RaN283 地球人はどこにいるのか
(37)カルロス・カスタネダ「無限の本質」序文
Where is the earthian?
(37)Carlos CASTANEDA “THE ACTIVE SIDE OF INFINITY” Preface

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 はじめに

 カルロス・カスタネダ「無限の本質」[1] は、すでに読み終えてあります。
 この本の序文だけは、かなりまえに読みましたが、そのとき私は、これは何章のなんという節なのだろうかと思い、それを確認するため目次のページを開いて、ただの「序文」であるということに、あらためて驚きました。なぜかというと、ここに記されていたのは、他の本の序文にあるような、カスタネダ聴講生による、ドン・ファン教授の講義ノートのまとめ、のようなものではなく(はじめの2ページだけはそうですが)、すぐに物語が始まってゆき、32ページと少しばかりも続いてゆきます。だから、いつのまにか、これが序文であることをすっかり忘れてしまったというわけです。
 「訳者あとがき」のところで、この本が少し異質なものとなっていることにふれています。それは「カスタネダ自身の人生経験が書かれていること」であり、とりわけ「カスタネダの少年期や青年期に経験した出来事が多く書かれている」と、まとめられています。
 なぜ、このような構成となったのかということが、序文のさいしょのところに、さらりと記されています。

 序文の序文

 序文のさいしょの一文は、次のようなものです。

 この本は、私の人生のなかでとりわけ印象深かった出来事を集めたものである。([1] P10)

 ここで「私」とは「カルロス・カスタネダ」のことです。
 このように書かれてしまったら、この本を最後まで読んで、いつもと違うじゃないか、と思っても、その矢の矛先をどこに向ければよいのか分からなくなります。
 このような本が出来上がったのは、カルロス・カスタネダのたんなる思いつきなどではなく、そこにはやはり、ドン・ファンの指示(というか、勧め、と記されていますが)があって、「記憶すべき印象深い出来事を集めるように」と言われたのだそうです。
 さいしょは、私たちが感じるのと同じように、何故そんなことをするのかということが分からなかったそうですが、ドン・ファンによる、追加の説明がぽつりぽつりとあったようで、それらのまとめが、序文の言葉らしく述べられています。ここは引用しておきましょう。

 古代メキシコのシャーマンたちは、記憶すべき出来事を収集することを、自分の内部に存在するエネルギーの貯蔵物を揺り動かすための本物の手段としていた。([1] p10)

 このあとも、よく似た表現で、少しずつ異なる内容が組み込まれた文章が続いてゆきます。ここのところは、複雑になっていますので、なんとか内容をくみとって要約することにします。

 「記憶すべき出来事を収集すること」は、「自分が経験した感情と認識とを余すところなく一つにまとめあげる」ということであり、こうすることによって、「知覚において未知の世界へ歩み入るのに必要な感情とエネルギー」を移動もしくは調整することになる。
 また、「記憶すべき出来事を収集すること」は、呪術師たちが「無限の活動的な側」と呼び、現代人が「死後の生」と呼ぶ、「実在の世界」に、個々の意識と意志とをもって入ってゆくための準備である。([1] p11編集した要約)

 ここのところに、この本の英文タイトルであるTHE ACTIVE SIDE OF INFINITY「無限の活動的な側」というフレーズが記されています。日本語版では「無限の本質」となっていますが、これは、どう考えても誤訳です。
 かつて私は、ロシアの英文プラウダで紹介された、前世が火星人だったという記憶をもつボリスカ少年の記事を日本語へ翻訳して、リーフページとするということをやりました。ウェブの翻訳サイトを利用して変換したものは、あちこちに、とんちんかんな表現が混じってしまって、かえってわけが分からなくなります。英語が分かる人なら、英語のまま読んだほうがよいくらいです。でも、英語が分からない人にも理解できるようにするには、やはり、人間が仲介して、その内容を理解してから、言語の変換をするべきです。
 このような作業をすることにより、私も英語が分かりやすくなりましたし、日本語への翻訳も、自分でいうのもなんですが、けっこう上手にできるようになったのではないかと思いました。そうそう、英語では分からなかったけれど、原文のロシア語なら、何かわかるかもしれないと、大学生のころロシア語をとっていたのでしたが、辞書がなかったので、ネット販売で、新たにロシア語の辞書を手に入れたりもしました。ところがそのとき、私は初期の老眼の症状があって、この辞書に書かれた文字が小さすぎて読めなかったのです。それから8年がたった今は、加齢しているにもかかわらず、老眼ではなく、かるい近視でもなくなり、視力は1.0〜1.5あたりで安定しています。
 ボリスカ少年の記事を日本語へと変換するということへ戻ります。
 ボリスカ少年の記事の中で、「人間が病気になるのはなぜか」という質問に対して、ボリスカ少年が次のように答えるところがあります。

 人々が病気になるのは、正しく生活することや、幸せを感じることができないからだよ。あなたたちは、自分たちの悠久のかたわれを待ちうけなければならないんだよ。
前世が火星人だったというボリスカ少年のいろいろなこと

 ここのところの後半の一文は、英語にすると、次のようなフレーズでした。

 You must wait for you cosmic half.

