RaN304 地球人はどこにいるのか
(58)チベットの虹の身体とバシャールのワクワク療法のミッシングリング
Where is the earthian?(58)Missing Ring
between Tibetan RAINBOW BODY and Exciting Therapy by BASHAR

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 はじめに

 このリーフページでは、「チベットの虹の身体」と「バシャールのワクワク療法」とが、科学的な根拠をもってつながっているということを示す「ミッシングリング」が見つかったということについてまとめます。

 チベットの虹の身体

 チベットではゾクチェンという、仏教の始原の教えが広まっているようです。チベット語でゾクチェンは rDzogs-chen と記します。これの直訳は「大いなる完成」だということです。
 ナムカイ・ノルブの「ゾクチェンの教え」[1] によれば、「大いなる完成」とは、「すべての生き物に、すべてのはじまりからそなわっている原初の境地」を示しており、さらに言い換えると、「生きもののあり方から切り離された、超越的なリアリティ」と表現されています。
 でも、このように説明されたからといって、ほとんど無宗教で、生きてゆくための仕事に就いて、その生活を支えてくれる「お金」をかせぐことこそが、この世界で生きる目的だ、と、ほぼ、そのように考えている私たちにとっては、いったいそれが何? と聞き直すことになってしまうことでしょう。
 私も、この世界で、人間たちの勝手な思い込みや、社会のなかのいろいろな「ゆがみ」によって染められてしまった、さまざまな既存の宗教の教えより、それらの「よごれ」がほとんど見られない、ゾクチェンのほうが「まし」かな、などと、高飛車な視線で、これらの宗教のことを、遠巻きに考えていたのでした。
 だから、ゾクチェンの本の中で、修行を重ね、徳を積んで、偉くなったお坊さんが、この人生の最後に、自分が死ぬことを自ら決めて、洞窟や祠のようなところにこもって、何日もかけ、何も食べずに瞑想し続け、やがて、干からびたミイラになるのではなく、中が見えないようにして、外で守っていた弟子たちが、何かが起こり、それが終わったということを知って、その中を探してみると、その高僧の姿はなく、着ていた衣類だけが残っていた、ということが語られていても、これが「虹の身体(RAINBOW BODY)」という現象(あるいは、言い伝え)だとは分かりましたが、へえぇ、そんなことが本当に起こるのだろうか、と考えただけでした。
 でも、チベットで暮らしてきた人々の中には、弟子として、あるいは、ただの民衆として、そのような現象をじっさいに見た人がいるようです。そうでなければ、このような、まるで「魔法」か「おとぎ話」のような出来事を、いったい誰が語り継ぐというのでしょうか。
 「虹の身体」についての言い伝えのようなものは、チベットのゾクチェンに関する資料を調べてゆくと、たくさん確認することができます。ここでは、それらを並べ立てて、どうです、こんなに示されています、とは言わないことにします。
 この「虹の身体」に関することがらは、ほとんど何も語られていないように思えますが、カルロス・カスタネダの本を読んでゆくと、どうやら、彼の師である、ナワールのドン・ファンが、とても健康で活動的なのに、「わしの残された時間はもうあとわずかだから」と言って、カルロス・カスタネダの前から姿を消したという記述がみられます。なぜなのか、よく分かりませんでした。
 ひょっとしたら、ドン・ファンも、自分の死ぬときを決めて、「虹の身体」へと向かおうとしていたのでしょうか。
 肉体の抜け殻を残して、ただ単に死ぬということと、肉体を残さないで「虹の身体」となって、この世界から消えてしまうということに、いったい、どのような違いがあるというのでしょうか。

 バシャールのワクワク療法

 森の図書館から借りてきた、バシャールに関する本のなかに、一冊、私が違和感を覚えたものがあります。とりあえず、最後まで読み進んだのですが、このリーフページのシリーズのために、重要だと思えるところに貼ってきた紙の付箋を、私は、ほとんど貼りつけることができませんでした。
 それは「未来図 Part 2」[2] という本です。
 私にとってこの本は、ダリル・アンカの体を借りたバシャールと、関野あやこという人が、自分たちだけでおしゃべりをして、盛り上がって、馬鹿みたいに騒いでいるとしか感じ取れませんでした。

