思考言語コアの設計思想
思考言語のアイディア(3) 黒月樹人 KINOHITO KULOTSUKI 2003_09_28

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(1)この思考言語の名前

 これまで、一般的に「思考言語」と書いてきたが、「思考言語」の全てを代表するわけではないので、上記の文法によって用いる「思考言語」については「コア(核)」という名前をつけることにする。

「思考言語コア」である。

10年前には「高次元思考言語」という表現も用いていたが、このときの「高次元」に対応する用法がすたれていったので、この名前は、ふさわしくない。

「思考言語コア」によって表そうとするのは、冗舌に語られてあるものに潜んでいる、「中心核」のようなものである。樹木における「幹」のようなものと考えてもよい。動物でたとえれば「骨組み」ということになろうか。

 

(2)思考言語コアの特徴

 ロコスのように、新しい絵ことばを組み上げるのは楽しい作業である。

中国の甲骨文字などから漢字が生まれていったり、シュメールで楔形文字が様式化されていったり、エジプトのヒエログリフが変化していったり、あるいは、マヤ文字の装飾的な顔や手足のデザインが少しずつ違っていることなどを見ると、これらの時代に人々が少しずつ文字を改良していったときの気持ちが理解できる気がする。

文字を新しくデザインするのは、暗号遊びのような面白さがある。また、うまい表現を見つけたときは、役に立つ道具をひとつ作り上げたようにも思えてくる。

みんなが知っているものを使うということではなく、みんなが知らないものを使うことができるという優越感もある。

あるいは、しだいに文字が広まってゆくと、このことによって、いろいろな知識が広まり、生活様式が変わり、社会そのものが発展してゆくことが分かってくることだろう。それもまた、感動を呼ぶはずである。

だから、自然と、人類は何種類もの言葉と記号を生み出してゆくのである。バベルの塔が神の怒りにふれなくとも。

 しかし、これが最初の落とし穴なのだ。ここから抜け出すために、これから述べるようなことを意図してコアをデザインしてきた。つまり、これから述べることは「思考言語コア」の設計思想のようなものである。

 @文法や記号の節約 

新しいアルファベットを作るだけなら、ロシア語の文字や韓国語の文字のように、あるいは世界中の言語で使われている文字のように、ある特徴をもったデザインでまとめることができる。

しかし、新しい単語や新しい漢字となると、とても、現存する言語には、かなわない。

だから、思考言語コアでは新しく規定する記号の数を、できるだけ少なくしようとした。

また、ワープロの機能が変化してきたこともあり、コンピュータで使っているワープロソフトのワードでは外字が使いにくくなっており、絵ことばのようなデザインの記号を使うことをあきらめざるをえなくなってきた。

そこで、思考言語コアで用いる特殊な補助記号としては、キーボードを叩いて呼び出しやすいものを優先的に使うことにした。

 A思考のための言語

 これまでに使われている言語は、話し言葉であり、書き言葉であり、ここでも使っているように、思考のための言葉でもある。

これらの機能をすべて変更しようとすると無理がでる。これまでの言語と争わなくてはならない。空しい努力だ。

しかし、何かの機能にしぼってみると、生き残る余地が生まれる。

たとえば、話し言葉でもないのだが、それと同じような機能を代行する、身振り言葉の手話というものがある。それは、すでに言語の一種として認められている。

思考言語コアでは、もっぱら思考のための言語という機能を追い求めることにした。

イメージでの思考を助けるため、(空であっても)書くことは落とせないけれど、話すことは忘れてしまえる。コアでは発音することを最初から追い求めないことにしたのである。

 Bイメージの構造化

 文の主要な要素を「対象語」と「関係語」に分類して、イメージに対応した観点を選ぶようにした。

また、これらの文と文を「接続語」でつなぐようにして、イメージの樹木を組み上げることができるようにした。

英語の指示代名詞でもあり関係代名詞でもあるthatの用法で使うことのできる ◇(そのこと)という記号で、イメージの樹木構造をつくることができるようにも工夫した。

 C記述する要素の簡略化

 わたしは陸上競技のランニングフォームを研究している。

短距離選手の効果的なフォームがあって、キックする脚の、膝から下の筋肉(ふくらはぎ)と膝から上の筋肉(太ももの裏側と臀筋)が、膝を少し曲げた状態で、同時に大きな力を生み出して加速するというものである。

このような方法を「クランクキック」と呼ぶことにした。

こうして名づけたランニングフォームの特徴をさらに詳しく調べてゆくことになる。

このように、幾つかの概念をまとめたことがらに、何らかの名前を付けるということは、思考を発展させようというときに有効なことである。

しかし、分かりやすくて、簡単で、他のものとの違いを表すような、ぴったりの言葉を生み出すことができると良いのであるが、なかなかうまい言葉が見つからないことがある。

本格的な研究なら、このような造語は意味もあるが、既存の思考過程を理解するために、特別な専門用語を勝手に作ったところで、理解し終えたならば忘れてしまうだけなら、思考のエネルギーのようなものを浪費していることになろう。

