高速ランニングフォームのエピソード (71) ジャスティン・ガトリン選手は
スタート1歩目から中間疾走のフォームで走っている

黒月樹人(KULOTSUKI Kinohito @ 9621 ANALYSIS)

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 覆面ランナーの正体はジャスティン・ガトリン選手だった

 テレビの番組で、覆面ランナーと日本のお笑い芸人が100mを対決するというものがありました。その覆面ランナーのデータとして、ウサイン・ボルト選手に勝ったことがあるというコメントがあって、「じゃあ、ヨハン・ブレーク選手かな」と思ったのですが、身長が1m85と表示されたので、「ガトリン選手もボルト選手に勝ったことがあったのか」と思いなおしました。ブレーク選手の身長は1m80です。
 このときの、覆面ランナーの中間疾走以後の走り方は、何度も解析して記憶しているものでした。前後に大きく伸びた足の、ワイドシザースフォームは、なかなか真似ることが出来ないものです。
 何度かリプレイされた画像を見て、覆面ランナー(ジャスティン・ガトリン選手)のスタートダッシュのフォームが、かなり異質なものだということを知りました。
 解説者としての(スタジオゲストの)朝原宣治さんが、ジャスティン・ガトリン選手の隣のレーンで走ったことがあり、その低い姿勢でダッシュするフォームを、(おそらく、のちに)真似て足を怪我したとコメントされていました。

 ガトリン選手のスタートダッシュのフォームは「すり足走法」と呼ばれている

 その番組を見て、ウェブでいろいろと調べてゆくうちに、ジャスティン・ガトリン選手のスタートダッシュのフォームが、足を地面近くで動かす、「すり足走法」と呼ばれているものだと分かりました。
 前回のオリンピックの男子100mでガトリン選手は、ボルト選手とブレーク選手に敗れましたが、スタートからの前半はリードしていたように記憶しています。
 ウェブでチェックして、現代男子スプリント界では、どうやら、ジャスティン・ガトリン選手のスタートダッシュがもっとも速いらしいということを知りました。
 それはいったいなぜかという問いが、直ちに浮かびました。
 ジャスティン・ガトリン選手のスタートダッシュが速いのは、低い姿勢での、足を地面近くで動かす「すり足走法」だからだと、ストレートに考えられます。
 また、スタートの何歩かを少し外側に足を置く「ロケットスタート」の動きも取り入れています。
 問題を混乱させないでほしいのですが、スタートダッシュの何歩か以外の、ガトリン選手のランニングフォームは「すり足走法」ではありません。自然なパターンの高速ランニングフォームと呼べるもので、キックを終えた脚は、自然と跳ね上げられ、膝で折りたたまれて、前方へと運ばれています。「跳ね上げダウンスウィング」もしくは「跳ね上げレベルスウィング」と呼べるものです。
 話をスタートでの走り方に戻して、そこでのガトリン選手の動きは「すり足走法」と呼ばれているものだということなのですが、それが速いスタートダッシュとなっているのはなぜなのでしようか。

 ガトリン選手は「すり足走法」ではなく「自然なクランクキック」で走ろうとしている

 上記の疑問を思い浮かべて、少し時間をおいて私は、ああ、そうだったのか、と、すべての謎が解けて、ひとつの物語となった感覚を覚えました。
 ガトリン選手は、みなさんが「すり足走法」と呼んでいるような動きをして走ろうとしているのではなく、のちに中間疾走として走るときの「自然なクランキック(高速ランニングフォーム)」のメカニズムを利用しようとしているのです。
 ただ、それを、動きの形だけを見て、みんなが「すり足走法」と誤って名づけているだけのことなのです。

 スタートダッシュのフォームと中間疾走のフォームでのスピード変換比の違い

 スターティングブロックから走りだすときのランニングフォームを調べてみると、スタートラインを越えてからの、平地に足をつくものと、力学的にいろいろなことが違っているので、私はそれを0歩と呼んでいます。
 平地に足をついて走るときと違って、0歩の動きでは、キック軸速度dGOと、全スピードdGとが、ほとんど同じになります。これに対して、平地に足をついて走る、1歩目以降では、キック軸速度dGOより、全スピードdGのほうが常に大きくなります。dGをbとおき、dGOをaとおいて、dG/dGOをスピード変換比b/aとして表わしたとき、1歩目以降では、b/aが1より大きな値となるのです。
 このスピード変換比b/aは、何種類かのクランクキックやピストンキックにおいて異なってきます。ピストンキックでは、b/aは、1〜2くらいとなります。デルタクランクキックでは、2〜3くらいとなります。ガンマクランクキックでは4とか5とか6の値となります。ベータクランクキックやアルファクランクキックだと、もっと大きな値となることがあります。ただし、このような値となる半面、b/a=dG/dGOの分母である、キック軸速度dGOが、ベータクランクキックやアルファクランクキックでは、あまり大きな値として利用することができません。
 逆に、ピストンキックやデルタクランクキックでは、大きなキック軸速度dGOを生み出すことができるわけですが、ランナーのジャンプ能力に対応して限界があります。そして、いつも限界ぎりぎりのバネを使ってキックすることはできないし、何回も続けてゆくことができないという現実もあります。