 ずうっと前のことですが、私が中学校の教師だったころ、この中学校の体験学習という枠組みの中で、全校生徒とともに、その中学校の近くにある市民ホールで、小さな演劇グループによる「ヴェニスの商人」を見たことがありました。そのとき私は、なぜだか、おもいきり笑ったことを覚えています。
 もうひとつ、教師たちの組合が主催した、研修旅行のプログラムの中に、都市の演芸場で漫才を見るというものがありました。それも、おもいきり笑わせてもらいました。
 いずれも、とくにその漫才は同じ人たちによるものを見たことが何度もありましたが、それらをテレビでみたときには、いったい何が面白いのだろうかと思ってしまい、私はほとんど笑わず、ただ見ているだけです。

 中学校の教師をしていたので、ときどき個々の授業を教師たちで学び合うという機会がありました。そのとき、同じ内容の授業をしているにも関わらず、教師によって、生徒の反応が違うということに私は気づきました。
 私が勤めていた中学校では、授業の進め方を、みんなが共通に理解できるスタイルで記録して、誰でも同じ授業ができるようにしようというアイディアで、「モジュール」と呼ばれる、授業のための講義ノートを作ってプールしようと、先輩教師たちの指導のもと、研究活動が進められていました。このときの講義ノートのスタイルは、コンピュータプログラムで、そのころ使われるようになったフローチャートというものです。でも、その研究活動は、ほんの一回だけ行われただけで、あっという間に立ち消えてしまいました。
 そのような、共通して読み込むことができる、フローチャートの講義ノートを作るということが、大変な手間だったことと、実際にそのような講義ノートを見て、同じような授業をしようとしても、まったくうまくいかなかったからです。
 なぜなのか。教育というものは、教師と生徒という、人と人とが、面と向かって、同じ場所で、言葉だけではないものも使って、心の中のことを、ストレートにそのまま伝えるから、うまくいくのです。
 同じシナリオで、同じ発問をしても、生徒たちが「ハイ」と分かって手を挙げる様子が、教師によって大きく異なるのです。
 声が違う? 話し方の違い? 身振り手振りのボディランゲージ?
 いろいろな解釈の仮説が述べられていました。
 でも、私は気がついていました。ああ、そうなのか、と気づいて、知っていたのですが、周りの先生たちには何も言いませんでした。
 周りの先生方は、なぜ私の授業のときだけ、生徒たちが活気づき、賢くなってしまうのか、誰も説明することができなかったのです。
 なぜかということは、私は分かっていました。
 私は生徒たちに、テレパシーで答えを送っていたのです。答えそのものを、イメージに置き換えて、心の中で描いてから、形式的に、生徒たちに問いかけていただけのことです。

 市民ホールで演劇を見るとき、演芸場で漫才を見るとき、やはり彼らは、テレパシーで私たちに何かを送っていたと考えられます。だから、そのようなものが届かないテレビではまったく笑えないのに、人と人とが面と向かっているときには、めちゃくちゃ可笑しくなってしまうのです。

 「未来図 Part 2」[2] という本は、バシャールが憑依したダリル・アンカと、関野あやこという人が行ったワークショップを記録したものだそうです。ぜいたくに、毎ページにカラー画像を入れ、そのときの雰囲気を伝えようとしています。その場にいた人たちは、笑ったり、イエスとか答えたり、大盛り上がりだということが記載されています。
 でも、私は冷めたままです。
 関野あやこさんが、体をぐるぐると巻き付けつける紐のダンスを行い、両手を広げて、仮想の巨石を海へと転がして、ゴロゴロ、ドーボン、なんて、いったい何の意味があるのかと、逆に、苦笑いしてしまいます。きっと、これは、瞑想の一種について指導された記録なのでしょうが、それにしては、関野あやこさんという人が語ることには、その人の実体験のようなものが何も語られておらず、私たちの実生活との接点のようなものが感じられません。
 カルロス・カスタネダの本が、私にとって、とても身近なものに感じられるのは、カルロス・カスタネダという人の、人生の中での物語が、その意味を感じ取れるように、詳しくリアルに語られているからです。

