RaN292 地球人はどこにいるのか(46)知的無限 @ ラー文書
Where is the earthian? (46)INTELLIGENT INFINITY @ THE RAW MATERIAL

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 はじめに

 ラー文書「一なるものの法則」(第一巻)[1] の中に、不思議な言葉があります。
 それは知的無限と訳されるものです。原文の英語では intelligent infinity となっています。完全に直訳です。意訳しようにも、対応する概念は見つからないことでしょう。

 知的無限 @ セッション27(1981年2月21日)

 「ラー文書」の著者の一人、おもに質問者の役割を担って、この本の編集責任者となっているドン・エルキンズは、ラー文書「一なるものの法則」(第二巻)のはじめとなるセッション27の冒頭で、第二巻を始めるにあたって、まるで演説でもしているかのように、長々と述べたとき、その最後あたりで、この「知的無限」についての意味についての定義から始めたいと語ります。つまり、質問のようなものを組み込むのですが、けっきょく、次に語りだしたラーによって、「あなたの振動する音の複合体は、ひとつの好みについて示しているだけです。どうか、言い直してください」と、突き返されてしまいます。そこで、質問者は、次のように問い直します。
 「知的無限の文脈における、知的という言葉を定義してもらえませんか?
 これに対するラーの答えは「知的無限という言葉は、これで一つのものとなっているので、あなたが信頼(faith)という言葉を二つに分けることができないように、無理なことです」と、遠回しに、質問し直すように要求しています。
 そこで質問者は「分解する必要はありません。知的無限の定義でけっこうです。定義をお願いします」と言い直します。([2] session 27)

 私はラー。これは、比較的とても簡単で混乱も少ないものです。ひとつのもの(unity)があります。このひとつのものは、ここにあるもののすべてです。このひとつのものは、ひとつの潜在能力をもっており、力学的なものでもあります。その潜在能力が知的無限です。この潜在能力を刺激すると、仕事(work)を生み出すことになります。この仕事というのは、私たちによって呼ばれてきたことであり、知的エネルギーです。
 この仕事の本質は、自由意志という個々のゆがみに依存しています。このときの自由意志とは、順に、ひとつのものの、その潜在能力の力学的な焦点の、ある個人的な知的エネルギーの本質であるか、もしくは、すべてのものの自由意志です。
([2] session 27, 黒月樹人訳、ただし、後半の訳は自信がありません。)

 このあと質問者は、仕事(work)という言葉についての確認をしようとしています。

 仕事(work)の概念を少しばかり拡張したいと思います。仕事(work)と聞くと、ニュートン力学での定義として、力と距離の積を思い浮かべることになりますが、あなたが話しているときの仕事は、おそらく意識上での仕事も含むような、より広い用語と仮定します。それで正しいでしょうか。([2] session 27, 黒月樹人訳)

 おおよそ、そのような意味です。少し意訳しましたが、同じ地球人の言っていることなので、内容は間違っていないと思えます。
 このあとのラーたちの答えも意味深いものです。

 私はラー。私たちがこの用語(this term)を使うのは、そのような意味あいで(in application)、宇宙で通用している(it is universal)からです。知的無限はひとつのリズムもしくは流れを持っています。これは、セントラル・サンとしての、巨大な中心が始まって以後のことです。極性がなく、有限でもなく、存在することの潮流と同じくらい、あなたがたがこのこと、つまり、流れがあるということが見すごせないことを、どうしても考えるか想像したように、ということになります。言い換えると、果てしなく、また静かでもある、すべてが外へ外へと鼓動を刻みだし(beating outward, outward)、外へとねらいを決め、それから、今度は、そのねらう中心群(the focuses)が確かなものとなるまで、内へと向かったということです。ねらいの中心群(foci)の知性もしくは意識は、ある状態に至ろうとしてきました。その状態においては、それらの、あえて言うとしたら、精神的な本質(spiritual nature)もしくは質量(mass)が、それらを、内へ、内へ、内へと呼び集め、すべてが合体するまで続けられました。これが、あなたが話すような、現実のリズム(the rhythm of reality)というものです。([2] session 27, 黒月樹人訳)

