。
 さらにカスタネダがロルカ教授へと近づいて、いろいろと語ると、ロルカ教授は、認知システムについて考えてゆくため、カスタネダが言うシャーマンたちにテストを施し、それについて分析してみるとよいと指導したのだそうです。
 このことをカスタネダがドン・ファンに話すと、「彼は腹を抱えて笑った」そうです。
 ロルカ教授のテストを仮にドン・ファンらの呪術師が受けたとし、それが分析されて評価されたら、「せいぜい、わしらは低能集団だという確信」が(ロルカ教授やカスタネダにとって)得られるだけだと、笑い飛ばすわけです。
 ドン・ファンは「彼が悪いのではない。悪いのはおまえだ」と言って説明を続けます。
 「おまえは教授にちゃんと話しておかなかったな、呪術師が古代メキシコのシャーマンの認知世界について語るときは、日常世界とはまったくかけ離れたもの、この世界には存在しないものについて語っているのだということをだ。」([11] p158)

 ここで「遠くから人を崇拝するのはやめておけ」のあとで、ドン・ファンが言い添えた「警告の根拠となる、呪術師としての見解」を引用します。

 「人間はいずれ死ぬ存在だ。呪術師たちは固く信じている、われわれの世界と、そこでわれわれがすることとを理解する唯一の方法は、自分たちが死にゆく存在であることを完全に受け入れることだ、とな。」([11] p152)

 これとよく似たフレーズが、最後のあたりで、もう一度語られます。

 「われわれは死への途上にある存在だ。不死ではないのに、不死であるかのようにふるまっている。この欠陥が個々の人間を破壊させ、いずれは人類を破滅へと導くだろう」([11] p161)

 カルロス・カスタネダの構成とは異なりますが、ドン・ファンによる最後の決めゼリフのようなところを、私の独断で抜き書きしておきます。ここの部分を国語の授業で用いるとしたら、「反語」か「皮肉」がキーワードとなることでしょう。

 「おまえの教授を遠くから評価するなんぞ、わしにとっては朝飯前だ。彼は不死の科学者なのだ。決して死にはしない。それに、死に関する事柄についても、きっとすでに処理してあるにちがいない。(このあと、埋葬用の土地、家族のための高額の生命保険についての言及があり)この二つの必要事項を満たしてしまったので、もはや死について考えはしない。考えることといえば、自分の研究のことだけだ。
 (中略)しかし、自分を死にゆく人間として真剣に考える準備はできていない。(中略)科学者たちがいかに複雑な機械(これは理論や仮説のたとえ)をこしらえようと、事態は少しも変わりはしない。機械は(同)、人間が避けられない約束を直視するのに手を貸すことはできん。その約束とは、無限との約束のことだ。([11] pp161-162)

 村上 龍「オールド・テロリスト」の「経糸」

 ようやくここまでたどりつきました。しかし、このあとは、とてもシンプルなことしか述べることができません。なぜかというと、この「オールド・テロリスト」という小説が、まだ発売されて間もないということと、これから説明しようという「経糸」が、具体的な事柄ではなく、ある種の「抽象の核」ともとらえられるような、とても抽象的なことがらだからです。
 ここまでたどりつくまえに、二つの本から引用したのは、「死についての視点」のことです。もっとかんたんにいうと、「死を意識して生きている」か、「死を忘れるようにして生きている」か、ということです。
 村上 龍の「オールド・テロリスト」では、これらの二つの生き方が、対照的にとらえられ、それらのからみあいという力学で、いろいろな物語が展開してゆくように思われます。
 「死を忘れるようにして生きている」人々が、まるで、映画のワンシーンに現われる通行人のように、あれよあれよと死んでゆきます。もう少しセリフのある脇役たちも、いくつもの死のパターンに染まってゆきます。
 ただ、主人公(もしくは狂言回し)の元奥さんによって「オールド・テロリスト」と呼び分けられる、この物語の中の老人たちは、きちんと「死を意識して生きている」ことが、印象的に表現されます。その象徴的な部分は、数多く貼った付箋の、ちょうど最後のところにありました。

 「最初から、死ぬ覚悟はできている。全員だ」([1] p546)

 (Written by KLOTSUKI Kinohito, March 26, 2016)

 参照資料

[1] 「オールド・テロリスト」、村上 龍(著)、文芸春秋(刊)2015
[2] 「1Q84」、村上春樹(著)、新潮社(刊)2009
[3] 「1984」、ジョージ・オーウェル(著)、高橋和久 (訳)、ハヤカワepi文庫2009
[4] 「動物農場」、ジョージ・オーウェル(著)、川端 康雄 (訳)、岩波文庫2009
   同 高畠 文夫 (訳)、角川文庫(刊)1995
[5] 「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」、村上春樹(著)、文芸春秋(刊)2013
[6] 「ヒュウガ・ウィルス」(五分後の世界U)、村上 龍(著)、幻冬舎(刊)1996
[7] 「五分後の世界」、村上 龍(著)、幻冬舎(刊)1994
[8] 「半島を出よ」村上 龍(著)、幻冬舎(刊)2005
[9] 「大失敗」、スタニスワフ・レム(著)、久山公一(訳)、国書刊行会(刊)2007
[10] 「チベットの生と死の書」、ソギャル・リンポチェ(著)、大迫正弘・三浦順子(訳)、講談社(刊)1995
[11] 「無限の本質」呪術師との決別、カルロス・カスタネダ(著)、結城山和夫(訳)、二見書房(刊)、2002
[12] 「職業としての小説家」、村上 春樹(著)、スイッチ・パブリッシング(刊)2015

 

ランダムノート2016ブランチページへもどる