RaN287 地球人はどこにいるのか(41)「無限の本質」
ひとつの時代の終わり「日常生活の重大な関心事」
Where is the earthian? (41)“THE ACTIVE SIDE OF INFINITY”,
END OF AN ERA ”SERIOUS CONCERN OF DAILY LIFE”

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 はじめに

 カルロス・カスタネダ「無限の本質」[1] の「第二章 ひとつの時代の終わり」にある「日常生活の重大な関心事」について考えたいと思います。
 ここのところのシーン分割は、時系列を無視すれば、次の4つになると思われます。

 (A) ドン・ファンとカルロス・カスタネダによる対話(導入とまとめ)
 (B) カルロス・カスタネダの叔父がからんだ、父の行動について
 (C) 別の市にある学校の、人類学の夏期講座の教授のこと(導入とドラマ)
 (D) ある友人の精神科医のところでの、研究助手の仕事と、その精神科医のこと

 正式な会話と略式の会話

 (A)の「導入」がさいしょに述べられてゆきます。ここには中心的なテーマが2つあります。その一つは、この章のタイトルとなってゆくものです。これは最後に振り返ることにします。二つ目のテーマが「正式な会話と略式の会話」です。ここでは、これについて述べます。

 古代メキシコのシャーマンたちは、日常的な解説として使われる「略式の会話」と、会話の最終形態となる「正式な会話」とを区別して発展させ、それらを使い分けることで、弟子を教え導く手段として用いたそうです。
 「略式の会話」においては、「問題となっている現象以外なにごとにも言及せずものごとの説明がなされる」とあります。
 「正式な会話」についての詳しい説明は見当たりませんが、ドン・ファンの指示として、「一部始終」あるいは「どんな細かな点も省略せず、すべてを逐一語れ」とあります。「おまえを悩ませている事柄について、細大漏らさず話すのだ」とも言っています。
 おそらく、「略式の会話」では、心の中にしまい込まれるようなこと、何らかの判断のもとで切り捨てられるようなこと、これらについても語るということが、「正式な会話」の分類学的な説明ではないでしょうか。
 このような「正式な会話」の効能のようなものが、ドン・ファンによって語られています。

 呪術師は何一つ隠しだてをしない。そうやって自分を空っぽにするのが、呪術師のやり方なのだ。それによってやがては自我の砦を放棄することができる。([1] p102)

 父からのプレゼント

 (B)についての物語です。ここのところの物語について、かんたんにまとめることはできますが、この物語がここに組み込まれた理由というのが、私にはよく分かりません。
 カルロス・カスタネダの「正式な会話」の中に、「父方の家族と一緒に暮らし始めて少したったころ」とあります。ここから、「母方の家族もしくは母とだけ暮らしていたころ」があったと推定でき、なかなかに複雑な生い立ちだったことがうかがえます。
 この物語の「狂言回し」はカスタネダの「大好きだった叔父」です。この叔父はカルロスが「クリスマスや誕生日に一度もプレゼントをもらったことがない」ということを知り、父親に対してカルロスがとるべきことを、いろいろと指導しました。しかし、当のカルロスは、プレゼントをもらわなかったことについて「ちっとも不当な仕打ちを受けたと感じていない」のですが、そのことに叔父は気づいていません。そして、「叔父が父に話したのだろう、父からプレゼントをもらった」とカスタネダの話が展開してゆきます。それにはささやかな「(落語などの)落ち」があって、そのプレゼントというのが、「子供が風呂に入るときに、湯舟に浮かべて遊ぶようなやつ」の「小さなボート」だったのです。そのときカルロス・カスタネダは「もう十五歳で、ほとんど一人前の男といってもいい」状態だったのに、彼の父は「完全に忘れていた」というのです。
 おそらく、この物語についての手がかりは「内省」という言葉にあると思われます。「内省」とは「自分の考えや行動などを深くかえりみること」だと、ウェブの辞書にあります。
 この物語の前でカスタネダは注釈のようなフレーズを組み込んでいます。

 まずドン・ファンに、私(カスタネダ)の生活状況が内省的であるのを許さなかったのだと打ち明けた。([1] p102)

 ここの意味から、カスタネダは、母や父や叔父の、このような関係性にもとづく、こみいった生活状況のため「自分の考えや行動などを深くかえりみること」ができなかった、と読み取ることかができます。
 だから、このあと示されるような物語にも、「自分の考えや行動などを深くかえりみること」なく、入り込んでいったというわけなのでしょうか。