 うまく訳せたか自信がないので、ところどころの表現についての原文を( )の中に記しました。ここのところは、適度に意訳すべきではありません。ラーたちの考えていることは、人間である私たちの概念のストックにあるとは限りません。単に英語という言語を利用して、なんとか表現しようとしていると考えると、これでよいのかどうかは、よく分からないと考えておくべきことです。
 もう少し訳しておくべきだと思うのですが、これに続く質問者の英文の組み立てが、よく分かりません。文法的な知識や、意味から推測した構造なども利用して、なんとか理解しようと思うのですが、歯がたちません。ラーたちがときどき、質問者に言い直してくださいと要求するのが、よく分かります。
 意味はつかめそうにありませんが、形式的に直訳してみることにします。

 それなら、私は、このことから、ひとつの重要な点を抽出してきたと考えます。なぜかというと(in that)、このことというのは、極性をもたずに私たちが仕事をしてきた知的無限においてということです。あるいは、ひとつの潜在的な違いが、存在すべきではないということです。これで合っていますか。([2] session 27, 黒月樹人訳、誤訳している可能性があります)

 これに続くラーたちの発言を訳してみます。

 私はラー。ひとつのものにおいては、潜在的な能力や力学的において、違いはありません。知的無限のベースとなっているリズム(複数)は、全般的に、すべての種類のゆがみとは無関係です。そのリズム(複数)は、未知の衣をまとっています。なぜかというと、それらは存在そのものだからです。このことから、ゆがみのないひとつのものは、しかしながら、知的エネルギーとの関係において、潜在的な現われ方をするのです。
 この方法において、あなたは、その用語が何か二面性をもったものとして観察することになるかもしれません。その用語の一つの用法は、力学的な側面も潜在能力としての側面もない存在としての、ねじれがないひとつのものとしての存在というものです。この用語の他の適用は、私たちが知的エネルギーと呼んでいる、エネルギーの集まった中心群
(foci or focuses)によって、中へと叩かれる、はてしない潜在能力の意味において、他の用語のいろいろなことが欠けているために、私たちが、違いを認めないようになって使っているというものです。([2] session 27, 黒月樹人訳)

 この後の質問者とラーたちの質疑応答は、なんだか、ピント外れのように思えてきます。どうやら、このようなラーたちの説明を質問者が独自に解釈し、「知的無限のさいしょのゆがみは、私たちが自由意志と呼ぶもののねじれのこと」だと理解したというのです。どこから、このようなところへ落ち着くというのでしょうか。
 ラーたちはとてもがまんづよい教師のようです。質問の内容がどんどん流れていっても、それに対する答えのようなものを、抽象的になろうが、具体的なことであろうが、なんとか生み出そうとします。
 セッション27における「知的無限」についての読み込みは、ここで止めることにします。

 知的無限 @ セッション13(1981年1月29日)

 ラー文書「一なるものの法則」(第一巻)[1] において調べると、知的無限という言葉は、すでに、ラーの方から、ごく自然な流れで語られています。まずは、そのあたりのことから説明してゆこうと思います。
 このセッション13の流れは、まずラーたちの挨拶から始まります。次に、質問者が語りまじめます。いつものことですが、質問しようということがリストアップさているのかもしれません、ここで、いくつも質問を組み合わせてしまうのです。すると、ラーたちは我慢強く、次のように語ります。

 私はラー。あなたの質問は、はっきりしていません。議論のそれぞれの領域について、ばらばらにした質問群として述べていただけませんか。([1] session 13, 黒月樹人訳)

 こうして質問者は「最初に」と始めて一つ目の質問をし、「二番目に」と始めて二つ目の質問をしますが、順番づけられるのはここまでです。このあたりの質問は、この応答文を本にするときのタイトルとか著者名についての相談にすぎません。5つ目の質問でようやく、本質的なことがらに触れられます。
 「創造において最初に知られたこと」についての質問に対して、ラーたちの答えは「無限です」と、ごくごくシンプルなものです。この次の質問者の一つ目の英文も、その構造がよく分かりません。二つ目の英文でようやく質問の形になります。要するに「次の展開は何ですか」と聞いたわけです。
 ラーたちの答えは、ここでもシンプルで、「無限は目覚めました」(Infinity became aware)という調子です。
 質問者もコツを飲み込んだらしく、「この後、何がきますか」と的確なものとなります。ようやく質問のスタイルが「合格」したようで、これに対してラーたちは、少していねいに語ります。