 「後方に蹴る」のか「下方へ押す」のか

 スタートダッシュのフォームとしては、より大きな力を生み出すべきだと考えられ、それは、大きなキック軸速度dGOと結びつくものだから、ピストンキックやデルタクランクキックが対応するものと考えてきました。
 しかし、中間疾走のフォームとして、いつまでも、ピストンキックやデルタクランクキックに頼っていては、スピードの限界を感じることとなります。
 中間疾走としては、キック軸速度dGOにも、スピード変換比b/aにも、あるていどの変化を期待できて、それらの組み合わせによって、大きな全スピードが得られるガンマクランクキックやベータクランクキックで走るべきだと考えられます。
 ただし、ガンマクランクキックやベータクランクキックにも、形だけなぞっていてもスピードが出ないものから、うまく条件が満たされてスピードが出るものまで、いろいろなものがあるということも考慮しておく必要があります。
 これまで、スタートダッシュでは、後ろへ蹴ることにより、その反作用で、前方への加速力が生じ、スピードが大きくなってゆくと考えられてきました。
 物理学の視点からは、確かに、そうなのですが、ランニングフォームの力学としての、人間工学のような視点から考えると、「後ろへ蹴る」というメカニズム以外にも、「地面に固定されたスパイク面を支えとして前方へと進む」というメカニズムがあるのです。
 アルファクランクキックとベータクランクキックのメカニズムは、「地面に固定されたスパイク面を支えとして前方へと進む」というものになっているようです。
 デルタクランクキックとピストンキックのメカニズムは、「後ろに蹴る」というものでしょう。
 ガンマクランクキックのメカニズムは、ちょうどこれらの混合タイプであると見なせます。
 キック脚で「後方に蹴る」のではなく、「下方へ押す」という意識で走るのが、(αからγまでの)高速ランニングフォームにおける、重要なポイントですが、このとき、複雑なメカニズムが作用して、「地面に固定されたスパイク面を支えとして前方へと進む」という動きが生じます。
 ランニング中に「後方に蹴る」という意識が強くなるとピストンキックへと向かい、「下方を押す」という意識が強くなるとアルファクランクキックへと向かうことになるわけです。それらのちょうど中間状態を意識することにより、ガンマクランクキックとなります。

 (後ろへ蹴るという意識での)スタートダッシュは何歩まで?

 スターティングブロックを使っての、クラウチングスタートで走りだすと、後方へ蹴って、その反作用を受けてスピードを上げてゆくという走り方になります。
 ときどき、このような走り方のまま、100mのゴールまで走ってしまうランナーがいます。しかし、たいていは、途中で走り方を変えて、「下方を押す」という意識を組みこんだフォームで走るランナーに追い越されてゆくものです。
 それでは、スタートダッシュとして「後方に蹴る」意識で走るのと、中間疾走として「下方へ押す」意識で走るのとの、切り替えをどのあたりで行えばよいのでしょうか。
 スタートからのランニングスピードの変化を調べてみると、(スタートラインを越えてからの)4歩目あたりで、トップスピードレベルの、およそ8割程度のスピードが得られています。
 このことから私は「スタートダッシュで後方を蹴るのは4歩目まで」と指導することにしたのでした。
 ある選手に、このように指導したあと、100mレースでのランニングスピードの変化を調べてみると、わずか2歩目のところで、トップスピードレベルの8割程度のスピードに達していました。そこで、この選手にたいしては、「スタートダッシュで後方を蹴るのは2歩目まで」と言い直すこととなりました。
 「2歩目まで」なのか「4歩目まで」なのかは、スタート技術の違いなのでしょうが、とにかく、スタートから何歩目かまでは、「後方へと蹴る」意識で走るべきだと、ずうっと私は考えてきたわけです。

