黒月樹人のタバスコキメラミーム「論理の夢遊病」
Tabasco Chimera Meam of KINOHITO KULOTSUKI as ”Logical Sleepwalking”
黒月樹人 (KINOHITO KULOTSUKI, treeman9621.com)



 私の作品は、少しユニークな、どこにもないような単語が生まれてから始まることが多い。実は、これに一つ先立つ「黒月樹人の植生図」というエッセイも、この単語の組み合わせが決まったことによって生まれた。「樹人」と「植生」がメタフォアでつながっている。このエッセイの中で、植物の病気を生み出す「タバコモザイクウィルス」からの連想で、この、「タバスコキメラミーム」という言葉が生まれた。お分かりかな。「ミーム」という言葉は、文化の世界に繁殖するウィルスである。「キメラ」と「モザイク」は、イメージとして、よく似ている。要するに、半分「ダジャレ」で、半分「メタフォア」なのである。少し遊んで、少し気取って。こんな気分が、ちょうどよいのかもしれない。

最近、村の図書館で、「人間みな病気」というタイトルのアンソロジー (anthology) を見つけて借り出した。まだ読み始めたばかりで、あまり、これについてコメントすることも特にないのだが、このタイトルには、ちょっと惹かれる。私も、もちろん病気である。どちらかというと、肉体のほうではなく、精神とか心のほうの。でも、今はバランスもとれていて、そんなにおかしくないと思う。

「人間みな病気」というタイトルは、ひかえめにつけられているような気がする。本当のことを言うとしたら、「人間みな夢遊病」とか「人類みな病気」とか、そこまで主張しても、そんなに間違っていないはずだ。この世界にはびこる、いろいろな病根の、あまり暗いことがらへと進みたくないので、少し抽象化して語ることにするが、こっちが「病気」になってしまったとき、本当は、「正常」だと信じているものたちのほうが、何も知らないだけで、おかしくなっているのではないか、と考えることが、よくある。これが私の「病気」の症状だと言われてしまえば、それまでのことである。でも、どちらのほうが間違っているのかということを、この「世界」での基準だけで決めてしまってもよいのだろうか。

 この世界で「正しい」と思われていることの中には、ほんとうは「幻」のように、はかなくて、無意味なものがあって、これとは反対に、この世界で「幻」だと思われていることの中に、ほんとうは「正しい」ものがあるのかもしれない、というのが、私のホームページにある、「キメラミーム」の骨子のテーマである。しかし、そのようなことを、ただ、言葉だけで主張したとしても、シベリアに生き残っているというオオカミの遠吠えにも及ばない。そこで、私は考えた。これは、きちんと資料を集めて、この世界の論理にのっとり、その問題点のありかを、詳しく説明してみようと。

 このような試みが、私の「病気」を快方へと向かわせ、いろいろな意味で、私は良いほうへと変化している、と思っている。そして、このような試みを補助するため、以前発案したものの、途中で置いてあった、「思考言語のアイディア」とか「思考言語コア」と呼んでいるテーマを、並行して発展させるようになった。たとえ私に、この世界の基準に沿って、「成功」なり「進化」なり、何らかの評価に結びつくようなことがおこらなくても、このテーマで研究している、思考のための補助的な道具としての、新しい言語システムというものを、この世界のあちこちに、苗づけることができたら、それで私の、この人生における意味を見出すことができる。これは、もう一つの、私にとっての「救い」でもある。

 以前は、あまり「一般的な問題」を見つけることができなかった。私の周囲に浮遊している、「個人的な問題」の幻を、思念と意志の力で、消してゆくということに追われてしまっていたからだ。だが、いつしか、そんなものも、あきらめて、私の周囲から逃げていってしまった。すると、「何も問題がない」ということが、私の「新たな問題」になった。しかし、私は、やはり迷って、それを見つける方法を間違ってしまい、いわゆる「仕事」を探して、それに浸されるようになってしまった。ところが、そのようなパターンは、これまでに何度も繰り返してきたではないか、ということに気がつくようになって、そして、別のパターンとしての、より「一般的な問題」を見ることができるようになってきたのだと、私は思う。