 治療問答テープの目録づくりの仕事

 カルロス・カスタネダが、この仕事へつくまでの、心と生活の変化のことが、細かく語られています。
 大人になってまもなくのある日、「奇妙な情緒不安」を覚え、「生活に抜本的な変化が必要な時期にさしかかった」と思うようになったものの、「人類学の勉強をやめること」はできないと考えられたため、「別の市にある夏期講座を受講する」というプランに落ち着いたのだそうです。それと同時に、「ある友人の精神科医のところでの研究助手の仕事にありついた」ということで、この仕事の物語へと進むことになります。
 雇い主の精神科医は、「来院した若い男女との治療中の問答を録音してあって、長たらしいテープから抜き出した抄録の内容分析をしたがっていた」ということで、カスタネダが、そのテープを聞いて、その内容についての目録を作るというのが、このときの仕事のようです。
 この「テープの目録作り」ということが、カスタネダにとっては、さいしょ「面白くてすっかり夢中になった」のだそうですが、やがて「しだいに純然たる恐怖へと変わった」そうです。ここのところは重要だと考えられます。なぜそのように変化したのかということは、カスタネダ自身によって分析されています。

 話されている言葉の一語一語が、精神科医の質問も含めて、全部私のものなのだ。([1] p106)

 ここのところは、あまりに正直にとらえると、ミステリーかSFのようになってしまいます。「全部私のもの」というのは「全部私の存在の奥底にあるものと同じ」だということのようです。
 カスタネダによる、ここのところの「まとめ」のようなフレーズを、次に引用します。

 生まれたときから身にしみついてきた、自分は独自の個性をもった人間なのだという考えは、この驚愕すべき発見で跡形もなく崩壊した。([1] p106)

 「この驚愕すべき発見」というのは、「精神科医のテープのなかで語られることが、すべて、カスタネダの存在の奥底にあるものと同じであり、ほかの人々と自分の違いというものは無い」ということです。同じように思い、同じように考える、まるで「スタートレックの中で出てくるボーグ(共通の意識だけをもつ個体群、アリやハチや、グレイたち)」のようなものだということが分かったわけです。
 もう少し記述があります。
 カスタネダは、わずか6行で、数多くの試みをしたことを要約しています。
 それは、「自分は唯一無二の人間なのだ」と納得し、「自分の値打ちや特殊性」について確認しようとするための試みだったわけですが、そのようにしている夢から目覚めるところが描写されており、そんなことは幻だったと思い知らされるのです。

 ここのところは、よく分かります。私もずうっと「ボーグ」だったような気がします。自分の中が「空っぽ」だということに気づくまで、ずうっと、何かが満たされ、みんなと同じでありながら、みんなとは違うのだと思い込むことで、なんとか自分の「殻」を形作ってきたように思えます。

 精神科医の告白

 カルロス・カスタネダは、この部分を始めるにあたり、次のようなフレーズを掲げています。

 そんなある日、輪をかけてひどい一撃をこうむる事件があった。([1] p107)

 その「事件」というのは、雇い主の精神科医が、午前3時という真夜中にカスタネダの部屋のドアを激しくノックし、自分の体験談をカスタネダに話したというものです。「略式の会話」なら、ざっと、これだけのことでした。
 もちろんカスタネダは「正式な会話」でドン・ファンに語ったことを記していますから、このときの「事件」は、テレビドラマのワンシーンのように、リアルで緻密な表現となっています。そのような記述をまとめるには、やはり私は「略式の会話」ですすめなければなりません。
 精神科医の体験談というのは、「若くて美人の見習い秘書(テリーサ・マニング)」と精神科医との情事なのですが、これがドラマ的には、かなりドタバタで、秘書の突然の行動に驚いた精神科医が、情事の行為を続けられない状態になりました。男としてのプライドを保とうと、なんとかしようとします。それでもうまくいかず、秘書(すでに売女(ばいた)と呼ばれていますが)は、精神科医の「腹を蹴っ飛ばし」、「ベッドから床へ転げ落とし」、「インポだのおかまだのと罵った」のだそうです。

 カルロス・カスタネダは、この「事件」の意味を、次のようにまとめています。

 (カスタネダ)が聞いているのは精神科医ではなくて、テープのなかで取るに足りない問題をさも重大そうに愚痴っている男性患者の声であるかのような錯覚におちいった。([1] p112)