 ここにある cosmic half の意味がピンときませんでした。ロシア語でのこの部分も調べ、それが英語に翻訳されるときに、やはり、ピンとこないままで表現されたのではないかとも考えました。
 私はこれを「悠久のかたわれ」と表現しておいたわけですが、今でもまだ、この訳には疑問をもっています。ここでの意味を深く考え、ひょっとすると、これは「潜在意識」か「超意識」のことだろうかとも考えています。
 具体的な表現のことは、もう少し的確な質問をボリスカ少年にすれば、何か手がかりがえられたのかもしれませんが、記事ではそのような展開とはなっていませんでした。
 直訳すると「宇宙の半分」もしくは「宇宙の片側」となります。このままのほうが、かえって分かりやすかったのかもしれません。
 ここで、カルロス・カスタネダの「無限の本質」の英文タイトルの直訳「無限の活動的な側」へと戻ると、呪術師たちもボリスカ少年も、「無限」や「宇宙」と呼んでいる、私たちのいるところが、何らかの意味で半分ずつになっているということを主張しています。
 つまり、私たちの世界は、私たちが「知っている(感じとれる)世界」と「知らない(感じとれない)世界」とがあるという認識です。そして、呪術師たちの理解によれば、「知らない世界」のほうが、より「活動的な側」だということになります。

 序文の物語

 これはまず、ドン・ファンがどのようにして、カルロス・カスタネダに、「おまえにとって重要な意味があったさまざまな出来事を網羅するアルバム」をこしらえることを指示したのかというときの物語から始まります。
 このあたりの表現も、なかなか素晴らしいものです。
 ドン・ファンはまず、カスタネダの体形について「太りすぎの連中は肥満との戦い方がちっともわかっておらん」と、からかいます。それからドラマはすすんでゆき、カスタネダの収集癖へと向かい、「おまえが集めるものといえば、なんの値打ちもないがらくたばかりだ」と、評価が下されたところで、「出来事のアルバム」へとつながってゆくわけです。
 この「出来事のアルバム」に収めるべき「回想」には、次のような条件があります。

 おまえにとって事態を変えてしまったと思われる出来事([1] p17)
 おまえの進むべき道を照らしたと考えられる出来事([1] p17)

 さらにドン・ファンによる、細かな注意点や考え方、心構えなどが語られてゆきます。そして、カスタネダは自分にとって重要な意味があったと考えられることがらを二つ取り上げます。それらは、「大学院に合格したのを知った日」のことと「ケイ・コンドル(仮称)と結婚しそこなった日」のことでした。
 ところがドン・ファンの評価は、次のようなものでした。

 そんなものは全部たわごとにすぎん([1] p28)

 ドン・ファンは「出来事のアルバム」に収めるべき「回想」についての条件を、さらに深く限定します。

 シャーマンのアルバムに収まっている記憶すべき出来事は、時の試練に耐えられるものだ。なぜなら、それらの出来事はシャーマン自身とは何の関係もないが、それでいてシャーマンがそれらのまっただなかにいるからだ。([1] pp28-29)
 もう一度繰り返すが、戦士のアルバムに収まっている物語は、個人的なものではないのだ。([1] p29)

 このあともカスタネダは、いくつかの(自分の経験の中の)物語を、ドン・ファンに話しますが、ドン・ファンの評価は、「もうちょっとだ」、「大いに可能性があるぞ」、「到達しそうになっている」と、なかなか合格しません。
 もう何も出てこないとカスタネダが思ったあと、きまずい沈黙があってから、ドン・ファンが言い出したのは、ドン・ファンのアルバムからの例を示すより、「もっといいことがある。おまえ自身の人生から記憶すべき出来事を拾い出してやろう」ということでした。
 これが冗談だと思いカスタネダが笑い出すと、ドン・ファンは「笑いごとではないぞ」と叱り飛ばします。そして、襟を正してカスタネダが聞き直した物語というのは「鏡の前の踊り」という、カスタネダの体験でした。
 ここから少しばかり、この「鏡の前の踊り」の物語がカスタネダによって詳しく述べられますが、ここでは、その内容にはふれないことにします。カルロス・カスタネダの円熟された表現については、どうぞ、原本で確認してください。
 このリーフページで取り上げておくべき点は、この物語が終わったあとの、ドン・ファンの評価です。

 おまえの友達は、(中略)生涯残る何かをおまえに与えてくれたのだ。([1] p43)
 これがほかのとちがって記憶に値すると思えるのは、おまえひとりでなく、あらゆる人間の琴線に触れるからだ。([1] p43)
 わわれはみんな、老いも若きも、マダム・ルドミラと同じようになんらかのかたちで鏡の前の踊りをしている。(中略)誰でもいいからこの世にある人間を思い浮かべてみろ。(中略)彼らの行為の結果はつねに同じだということが明確に理解できるだろう。そう、鏡の前の無意味な踊りだということがな。([1] p43)

 あとがき

 ようやく「序文」についての読書感想文を書き終えました。
 しかし、これで「私の宿題」が終わったということではなく、ほんとうは、私のこれまでの人生にあった出来事の中で「他の人の琴線にも触れるような、重要な出来事」としてどのようなものがあったのかを探すという課題が残ることとなります。
 しかし、このような取り組みには時間がかかります。カルロス・カスタネダだって、この本をまとめたのは、ドン・ファンと分かれてから「四半世紀(25年のこと)」たってからのことです。
 私自身のことを振り返るのは、私における課題として心の中のホワイトボードに書き込んでおくことにしますが、とりあえず、この本でカルロス・カスタネダがどのような物語を語り、そして、どのような認識を得て行ったのかということを追跡しようと思います。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, April 5, 2016)

 参照資料

[1] 「無限の本質」呪術師との決別、カルロス・カスタネダ(著)、結城山和夫(訳)、二見書房(刊)2002

 

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