RaN286 地球人はどこにいるのか(40)「無限の本質」
大気中の震え「ファン・マトゥスとは本当は何者だったのか」
Where is the earthian? (40)“THE ACTIVE SIDE OF INFINITY”,
TREMBLING IN THE AIR ” Was it really Who is Juan MATUS”

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 はじめに

 カルロス・カスタネダ「無限の本質」[1] の「第一章 大気中の震え」にある「ファン・マトゥスとは本当は何者だったのか」について考えたいと思います。
 この本「無限の本質(直訳は無限の活動的な側)」の構成要素の観点から言うと、ここの部分「ファン・マトゥスとは本当は何者だったのか」は、とても異質なものです。他の部分が、ほとんどすべて「物語」で構成されているのに、ここでは、ほとんど、それがありません。わずかに組み込まれているのは、カルロス・カスタネダが初めてドン・ファンと会ったバス発着所であったときの「物語」です。そのときのカスタネダの心理的な状況が、より詳しく反復されて、ドン・ファンの異質さが浮かびあがってゆきます。
 これ以外のところには、これといった「物語」は見られません。
 これまでのいろいろなところで語られた知識が、いくつかの中心的なテーマに沿って集められています。
 このような観点で、私は、次に示すいくつかの下部タイトルを設けて、これらの内容をかんたんに整理しようと思います。

 ドン・フアンの視線

 カルロス・カスタネダは、アリゾナ州ノガレスのバス発着所でドン・ファンに初めて会ったとき、自分のことを売り込もうと、シャーマニズムや薬用植物について知っている限りの知識をまくしたて、ドン・ファンからも話を聞きたいと、ずうずうしく話していたのですが、「私(カスタネダ)が名のろうとするのを静止したとき、ドン・ファンは私の目をのぞきこみ、その視線で私を麻痺させた」とあります。([1] p91)
 この「視線」の意味が、p97(下の「宇宙を流れるエネルギー」としてまとめるあたり)でドン・ファンから語られます。

 ナワール(ここではドン・ファンを意味します)は、われわれを一つのまとまりのある単体として凝縮させている力に通じている。しようと思えば、たとえ一瞬ではあれ、その力に全注意力を注いで、他人を麻痺させることだってできる。([1] p97)

 ドン・ファンのイメージ

 カルロス・カスタネダは、バス発着所でドン・ファンと会った後、彼を探している間に、ドン・ファンのイメージを「かってに作りあげていた」そうですが、ふたたび対面して、「まるっきりちがう」ことについて取り上げています。
 ここのところで一覧表のようなものをつくって比較することもできるでしょうが、冗長になりますので、やめておきます。
 ひとつだけ取り上げたいと思います。それはドン・ファンの身長のことです。
 カスタネダのイメージとしての想定値は5フィート6インチ(1m67)だということでしたが、「実際はそれより3インチ高かった」とあるので、5フィート9インチ(1m75)です。

 実は私(黒月樹人)の身長が、この5フィート9インチ(1m75)なのです。若いころ、1m75cmと9mmだったので、四捨五入して1m76と言っていましたが、加齢にともない、この端数のミリ値が5mmを下回るようになってきましたので、現在は1m75と言うほかありません。
 私は陸上競技をやっていますので、1m75と1m67とでは、いろいろと向き不向きが生じると分かります。ランニングスピードや足腰のバネにも左右されますが、ハードルの高さが1m09もある男子の110mハイハードルでは、1m67の身長でインターバルを3歩でこなし、それなりのタイムを生み出すということはかなりむつかしいのです。逆に身長が高すぎると、インターバルでのびのびと動けず、やはりタイムは伸びません。そのようなわけで、110mハイハードルに最適な身長は、およそ1m75から1m85くらいだと考えられるのです。

 ここのところでドン・ファンの身長がはっきりと示されるまで、私も、この物語に現われるドン・ファンの姿を、1m70に満たないサイズだと想定していました。この「無限の本質」のカバーイラストに描かれている二人の身長は、ドン・ファンが(画像として)40mmで、カスタネダが(同)45mmです。この比で計算したとき、ドン・ファンが1m75ならカスタネダは1m97となります。バレーボールやバスケットボールの世界で活躍できる巨人サイズです。「カスタネダ 身長」で検索したところ、「1m65」という記録がありました。
 これなら、「無限の本質」のカバーイラストに描かれている二人は、まったく逆だということになります。ドン・ファンのほうが10cmも高かったのです。
 私たちは、ドン・ファンだけでなく、カルロス・カスタネダのイメージも、「かってに作りあげていた」ようです。

