高速ランニングフォームについてのエピソード(1)

黒月樹人(Kinohito KULOTSUKI)@黒月解析研究所

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 「高速ランニングフォーム」についての、日本における最初の呼び名は「膝をロックしたキック」だったと思います。1991年に東京でおこなわれた世界選手権のとき、日本の研究者たちがチームを組んで、ランナーの動きを観測し、それらのデータを分析しました。その結果の一つとして、世界の一流スプリンターの多くは、キックの局面において、キック脚の膝の角度を大きくしないで、地面を離陸していたことが明らかになったのです。その研究結果は、体育理論の学会誌などで発表されるだけでなく、本となって市販されました。
 東京での世界選手権のときのハイライトは、男子走幅跳におけるカール・ルイスとマイク・パウエルの対決だったかもしません。このときのマイク・パウエルの世界記録は、1968年のメキシコオリンピックでビーモンが出した8m90を破るものでした。当時中学生だった私は、ビーモン選手の画像をテレビのニュースで見ました。砂場の横に立つ審判の頭の高さあたりまでビーモン選手が飛んでいて、しかも、足を前方へ出し、上体をそれにかぶせ、両腕は飛行機の後退翼のように、後ろへと伸ばしていました。人形劇で放映されていたサンダーバード2号のような姿勢だったのです。中学校の砂場で真似ようとしましたが、6mも跳べない状態では、そんなことをやっている余裕はありませんでした。1968年のメキシコオリンピックでは、アメリカの黒人選手が100mで初めて9秒台を出したのでした。たしか、ハインズ選手だったと思います。200mではトミー・スミス選手が、長い脚をしっかりと伸ばし、前方の膝も水平位置まで高く引き出して、20秒を切ったと思います。
 1991年のころの私は陸上競技どころではなく、このころの何年間は全力で走ったこともないという状態でした。地質調査の会社で仕事をしていて、現場作業や研究業務など、いろいろといそがしく、現場作業での力仕事のため、力を静かに出すための筋肉が発達し、体も重くなってゆきました。私は速く走れたわけではありません。十種競技をやっていたので100mも走っていたのですが、近畿選手権などでは、いつもビリでした。ベストタイムは12秒0(手動)、12秒20(電気計時)ていどだったのです。ああ、11秒台で走れたらなあと、いつも思っていました。
 中年になって、体も重くなり、脚の筋肉も弱くなって、すっかり都会人になってしまっていたのでしたが、かつての(陸上競技の指導者としての)ライバルだった人が、かつて私が指導していた中学校のチームを育て、全国駅伝大会で2位という成績を生み出したことに刺激され、しまっておいたランニング用のスパイクを探し出し、陸上競技場へと向かったのです。1995年ごろのことでした。
 東京には比較的安価な使用料で走れる陸上競技場がいくつもあります。そこへとやってくるのは、私のような一般人だけではありません。大学生や高校生たちもやってきて、それぞれにトレーニングしていました。意外に思ったのは、やってくる高校生たちのそばに、大人の指導者がついていないことが多いということでした。話を聞いてみると、先生は試合のときだけやってくるということで、ふだんのトレーニングは自分たちだけでやっているそうです。やがて、そのような高校生からの依頼で、いっしょにトレーニングしながら、いろいろとコーチするようになりました。
 ランニングフォームに関しての、このころの私の意識としては、「スウィング脚を前方でしっかりと伸ばしたほうがよい」ということだったと思います。そして、スウィング脚の膝下部分を、これまでより強く、速く、前方へと投げだす走り方を工夫していました。このほうが速く走れるとか、楽に走れると感じていたのです。このようなフォームを「スウィングキック」と名づけました。やがてこのフォームは、もっとスピードの大きいスプリントランニングには向かないことが分かってきましたが、とりあえず、このころから、スプリントランニングのためのフォームとは、どのようなものかを調べたいと思いだしたのです。
 やがて私はマスターズで十種競技に出ようと思い、棒高跳の練習場所を求めて、かつて大学生だったときの対校戦の相手チームだった大学をたよって、いっしょにトレーニングするようになりました。やがて、いっしょにトレーニングしてゆくうちに、ハードルを教えてくださいとか、走幅跳を教えてくださいと頼まれるようになりました。それからスプリントチームのトレーニング体系を教えることになりましたが、コーチのような立場ではなく、このような考え方でやってゆくという「知識」を教えるだけにしておきました。もっとも、棒高跳を教えることになったときは、ほおっておくと危険なので、コーチのように細かく指導しました。
 このころ私は、本業の地質関係の仕事で、探査法の研究のため、国会図書館へと出向いて、関連論文を調べるということをやっていましたので、休日などの自分の時間のときに、陸上競技の文献を調べるということもやりだしました。このようにして、日本の陸上競技バイオメカニクスの分野でどのようなことが調べられてきているのかということや、ランニングフォームについての認識として、どのようなことが知られているのかということを、こと細かに調べてゆきました。
 このようにして得た知識や、かつて中学生たちを指導していたころに学んだ知識を、ボランティアで指導していた大学生たちや、高校生たちに教えるための小冊子の資料をつくりはじめました。「ランニングスピードの高め方」と「陸上競技の技術」というシリーズ名でした。これらの研究のため、本業でも使っていたコンピュータプログラムの技法を利用して、ランニングフォームのシミュレーションプログラムを組み上げ、さまざまに発展させてゆきました。このときのプログラム言語はF-BASICでした。
 このころ、世界の男子100mでのチャンピオンはモーリス・グリーン選手でした。グリーン選手のフォームとはどのようなものかを調べるため、私は、自分の体を使って、その動きを真似てみることにしました。だいたいの動きが真似られるようになり、スピードも可能なところまであげて走りました。翌日、へそ下の奥にある腹筋が筋肉痛となりました。その日はマスターズの記録会があって、私は棒高跳に参加していたのですが、腹筋が弱っていて、下半身を振りあげることができません。この日は自主的に補助員をしました。たしかに、グリーン選手のフォームを真似ると、へそ下内部の腹筋を酷使するようですが、筋肉痛になったのは一回だけで、それ以後は、いつでも真似られるようになりました。
 その後私は、失業などのため東京を離れ、田舎へと戻って別の仕事につきました。それから何年間かは、田舎での仕事をしながら、東京時代に少し指導していた七種競技の選手の指導を、文通というスタイルで続けました。このような動機づけがあったので、世界の一流スプリンターのランニングフォームの力学的なしくみを理解しようとしてこられたのです。そして、七種競技の選手が「突然速く走れるようになった」ということを手紙で知らせてきました。日本選手権や全日本インカレのときの、その選手のランニングフォームを調べるため、ビデオカメラをもって、深夜バスに乗って、東京へと向かいました。そのとき持っていったノートに、現在「高速ランニングフォームのメカニズム」として公表しているページの原形となるメモが記してありました。インターネットのtreeman9621.comサイトをつくる2年ほど前のことでした。
 (Written by KULOTSUKI Kinohito, Nov 20, 2012)

 

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