 私はラー。目覚めにより、無限の中心(the focus)が無限のエネルギーへと導かれます。あなたがたは、これを、さまざまな振動音複合体として呼んでいますが、あなたがたの耳にもっともよくなじんでいるのは、「ロゴス(Logos)」もしくは「愛(Love)」です。創造者とは無限の中心となるものです。というのも、私たちが、ひとつの目覚め、もしくは、意識の原理と呼ぶことを、あなたがたの言語で「理解すること/学ぶこと」がうまくいくように、知的無限と名づけたからです。([1] session 13, 黒月樹人訳)

 [1] の訳者も、ここの後半のところの訳は、かなり悩まれたようです。参照しながら、私の訳を構成しましたが、これでよいのか、あまり自信がありません。
 質問者の次の質問も「次の段階について述べてもらえますか」というものです。ラーたちにとっては「漫才のあいのて」くらいのものなので、さらにむつかしいところへと進んでゆきます。ここは重要なところです。私なりに翻訳してみます。

 私はラー。次の段階はまだ、あなたがたの幻想における、この空間/時間のつながりとなるところで、あなたがたがそれをあなたがたの幻想の中に見るかもしれないものとして、その変化を継続しているところです。次の段階は、ひとつの無限の反応です。自由意志という、そのさいしょのゆがみ(複数)のひとつの中にある、「一なるものの法則」(the Law of One)に従ったものとしての、創造的な原理に対する反応です。かくして、数における無限の、数えきれない次元(複数)が、可能なものとなります。そのエネルギーは、その知的無限から、まさに最初に、ランダムな創造的な力の流れ出しへと動きます。これはそれから、創造的なパターン(複数)へと動きますが、これは立体的な映像のかたちで現われます。ただし、たとえ、その方向やエネルギーが探求されるとしても、完全な創造となります。エネルギーのこれらのパターン(複数)は、それから、それら自身の場所と、さらに言うなら、リズムとエネルギー場を標準化することを始めます。かくして、複数の次元と複数の宇宙が生み出されるのです。([1] session 13, 黒月樹人訳)

 質問者は「それでは、銀河や惑星系がどのように形成されたのか述べてください」と言います。この質問はかなり飛躍したものらしく、ラーたちは次のように語り始めます。

 私はラー。あなたは、この質問において、これまでの考えから、ずいぶんと隔たったところへと向かうことになります。なぜかというと、最後の質問で、あなたが呼ぶような、物理的な、それ、つまり宇宙(複数)というものは、まだ生まれていなかったからです。
 そのエネルギー群は、知的無限の創造的な原理から現われた、さまざまなエネルギー群の個別化が、創造者と同じレベルで分担できるようになるまで、知的なパターン
(複数)がどんどん増えてゆくように動いたのです。かくして、いわゆる、物理的な物質(physical matter)が始まりました。光の概念は、この思考の大きな飛躍を把握するための、手助けとなるものです。たとえば、無限のこの振動的なゆがみは、その構築物の単位(ビルのレンガのようなもの)であり、物質として知られているものです。その光は知性をもちつつエネルギーにあふれており、かくして、創造的な原理にもとづいて知的無限と呼ばれたものの、さいしょのゆがみとなりました。
 愛のこの光は、ある特性を、その現われにおいてもつように作られましたが、それらの中で、その無限の全体は、矛盾したものとして、みなさんがそれを呼ぶとしたら、直線によって描写されます。この矛盾は、レンズに向かってゆく傾向があって、太陽系や銀河や、回転する惑星
(いずれも複数)を呼ぶときの、さまざまな物理的幻想全体の、形が原因となって生じています。([1] session 13, 黒月樹人訳)

 このあと質問者は、質問を飛躍させてしまったという、自分が犯した誤りについて反省しています。このあとの展開は、少し、このようなやりとりがあったあと、質問者の本質的な問いかけを受けて、ラーたちは、さらに詳しく知的無限についての説明を続けます。この質問者の問いの中心部分は「知的無限が、それ自身から、どのように個別化したのか」ということです。