 ガトリン選手のスタート1歩目は「下方を押して前方へと進む」走り方

 ここで、ガトリン選手のスタートダッシュに戻ります。
 ガトリン選手のスタートダッシュのフォームについて、画像解析を行って、具体的にどのようなフォーム分類となるのかを調べたいところですが、ウェブを調べたところ、ガトリン選手のスタートダッシュを真横から撮影した画像は見つかりませんでした。
 斜め前方から撮影された画像を目視で観察すると、ガトリン選手は、左右にやや足を踏み出す「ロケットスタート」を行いながら、キック脚の膝の角度をあまり大きくしないで、膝の角度をほぼ固定してダッシュを続けています。
 このようなキック脚の使い方では、ピストンキックとはなりません。
 キック脚の膝の角度や、地面のとらえかたから、おそらく、かなり中腰のガンマクランクキックか、さらに中腰となるイプシロンクランクキックになっていると推定されます。
 具体的にどのようなフォーム分類となるかは、真横からの画像を調べてみないと分かりませんが、このような走り方は、キック脚で「後方へ蹴る」というものではなく、「地面に固定されたスパイク面を支えとして前方へと進む」というものです。
 このことを言い換えると、「ガトリン選手はスタート1歩目から中間疾走のフォームで走っている」ということになるわけです。
 「(後ろへ蹴るという意識での)スタートダッシュは何歩まで?」という問題に対して、これまで私は「(おおよそ)4歩まで」と考えてきました。
 ところが、ガトリン選手の場合、「(後ろへ蹴るという意識での)スタートダッシュ」は1歩も行っておらず、スタートラインを越える1歩目から「地面に固定されたスパイク面を支えとして前方へと進む」というものということになります。
 これはとても合理的な方法です。

 多くのランナーがスタートの初めに生み出しているピストンキックやデルタクランクキックは、キック軸速度dGOを全重心水平速度dGへと変換する、スピード変換比b/a(=dG/dGO)が小さなものです。
 ところが、ガトリン選手が使おうとしている、(おそらく)ガンマクランクキックやイプシロンクランクキックでのスピード変換比b/aは、かなり大きなものなので、キック軸速度dGOが小さめであっても、全重心水平速度dGを大きくする可能性があるのです。
 ここのところの、「スピード変換比b/a」と「キック軸速度dGO」との関係は、ランニングフォームの分類によって、いろいろと変わるのですが、ピストンキックやデルタクランクキックでは、ほぼ予想できる範囲で変化するのに対して、ガンマクランクキックやイプシロンクランクキックでは、とくに「スピード変換比b/a」のほうが、予想できない範囲の変化を見せることがあるわけです。
 おそらく、このような現象は、スピードのためのエンジンと呼んでいる、@キック脚の膝のバネ、Aキック足首のバネ、Bスウィング脚重心の動き、という3つの要素が、うまく組み合わさるかどうかで、違いが生じて現れるのだと考えられます。
 もうひとつ、たいせつなこととして、「ランナーの身体的な条件が、このようなフォームの選択に対して、うまく満たされている」ということも考えておく必要があります。ランナーの筋力や神経のコンビネーションが、ピストンキックやデルタクランクキックでのスタートダッシュにうまく調整されているとき、新たに行おうとする、ガンマクランクキックやイプシロンクランクキックでのスタートダッシュでは、それほどうまくスピードが高まってゆかないということもあるわけです。これらのことは、トレーニングの段階で見極めてゆくべきことです。

 もうひとつ、ガトリン選手のように、スタートの1歩目から中間疾走でのランニングフォームで走ろうとするときの利点として、途中での切り替えがスムーズなものとなるだろうということがあります。
 これまで何人かのランナーについてスタートダッシュから中間疾走へのランニングフォームの変化を調べてきましたが、たいていのランナーは、「スタートダッシュ」と「中間疾走」の間で、ランニングフォームについての意識の切り替えを行っていると思われる、「つなぎ」の何歩かが観察され、そこではスピードが低下しているのです。ここのところの「スピードの低下」が無くなれば、(そのようにやっているはずの)他の選手に対して、少し先んじることができるはずです。

 ガトリン選手がスタートダッシュで優勢な位置に出ているのは、このような、(A) スピード変換比の大きなランニングフォームの選択、(B) 走り方の意識の変換にともなう「つなぎ」でのスピード低下の省略、という2つの利点が生かされているからかもしれません。
 これはまだ、しっかりとした観測データに裏付けられていませんから、単なる仮説の段階ですが、このような理由があると考えられるので、取り組んでみる価値はあると思います。
 (Written by KLOTSUKI Kinohito, Jun. 7, 2014)

 

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