 バシャールの「ワクワク療法」は確かに効果があるようです。
 でも、私には、なぜだかよく分からず、「未来図 Part 2」[2] の中での、関野あやこさんのように、はしゃいで、他の人に語るところには近づけなかったし、近づきたいとも思いませんでした。
 私はきっと、「魂の役割」が学者なので、感じとるという方法より、理解によって知るという方法でないと、うまくいかないのかもしれません。
 私が、なるほど、それは素晴らしいことだ、と納得できたのは、「バシャール×坂本政道」[3] の中で、坂本政道さんの科学的な言い回しによる質問に対して、バシャールがそれに応じて、やはり科学的な回答として答えたからでした。
 バシャールの言葉を引用する前に、ここまでの質疑応答の流れを、ざっと要約します。
 坂本さんは「UFOの飛行原理と、その発電メカニズム」について質問します。
 これに対する、バシャールの詳しい回答の詳細については略しますが、ここでバシャールはUFOの「周波数」や「振動数」ということを語ることとなります。
 そこで坂本さんは、UFOに乗っている人間(や宇宙人)の「周波数」や「振動数」がどうなるのかと問いかけます。
 このようにして、肉体の振動数についての数字をあげての、バシャールによる具体的な説明が始まってゆきます。
 その続きの章である「意識と振動数」の「振動数の違いと人間性、行動パターン」の節のところで、坂本さんの科学的な視点に基づく質問に応えて、バシャールは次のように語っています。

 高い振動数の人はふつう、バランスや自由、選択、誠実さ、責任に関連した信念をもっています。
 つまり、低い振動数の人はいわば悲観的な傾向があり、高い周波数の人は楽観的な傾向があるのです。
 低い周波数の人は、より困難な状況を生み出すような信念をもつ傾向があり、下向きのらせんを描いています。
 一方、高い振動数の人は、ものごとを簡単に楽に創造することができるという信念をもち、上向きのらせんを描いています。([3] p131)

 バシャールが「ワクワク」に関するメカニズムを語った部分も、確かあったと思いますが、ともあれ、初期の「バシャール」本や、「未来図 Part 2」[2] などで、バシャールがせっせとカウンセリングして、瞑想の手順を教え、生き方の視点や考え方を変えるように指導していたのは、ひとえに、私たちの「振動数」を高めることへとつなげたかったからだということが、ここのところの説明で、よく分かりました。

 ミッシングリング

 このあと、「意識と振動数」の章の、これに続く節において、坂本さんの的確な質問に応えるため、バシャールは具体的な数字を挙げて、私たちの肉体がもっている「振動数」と、私たちがとらえている世界の「密度」との関係を説明しています。
 このことの「まとめ」となる、「密度と振動数」というタイトルの一覧表が、[3]のp137に載せられています。
 坂本政道さんとバシャールとの質疑応答の中から、このリーフページで語ろうとしている「ミッシングリング」の情報を取り上げます。
 これはバシャールによる発言です。

 いわゆる物質的な現実と呼ばれている密度の振動数は、現在約6万回/秒から33万3000回/秒まであります。(中略)
 しかし、いわゆる第3密度は、一般的に言って約6万回/秒から約15万回/秒です。
 そして、第3密度から第4密度に至るあいだの移行領域では、約15万から18万回/秒です。
 第4密度の物質的な現実では、約18万から25万回/秒。
 (後略)([3] p135)

 これがなぜ「ミッシングリング」なのかということを少し説明したいと思います。
 もちろん、これは私の仮説ですが、チベットのゾクチェンで伝えられている、高僧がたどりついた境地に得られる「虹の身体」というものは、バシャールが説明する「振動数」が高められたため、それが所属することになる世界の密度が異なる状態へと移ってしまい、もとの第3密度にいる、私たちの仲間である人々には見えなくなってしまったのだと考えられます。
 このあと、ヘミシンクという技術で対外離脱を行っている坂本政道さんが、そのたびに、少しずつ「振動数」を高めているということが説明されています。
 チベットのゾクチェンなどの修行は、これと同じように、その修行者の「振動数」を高めるためのものだったと理解できます。
 ドン・ファンたち呪術師の理解やふるまいも、このことに沿ったものだと解釈できます。
 これが「ミッシングリング」についての、私なりの理解です。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, May 10, 2016)

 参照資料

[1] 「ゾクチェンの教え」チベットが伝承した覚醒の道、ナムカイ・ノルブ(著)、永沢 哲(訳)、地湧社(刊)1994
[2] 「未来図 Part 2」、ダリル・アンカ(バシャール)& 関野あやこ(著)、関野直行 佐藤レイナ(通訳)、VOICE(刊)2010
[3] 「バシャール×坂本政道」、ダリル・アンカ、坂本政道(著)、大空夢湧子(通訳・翻訳)、VOICE(刊)2009

 

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