黒月樹人のタバスコキメラミーム2「迷路の地図」
Tabasco Chimera Meam of KINOHITO KULOTSUKI as ”Map of Maze”
黒月樹人 (KINOHITO KULOTSUKI, treeman9621.com)

  謎が解けだしてきて、少しほっとしてきた。謎というのは、「アインシュタインの特殊相対性理論」のことだ。もう少し補足して言うと、「アインシュタインの特殊相対性理論は、明らかに論理的な誤りによって、重要なプロセスが構成されていて、その内容を説明しているにもかかわらず、それが受け入れられることなく、アインシュタインの特殊相対性理論が相変わらず生き延びているということ」である。

 この謎は、かなり複雑なものだった。ことはアインシュタインだけの問題ではなかった。それ以前の、ローレンツやポアンカレの研究まで見直す必要があった。アインシュタインが知性的な意味での「巨人」だと、よく言われるが、私の視点からは、ローレンツやポアンカレのほうが、はるかに「巨人」であるかに見える。アインシュタインはまるで風船でできた巨人のように感じられる。いろいろと調べてゆくと、こと特殊相対性理論に関しては、ほとんどアインシュタインは独自の発見をしていないことが分かる。ローレンツやポアンカレの相対性制理論を「横取りした」という内容の本まで出版されているが、この意味がよく分かるようになってきた。

 ローレンツの研究と、それを裏づけたり評価したりしてきたポアンカレの研究は、数学的に整合した論理で武装されており、これらを敵に回すという選択は、精神的には「命がけ」のようなものだ。しかし、その「命」については、たとえば学会とか科学界という世界での地位や名誉という「現世のプラーナ」を賭けたものであろうが、幸いにも (あるいは不幸にも) 私には、そのようなものは既に失っていて、ほとんど、これ以上失うものは何もないという状態だ。それでも、このような試みにエネルギーを注ぐのはなぜか。

 本能とか習性のようなものかもしれない。本質的に私は、これまで誰も気づかなかったことに気づくということのためだけに、これまでも生きてきたようなものだった。時間と才能を浪費して、イラストを描いたり、版画を彫ったり、力学に基づいたコンピュータシミュレーションでランニングフォームを調べたりと、多彩な活動に狂ってきた。ただ、それらの幾つかについては、やっているうちに、どこかいつかの、べつの時空とかで、何度か繰り返しているような気がして、いつのまにか、一つの分野で技や手法を磨き上げるということには熱が入らなくなってくるのだ。こんな問題は易しすぎる。そう思うのは強がりで、これを続けていても、きっとめぼしい成果は得られないだろうと見ると、さっさと方向転換してしまうのだ。悲しいかな、このような性 (さが) のため、私には何も持てるものがない。

 でも、今やっていることは、ある意味で、これまでの芸術作品のまねごとや、科学分野での研究を上回る、より重要な意味をもつ「作品」になるかもしれないと、最近、時々思えるようになってきた。

 ところが、「アインシュタインの特殊相対性理論」のことを研究するということを、いろいろな立場や見識の人間が、「疑似科学」というレッテルで非難していることがある。「アインシュタインの特殊相対性理論」を「餌食にしている」と、まるで私がハイエナかコンドルか、あるいはエボラ熱かエイズのウィルスであるかのように言っている。直接、そのように非難されたことはないけれども。

 しかし、私は既に「アインシュタインの特殊相対性理論」だけでなく、「ローレンツやポアンカレの研究」にまで食指を伸ばしているのだ。少し発病ぎみかもしれない。でも、調べてゆけば、どんどん、これまでの科学者たちが迷い込んでいった「迷路」の地図が見えてくる。この地図を完成して公開するというのは、はたして無意味なことだろうか。

 私のホームページにある、いろいろなページの中には、「科学以前」とか「科学未満」のようなものがあるのは承知している。それらは単なる、仮想のSF小説のための資料集めのつもりだった。それがいつのまにか、下手なSF小説なんか書いている暇はないぞと思ってしまう。どんどん研究すべき謎が現れてくる。読むべき論文が見つかってゆく。あれもこれもインターネットのおかげだ。大都市で、大きな図書館や何階もある書店へと資料を探しにゆく時間も費用もいらなくなってきた。必要なのは、静謐な時間と、ねばり強い集中力か。それらも無限に続くわけではない。大切なものと、そうでないものを、きちんと見分けながら、貴重な時間と生のエネルギーを使ってゆかねば。(2008.08.25)