 夏期講座の人類学者

 (C) 別の市にある学校の、人類学の夏期講座の教授のことは、上記の精神科医の物語の前後に、「導入」と「ドラマ」が、時系列に沿って分けられています。

 人類学の夏期講座の教授の「導入」では、この教授の風貌や講義での様子が事細かく描写されます。そのなかでも強調されているのが「話し方」です。
 「一語一語をはっきりと発音し」、「特定の単語を引き延ばして強調する」のだそうです。
 カスタネダは、「最初から教授に魅了され」、奇妙な話し方も気にならなくなり、「こうして別の市の別の学校へ移るのはけっこう簡単にいきそうだし、自分にとってプラス面が多そうだ」と考えます。

 人類学の夏期講座の教授の「ドラマ」の最初に、またしても、次のような記述があります。精神科医の告白を聞いたあとのことです。

 私は胸に大きな不安と、不快感と、無力感を抱えたまま、授業に出席した。そしてそこで決定的な一撃をくらった。([1] p112)

 人類学の夏期講座の教授の「ドラマ」は、「ボリビアとペルーの高地に住むアイマラゾクというインディアン」についての講義から始まります。
 そこでは「発酵させたトウモロコシから造るビール」があるのですが、それは、女司祭たちが「煮たトウモロコシを噛んでは吐き、噛んでは吐きして」、発酵のための「種」を造るというものです。
 それから教授は「女司祭たちは噛む達人(チャーイチャ・チューアー)だ」という話へと移り、それに加えて、彼女らの一人と「光栄なことに」「ベッドをともにするように頼まれた」そうです。さらに、「彼女たちは喉や頬のあたりの筋肉を発達させる」ので「そこんとこの筋肉で驚くべきことができるようになる」と続けます。
 このあとの教授の様子が詳しく描写されています。ひとつ選びだします。

 「私(教授)の言っていること、わかるだろう」そう言うと、発作を起こしたようにヒステリックに笑い出した。([1] p113)

 ここまでのことについての、カスタネダの「まとめ」があります。

 (カスタネダ)の神経は、精神科医の話と、教授の「チャーイチャ・チューアー」によるプレッシャーに耐えられなかった。それでただちに仕事も学校もやめ、車でロサンゼルスへ舞い戻った。([1] p113)

 ひとつの時代の終焉

 (A) ドン・ファンとカルロス・カスタネダによる対話も「導入」と「まとめ」に分かれています。
 「導入」のところでは「正式な会話と略式の会話」というテーマを取り上げて、このリーフページのさいしょのところでまとめました。ほんの少し、ここのところへとつながる記述もあるのですが、まとめて、ここでとりあつかうことにします。

 ドン・ファンによると、カルロス・カスタネダが、今回ドン・ファンに相談しようとした「悩み」というのは、「自分の持ち時間が尽きたことを、無意識のうちに悟った」ことによって生じたものだそうです。ドン・ファンや、その系統の呪術師みんなに起こったことだから、「よくわかる」と言います。
 ドン・ファンによる「まとめ」は次のようなものでした。

 おまえの世界は終わりを迎えようとしている。それはおまえにとってひとつの時代の終焉なのだ。([1] p114)

 このあとのドン・ファンの表現も意味深です。
 ドン・ファンは「カスタネダが、生まれてからずうっとつきあってきた世界」というものを、まるで生きている「龍」か なにか のようにとらえます。
 「そいつはおまえの下でのたうちまわり、尻尾でいやというほど打つだろう
と。([1] p114)

 あとがき

 すぐ上の表現について考えます。
 ドン・ファンが言うように、カスタネダに「深刻な出来事」が立て続けに起こったのは「無限の仕業だ」([1] p101)とすると、私たちが体験していることのすべては、「意志」をもったものによってしくまれていることになります。つまり、何らかの「生きもの」による働きかけがあるわけです。
 とすると、このような「無限」という「意志」をもつ「生きもの」に対抗して、私たちが「生まれてからずうっとつきあってきた世界」というものも、やはり何らかの「かすかな意志」のようなものをもつ「生きもの」の一種とみなすことは、ごく自然なことなのかもしれません。
 ドン・ファンは「文学者」なのではなく、あくまでも、呪術者としての視点から観察し、それにもとづいて、淡々と描写したと考えるべきでしょう。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, April 10, 2016)

 参照資料

[1] 「無限の本質」呪術師との決別、カルロス・カスタネダ(著)、結城山和夫(訳)、二見書房(刊)2002

 

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