 このあとの記述は、じつは混然一体となっており、カスタネダが何らかの意図をもって区分した様子はないのですが、私の観点により、次のようなタイトルをテーマとして、その内容をつぎはぎしてまとめたいと思います。

 呪術師とナワール

 このあとカスタネダはドン・ファンによって「思いきり背中をどやされたような感じを受けた」ということなので、「高められた意識」の状態へと変化したようです。ドン・ファンは「これで、わしがこれから話すことを、おまえは全部理解できるだろう」と言って話を続けます。
 ここのところは、あまり整理されていません。そのまま引用などによって構成しようとすると、ほとんど原文と同じような密度となってしまいます。そこで、ここの表現の順序などは一切無視して、情報の種類について整理したものを示すことにします。

 ドン・ファンは「27代連綿と続いてきた呪術師の系統」に属している「呪術師」であり、しかも、それらの呪術師の、その世代の一団を率いる指導者としての「ナワール」です。
 「呪術師」は「魔法を用いるわけではないし、人々に効用をおよぼしたり、霊に取り憑かれたりするわけでも」なく、「無限に到達し、それを意識すること」だと説明されます。
 「ナワール」は各世代につきひとりで、「特殊なエネルギー形態」をもっているそうです。
 ドン・ファンの系統の「創始者となった呪術師たちの時代には、原則としてナワールは女だった」ということですが、現在「ナワールは男でも女でもかまわない」そうです。
 ただ、男女による違いというものがあるらしく、女のナワールは「実用主義の陥穽(かんせい, おとしあな の意)」へ、男のナワールは「愚鈍の陥穽」へと、それぞれ引きずり込むのだそうです。少し異なる意味として、「男のナワールは穏健をもたらし、女のナワールは革新をもたらす」という表現もあります。

 宇宙を流れるエネルギー

 私たちのような普通の人間と「呪術師」とを区別する条件があります。
 私たちが存在している、この宇宙には、「宇宙を流れるエネルギー」というものがあるそうです。私たちには見えないので分からないわけですが、「呪術師」には見えるのだそうです。これが区別の条件です。
 もっとていねいに言えば、「呪術師」は「宇宙を流れるエネルギーを直接知覚する能力」があるのです。そのような能力のもとで、「ある人間」を知覚すると、「輝く球」ないしは「輝く卵形の姿」が見えるといいます。
 このときの「宇宙を流れるエネルギー」は、「光り輝く振動」であり、「結合力」「凝集力」「振動力」ともなる「不思議な力」によって「結びつけられているエネルギー場の集合体」と表現されています。

 このような「宇宙を流れるエネルギー」の観点で「呪術師」が「ナワール」を見ると、「一つの輝く球としてではなく、縦に重なり合った二つの輝く球体として」見えるのだそうです。これをドン・ファンは簡潔に「二重構造」と言い表しています。

 空虚さ

 これらの説明の最後に、私たちには理解が困難なことが語られています。
 ドン・ファンは「運のいいことに、実際にふたりのナワールと出会い、交わることができた」と言います。「ふたりのナワール」とは、銃で撃たれて瀕死のドン・ファンを助けて(最後には)弟子にしてしまった、ナワール・フリアンと、やはり瀕死のフリアン青年を助けて(まんまと)弟子にしてしまった、ナワール・エリアスのことです。つまり、ドン・ファンは「父親」に相当するナワール・フリアンと、「祖父」に相当するナワール・エリアスの「3世代家族」の「孫」のような立場で、「ふたりのナワール」から指導をうけ、「ふたりのナワール」の共通点や相違点を比較観察することができたのです。