 このページの、この文章も、実は、何らかの作品のための、「まえがき」ではないかと、ふと思ってしまうのだが、それは、このような抽象的な表現のためなのだろう。なかなか、このスタイルから抜け出すことができない。もう少し具体的なことがらへと、今覗いている「万華鏡」の向きを変えてみよう。

 私が見つけ出した「一般的な問題」というものの中に、「アインシュタインの特殊相対性理論」というものがある。これに関しては、古くから賛否両論がある。これについての科学史の論文でも書けそうなくらい、資料はあちこちに眠っている。日本でブームになったのは、今から10年ほど前のことであろうか。これに対する反論を集めた本が、次々と出版されていた。ところが、それを図書館で探してみると、すでに、その大半は地下の書庫にしまわれていて、展示ロビーの書棚には、支持派の本しか並んでいない。それで、過去の反論本を借り出して目を通してみたが、10年前に感じたような強い説得力のあるものは見当たらなかった。内容が難しいこともあるが、この問題の奥深さを暗示しているようでもある。これらの本や、インターネットで調べた反論側と支持側の、それぞれのページを検索して読み込んでみたが、互いに「水」を掛け合っているだけで、「槍」とか「剣」のようなものは感じ取れなかった。「手掛かり」は見つかっているものの、その「問題」のありかを説明する、「証拠」のようなものが不足しているし、これらに基づいて「論証」するところに、論理的ではない表現が、いろいろと組み込まれていて、これらの争点をあいまいなものにしてしまっているのだ。と、まあ、これはあくまで、私の感想である。このような感想を述べるだけなら、私も「水」のかけっこという、お祭りや遊びの仲間入りをするだけなので、もう少し、具体的な例をあげて、私なりの「槍」を突きかざしてみよう。

 「アインシュタインの特殊相対性理論」を支持する側の論理に、次のようなものがある。できるだけ具体的に表してみよう。たとえば、こうである。

 「GPSに装備されている原子時計は、地上高くの宇宙空間にある軌道上で、GPS衛星と、ともに周回しているので、相対性理論の時間の遅れや進みの影響を受ける。これを補正しないでおくと、時間のずれがGPSの位置決定の精度に影響を及ぼし、距離におけるずれは一日につき10km以上にもなる。このことを解決するために、特殊相対性理論による予測値と一般相対性理論による予測値を計算して、それらの結果としての値を差し引きしたものでGPSの時計は補正されている。このことが、相対性理論が正しいということの実例になっている。」

 私がふと気づいたのは、まず、「特殊相対性理論の予測値と一般相対性理論の予測値を同時に一つの対象に対して適用することはできないのではないか」ということである。これについての資料を集めて詳しく論証するため、支持側の英文による論文やエッセイをいくつか日本語へと翻訳して、それを読み込んだ。インターネットの世界では、機械 (コンピュータ) 翻訳の文章などで誤解するのか、あるいは、単語の意味を取り違えてしまうのか、それとも、ほとんど読まずに目につく単語だけを拾うのか、何らかの誤解による反論などのサイトがあふれている。このようなことを避けるため、英語力が不足している私は、簡単な内容として直接英語のまま読めるものを除き、できれば、このように、きちんと単語を調べて、誤解や矛盾の入り込んでいないものを生み出してから、それについて考察しようと心がけている。このおかげで、最近は、英語力がついてきて、ある程度の内容だったら、そのまま読んでゆくことができるようになってきた。この問題についての、支持側の考えの要点を把握して、そこに潜んでいるかもしれない誤解や思い込みを見つけることに集中する。そして、特殊相対性理論と一般相対性理論の関係を調べてゆくと、やはり、あちこちで、「一般相対性理論は、その理論の中に特殊相対性理論を含んでいる」とされている。これと「GPSの補正で、特殊相対性理論の予測値と一般相対性理論の予測値の差し引きした値を利用している」ということが矛盾していることに、この「証拠」を信じている人々が気づいていないようだと分かってきた。これについての詳細な説明は、私のホームページにある、それらのページで確認してほしい。ここでは、あらすじだけを述べてゆきたい。このような調査もしくは捜査の一貫として、GPSの時計の補正を、特殊相対性理論のことは全く触れないで、一般相対性理論から出てくるシュヴァルトシルト計量という式を用いた説明が載っている本に沿って、自ら計算の過程をたどってゆくと、「GPSの原子時計のずれを、距離に換算した値は一日につき10km以上となる」という主張が誤っているのではないかということが分かってきた。一つずつステップを踏んで計算してゆくと、距離における、ずれの換算値は、一日につき、わずか3cmに過ぎないものだった。