 私はラー。これは、なかなかよい質問です。
 知的無限はある概念に気がつきました。この概念とは、目覚めることの意志の自由がある、と気づかれたことです。この概念は有限でした。これは「一なるものの法則」の、さいしょで根源的な矛盾、もしくはゆがみ、なのでした。かくして、一つの知的無限が、多くのものに分かれる
(many-ness)という探検へと、自らを投げ込んだのでした。知的無限の、まさに無限の可能性のため、多くのものに分かれることに終わりはありません。その探検は、かくして、永遠なる現在において、無限に続けることができるのです。([1] session 13, 黒月樹人訳)

 質問者の次の質問も、この流れをうまくつかんでいます。

 私たちがいるこの銀河は、その無限の知性によって生み出されたのですか、あるいは、無限の知性のある部分によって生み出されたのですか。([1] session 13, 黒月樹人訳)

 今訳して気がついたのですが、ラーたちが何度も「知的無限」(intelligent infinity)と言っているのに、この順番をとりかえて、「無限の知性」(infinite intelligence)としています。よく考えてみると、これでは意味が変わってしまいます。
 しかし、ラーたちは、このようなことはなんでもないと、言葉の使い方については無視して、この質問に対する答えをしっかりと語ります。

 私はラー。銀河や、あなたがたが気づいたもので、物質としての、すべての他のものは、知的無限の個別化した部分を掛け合わせたものです。それぞれの探検が始まったので、それは、次々に、その中心(focus)を見つけて、創造者の役割をともに担うようになりました。知的無限を使って、それぞれの部分は宇宙を造りました。そして、流れるための自由な選択のリズムを認め、可能性の無限のスペクトルとともに遊ぶことで、おのおのの個別化した部分は、「愛/光」を、あなたがたが知的エネルギーと呼ぶかもしれないものへと注ぎました。かくして、あらゆる個々の宇宙の、自然法則と呼ばれるものが生み出されたのです。
 個々の宇宙は、次々に、ある中心に対して個別化しましたが、その中心というのは、順に、創造者と共に活動するようになって、さらなる密度を許すようなことです。かくして、さらなる知的エネルギーの標準化が行われ、あるいは、みなさんが、ある太陽系と呼ぶであろうものの、振動パターン
(複数)において現われるための自然法則へとつながります。かくして、それぞれの太陽系は、それ自身の、幻想としての自然法則(複数)の、いうなれば、局所座標系を持ちます。任意の部分は、たとえどれだけ小さかろうが、それは任意の密度のものであるか、幻想的なパターンなのですが、立体的な画像として、無限であるところの、その一つの創造者を含んでいるのです。このようにして、すべてが、不思議につつまれて、始まり、そして、終わるのです。([1] session 13, 黒月樹人訳)

 このあと質問者は、前述した質問と同じようなことを質問して、ラーたちに、「質問し直すように」と言われます。
 このようになるのはしかたがないのかもしません。ここでラーたちから語られていることは、たとえ科学者といえども、聞いてすぐに理解できるものではないはずです。ゆっくりと読み込み、英語から日本語へと翻訳するため、これらの表現の奥にある、思考言語コアで記したくなる意味構造のイメージを、なんとか描こうと努力して、ようやく、ここまで記すことができただけです。朝の7時から、夜の7時まで、ときどき気分転換をはさみながら、まるまる12時間を費やして、これだけの分量です。
 セッション13については、日本語の本が出されていますので、訳者の日本語訳を打ち込めば早かったのですが、日本語訳のないセッション27から始めて、これは自分で訳さないと納得できないと判断し、さいごまで「黒月樹人訳」にこだわりました。
 今回はこれらの2つのセッションに語られた「知的無限」についてまとめましたが、実は、まだ読み込んでいないだけで、原文はセッション106まであります。
 しかし、この2つのセッションに語られた「知的無限」の物語からだけでも、他のいろいろな資料からは得られない、貴重な情報を見出すことができます。
 その一つの情報として私が注目したいのは、「それぞれの太陽系や銀河によって、そこでの自然法則が異なるのかもしれない」ということです。このような視点は、私たちの地球で繰り広げられている、物理法則に関する研究が、どこまで普遍的なものであるのかという疑問へとつながります。
 さらに詳しい調査をしてゆく必要があると考えられます。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, April 18, 2016)

 参照資料

[1] ラー文書「一なるものの法則」、ドン・エルキンズ, カーラ・L・ルカート, ジェームズ・マッカーティ(著)、紫上はとる(訳)、ナチュラルスピリット(刊)2008
[2] The Law of One - PDF version

 

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