 私ごとですが、私は若いころ、ある地方の中学校で理科の教師をしていました。あるとき、それを辞めることにしたのに、いろいろなことが混乱したままだったので、周囲の人々に対して、はっきりとした意志を示すことができず、ある私立学校の寮の舎監という仕事につくこととなりました。さらに、そのとき、近くの中学校で理科の教師が病気で休まなければならないこととなり、その穴埋めとして、臨時の代用教員をすることとなりました。
 かくして私は、正規の教諭を辞めて、しばらくしたのち、臨時の代用教員をするわけです。通常の人々がたどるコースの逆です。そんなことより、このような仕事をしたことにより、まったく異なる地域では、組合活動の主導権を握っている政党が、まったく異なっており、立場も逆になっていることを知りました。
 やがて、病気の教師が復帰することとなって、私は職務を終えたのですが、そのとき「もう教師は(これ以上やらなくても)いい」と宣言し、それを勤め上げれば、翌年からは教師として復活できると約束されていた寮の舎監の仕事も辞めて、デザインと「版画」に関わる仕事をすることにしました。
 このような、いろいろな変化により、たとえば、公務員だったときの私が、とても公務員としてはふさわしくない、威張った生き方をしていたことに気づきました。
 これらはすべて、異なる仕事を体験したことによって、比較観察することができたから分かったことです。もし、ずうっと教師をして、無事定年退職したとしても、きっと、ここで記しているようなことは、まったく気づくことすらできなかったことでしょう。もちろん、だからと言って、定年まで勤められた人を批判しているわけではありません。これはあくまで、私個人のケースとして理解してきたことです。
 このリーフページの中心的なテーマへ戻ります。

 ドン・ファンが「ふたりのナワール」を比較観察して分かった「驚くほど似ている点」というのが、「なかに何もなく」「空っぽだった」ということです。
 ここのところは、かなりむつかしいことのように思われます。なぜかというと、私たちは「空っぽ」ではないからです。
 ドン・フアンの表現を引用すると、こうです。

 わしは父親のなかに人間を見つけられたし、知人らみんなにも人間を見つけることができたが、ふたり(のナワール)のなかには何も見つけられなかった。本当の人間のかわりにふたりのなかにあったのは、無名の人々に関するたくさんの物語だ。ふたりともそれぞれ独自の性質を備えていたものの、結果はつねに同じ、空虚なのだ。この空虚が映しているのは、世界ではなく、無限だった。([1] 98)

 (中略)を入れて、かんたんにできないかと考えてはみましたが、そうすると理解が困難になりそうだったので、けっきょく、ここのところは全文引用することにしました。
 ここのところに関する補足説明のようなものが、このあと少しばかり集められています。それはもっぱら、無限とされるものについての、異なる表現となるものです。
 「ナワールがなぜ空虚なのか」ということについての説明もあります。

 いったん無限の特殊な敷居をまたぐと、(中略)それ以後に起こることはすべてその個人の領分にではなく、無限の領域に属するようになる。
 アリゾナのノガレスで
(ドン・ファンとカスタネダが)出会ったとき、わしらはふたりとも特殊な敷居をまたいだのだ。この敷居を定めたのは、わしでもおまえでもなく(ここは中略でもよい)無限そのものだった。([1] p98)

 偶然のできごと

 もうひとつ記しておくべきテーマが見つかりました。
 カルロス・カスタネダは、上記の「特殊な敷居」について、次のように、ドン・ファンに訊いています。

 敷居をまたいだのは偶然の出来事だったのか。偶然が支配する予測不能の状況がもたらしたものだったのか。([1] p99)

 これに対するドン・ファンの答えは、次のようなものです。

 ドン・ファンの歩みとカスタネダの歩みを「導いたのは無限であり、偶然によって支配されているように見える状況も、本質的には無限の活動的な側によって支配されている。」([1] p99)

 このようなことをドン・ファンは無限の意図と呼びました。
 それは大気中の震えとも表現されます。
 この章のタイトルがここに現われています。一つ前の節のタイトルもあります。
 ここのところは、短く、また物語もあまりなく、この本では異質なところでした。
 カスタネダのこれまでの本なら、おそらく序文として、本の最初のところへ置かれたものかもしれませんが、この本では序文が物語になってしまい、こんなところに、序文がやってきたということになります。
 映画やテレビドラマで、とつぜんドラマがいくらか進み、殺人事件などが起こった後で、ようやく主人公たちが現われるというところで、タイトルが現われるものがあります。ひょっとすると、カスタネダは、このスタイルをなぞってみようと思ったのかもしれません。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, April 8, 2016)

 参照資料

[1] 「無限の本質」呪術師との決別、カルロス・カスタネダ(著)、結城山和夫(訳)、二見書房(刊)2002

 

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