このようなときに、その場かぎりの造語として使えるものを持っておくべきだと考えた。

これが *a などの記号に意味を定義して使うということである。

数学で使う「変数x」や「定数a」のように、変化することば「*」や定まっていることば「*a」を定義して使おうというわけである。

実は、このような考え方は、コンピュータ言語で用いられていることであり、そこからの類推で、このような手法手を導入することにしたのである。

 D比較するものの形態上の識別

 操作的な思考を表現するものにフローチャートというものがある。

コンピュータのプログラムを作る前に、データの入力や計算や出力といった、色々な操作手順を並べてゆくために工夫された図である。

計算などでは、確か □ の枠の中に手順を書くが、操作が分岐するところでは ◇ が使われる。

これらの操作が「線」あるいは「矢印」で結ばれて、全体の思考の流れが表される。

これはなかなか便利な道具なのであるが、対象となる操作を □ などの枠で囲むという処理は、対象を識別しやすくするものの、一般的な思考に対して適用しようとすると、枠をたくさん書かなければならないので、煩雑になってしまう。

そこで、思考言語コアでは、「対象語」と「関係語」の形態が異なって見えるような工夫をすることにした。「対象語」はできるだけ塊に見えるようにし、「関係語」はできるだけ線状に見えるようにしたのである。

「人(優,美)」のように、対象語をできるだけまとめる。

また、「――渡>」や「―<好>―」のように、関係語には尾とくちばしをつけて、少し細長くしてある。尾をのばして、遠いところから引っ張ってくることもできる。

このような工夫をすることにより、フローチャートのような構造の図式を描くことも出来るようにしたのである。

 世界中の自然言語を表す文字記号の表現様式は、いつのまにか壁紙化してきたようだ。アルファベットによる表現方法が普及したことも影響していよう。ある一つの言語に限ってみると、言語記号(文字)のデザインは良く統一されている。この呪縛から抜け出そうとしているのは、漢字やひらがなやカタカナさらにローマ字なども組み込んでいる日本語くらいのものである。それでも、日本語も自然言語の一種なので、話し言葉の影響を強く受けて、線状に連なってゆき、濃淡が少しあるだけの壁紙に見えてしまう。

 「対象語」をコンパクトな中国語で書いて、「関係語」の意味部分を細長い単語の英語などで書いて、「状況語」などは、これらとも異なるパターンの、アラビア語とかペルシャ語で書いて、それで理解できるのだったら、これらの言語記号のパターンで、「対象語」や「関係語」や「状況語」といったもので構成されている、思考の構造をつかみやすくなるのだけれど、まあ、このようなことは夢のなかでのこと。

 

(3)記号論理学や数理論理学

 ウンベルト・エーコなどが述べている言語哲学とは別の方向に向かっているのが、数学における、記号論理学や数理論理学であろう。

抽象化が進み、数学的な論証を明確にするための研究が発展している。直感主義論理や様相論理という分野が生み出されて、これまでの数学が扱っていたもの(古典論理)とは少し異なる視点で、人間の思考が調べられるようになってきた。これらについて学んでみると、いずれもどんどんと幹を伸ばし枝葉をつけて、豊かな内容を生み出していることがうかがえる。

しかし、どうして、こんなに何もかも抽象化してしまうのだろう。見出された定理や法則のようなものには、いったいどのような意味があるのだろう。このようなことを感じてしまう。数学の分野で研究されているものであるから、しかたがないのかもしれない。

 ところで、言語哲学者たちと数理論理学者たちは、別々の方向に向いて、どんどん走っているので、普通の人間が考えている(レベルの)ことなぞ見向きもしない。

 かつて、これらの考えについて研究した人がいる。エドワード・デボノである。「水平思考」というアイディアが有名だが、わたしの心に引っかかっているのは、普通の人が考えることの「誤り」や「正しさ」をパターン分類したことである。これは日常の会議などで役に立つ。議論相手の論証の誤りどころが指摘できるからだ。自分が主張するときには、正しさのパターンを知り抜いて思考を組み立てておかなければならない。最近、これに関連する資料をあまり見受けない。デボノの研究はどこに向かったのだろうか。誰か、これらのことを継承し発展させている人はいないのだろうか。

 わたしのやろうとしていることは、これらの研究とは異なる。もっと下にあるものだとも考えられる。複雑で高度な思考の、骨組みを調べるための、基礎となる技法ということになるのだろう。でも、そのようなものが、今までは無かったような気がするのである。まるで、自分たちで掘った落とし穴に、みんなが知らずに、はまってしまっているかのように。

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