 これらの私の結論が、ほんとうに正しいものであって、この世界で生き延びてゆくものであれば、「アインシュタインの特殊相対性理論が正しいという証拠として、GPSの時計の補正があげられる」という「楯」は、消え去ってしまうだろう。

 「アインシュタインの特殊相対性理論」を支持する側の論理に、「現在の特殊相対性理論の内容は、アインシュタインのものとは、表現が異なってきているが、これらは、後に検証された証拠に基づくものである」というものがある。これは、おそらく、アインシュタインが仮定した「光速度不変の原理」のことであろう。世界的に有名な、現代の理論物理学者である、ミチオ・カクやリサ・ランドールも、この原理のことを、次のように表現している。「光の速度はすべての慣性系で一定である」(ミチオ・カク) と「光の速さ(c) はどの慣性系においても等しい」(リサ・ランドール) である。これらの表現において、微妙な差異はあるが、内容については、ほぼ同じものである。少し歴史をさかのぼって、「相対性理論」という古典的な解説書を書いているW. パウリは、この原理について「真空中で光の速さが常に一定の値 c となるのはただガリレイ系を基準にした場合に限る」と説明している。

ところが、アインシュタインが、特殊相対性理論の原論文で書き下した、この原理の定義は、これらとは明らかに違う。このようなものだ。「光は座標の定常系をいつも一定の速さ c で伝わる。この光が定常の物体または運動物体から発しても同じである。」

いったい何が違うかというと、「慣性系」ではなく、「定常系」という用語を使っていること。そして、光が発せられる物体の運動状況についての補足説明が、この定義には組み合わさっていることである。「慣性系」というのは、「定常系 (静止系と訳してもよい)」と「運動系」を、ともに含んで表す言葉である。つまり、「慣性系」には「運動系」も含まれるのだ。これでは明らかに違うことになる。この定義では、光速度を測定するための「参照系」が「定常系」であると、はっきり書かれている。W. パウリは、この点についてだけは、理解してしたかもしれないが、ミチオ・カクやリサ・ランドールでは、「慣性系」という単語へと抽象化されてしまい、参照系のことが、はっきりしないものになっている。なぜ、このようなったのかということの推理はついている。おそらく、アインシュタインが導こうとした結果が、定義と置き換わってしまったのだ。

アインシュタインの定義には、補足説明に見えている部分で、光が発せられる物体の運動状況のことが述べられている。このことは、運動している物体が持っている速度 v と、光速度 c の関係を、暗に規定している。つまり、c + v という値は仮定できず、通常の粒子や物体で成立する、このような公式を使用しないものと仮定すると、表現しているのだ。このことは、光速度を測定する参照系の問題とは別の問題であり、簡単に切り捨てたり、何かに含んで、表の表現から消し去ったりできるものではない。

これらの表現の相違は、たとえ、どのような「証拠」があっても容認されうるものではないと思う。アインシュタインの「物理法則の相対性原理」と「光速度不変の原理」という二つの仮定は、アインシュタインの試みが、それ以前の、ポアンカレやローレンツなどの研究と異なる、重要な要素なのである。これは、やはり、問題の一つであろう。

ここのところの問題を、さらにはっきり説明して論じるためには、このことに関係した資料を、まだ、いくつか読み込む必要がある。実は、このような、アインシュタイン支持側の主張には、まだまだ多くの問題点があって、それを論駁するのは興味深い試みである。思った以上に、この世界の人々の (論理や思考における)「夢遊病」は広がっていそうだ。しかも、この世界を研究している科学者を含めた、多くの人々が自覚症状を持っていない。その点で、私は有利な位置にいる。これまでの経験が生きていて、いろいろな自覚症状に気づくことができるようになっている。もちろん、それらも、単なる「夢の中のこと」かもしれないけれど。

さて、このページの文章量も増えてきたこともあり、資料を翻訳して分析する時間も必要なので、ここで、とりあえず、キーボードを打つ手を休めよう。「黒月樹人のタバスコキメラミーム」は、まだまだ「つづく」ということにして。 (2008.08.22)