c03 私のうつ病は何故だか いつも6ヶ月で治る

田中 毅(TANAKA Takeshi @ 9621 ANALYSIS)

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 教師を辞めたその日

 この人生でさいしょのうつ病は、さいしょの躁病の直後に起りました。
 さいしょの躁病は、教師だったとき、自分が行ったことが逆恨みされて、それについての真偽をはっきりさせるため、その対象者と対立したことにより、起こりました。かなり抽象的な表現となってしまいます。そして、教師を辞めてしまったのですが、今でも、その本当の理由については、どのように抽象化しても語ることは出来ません。
 まあ、きょくたんに単純化してしまえば、どこにでもある問題について、どうしても解決できないということが壁のように立ちふさがってしまい、それなら、そのような壁から遠ざかることで、自分自身を生き延びさせようとしたと言えるかもしれません。
 3ヶ月ほど、自分と周囲をだますようにして、気丈なふりを演じ続け、教師を実際に辞める4月1日になって、突然、うつ状態になりました。
 分かりやすい話です。
 うつ状態になってしまうと、自分では何も決断することができなくなります。何を言われても、ほとんど心の中で泣いてしまい、何も答えることができません。
 私は、知人の勧めるまま、別の世界で、再び教師の仕事ができるような、そのための下準備の仕事に就くことになりました。かんたんに言うと、ある市立高校の寮の舎監という仕事です。さらには、その高校の先生の勧めで、欠員が出た、近くの中学校の理科の臨時教員として働くことになりました。
 考えてみると、自分から辞めると決意した、中学校の理科の教師の仕事に戻ったのです。しかも、正式な立場だったところから、臨時教員へと、ランクを落として。
 でも、うつ病だったので、何も考えることは出来ませんでした。
 今の自分は、ほんとうの自分ではないと、いつも思っていました。
 そして、いつしか6ヶ月ぐらい過ぎて、自分で何か決めて生きてゆけそうな気分になってきました。
 臨時教員の任期が過ぎたとき、これらの仕事をすべてやめ、肖像画をスタンプにして売るという、今から考えても、とうてい成功しそうもない仕事にチャレンジしたのです。
 教師だったころに知り合っていた、いろいろな先生を訪ね、飛び込みで注文を取って、肖像スタンプを制作して売りました。かくして、多くの友人を失ってゆきました。
 やがて、もう、売りに行くべきところがない、飛び込みで商売するのは、とてもつらいと考えるようになり、親戚の人の仲介で、近所の陶器工場で働かせてもらうことになりました。

 30年ぶりの同窓会

 物語は、この陶器工場での出来事を飛ばして、地質調査の会社へ入り、大阪支店での現場作業を経由して、やがて、東京本社の開発部へと転勤し、さらに何年か経ったときへと進みます。
 これらの間、仕事の上でいくつか成功もなしとげ、このさき何の問題もなくやって行けるものと思い込んでいました。
 ある年の年末、故郷の友人から連絡が届きました。およそ30年ぶりの、中学校の各クラス合同の同窓会を開くというのです。私は「出席」のはがきを出して、正月休みに帰省しました。
 故郷の信楽には、6クラスもの人間が集まれる場所が無かったので、それは大津の某ホテルの宴会場で行われました。かつての担任の先生方も参加され、なつかしい顔であふれていました。
 しかし、何人かの不参加者がいて、その人たちから、はがきで返されたメッセージが読まれることになりました。その一人のメッセージには、「私は残念ながら参加できませんが…」と始まり、特に参加できない理由なぞないのに、なぜか来なかったということが分かるものでした。
 私は、代読された、その返信文を聞き、それが私に向けて書かれたものだということに気づきました。
 さいごに
 「私は幸せに暮らしています」
と述べられていたのです。

 彼女は、いつだったか、夢の中に現れ
 「田中くんといっしょに、人生を過ごしてゆきたかった」
と、声もなく、私に語ったことがあります。
 教師を辞める何年か前、信楽で、かんたんな同窓会が開かれ、彼女にお酒を注いでもらう形で、かんたんなおしゃべりをしました。そのとき私は、血液型や星座の相性の話をぺらぺらと語り、二人は理想の組み合わせではないと語りました。もう酔っぱらっていたし、本心でそんなことを思っていたわけでもなく、単なる興味本位の無駄話のつもりだったのです。
 やがて会合が閉じることになり、外に出た私は、近くにあった喫茶店の窓ガラスの向こうに座り、顔を両手で覆っていた、彼女を見ました。
 もしあのとき、携帯電話のようなものがあったら、きっと彼女に電話したことでしょう。
 「いちど二人だけで会って話そう」
とか何か。

 でも、時間はまだたっぷりあると私は思ってしまい、その時何も行動しませんでした。
 しばらくして、彼女が結婚をしたということを聞きました。
 夢の中に現れたのは、そのあとのことでした。

 30年ぶりの同窓会に彼女が来なかったのは、私に会いたくなかったからだと、私は感じ取りました。
 故郷の実家でみやげにもらった棒ダラの煮物をもって、東京に戻り、会社の新年会に参加したとき、みんなが新年のあいさつをしているのに、私は突然
 「私には、することが何もありません」
と言ってしまいました。

 このあと、社長や会長が、私の直属の上司を無視して、直接私にいろいろな仕事を命じてくださり、ほぼ6ヶ月かけて、私は再び、活動的な状態へ戻ることができました。

 ゴブリンアイズのセールス

 今から3年前の、肝臓に握りこぶし大の炎症があったときの入院治療のあと、そのとき4度撮影された、何百枚もの、私の体についてのCTスキャンの画像をベースとして、白黒の医療画像をうまく色づけ、その情報を引き出しやすくするための、画像解析ソフト、ゴブリンアイズをまとめあげ、歯科X線画像にも適用できるようにして、一般の病院や歯科医院を回り、セールス活動を続けました。
 はじめ、手ごたえはありそうでしたが、やがて、まったく相手にされないということが分かり始めました。
 なぜか。
 医療現場では、お医者さんや歯医者さんは、そのような解析ソフトだけを使うことが、(まったくと言ってもよいくらい)ほとんど無いからです。
 そのような解析ソフトは、導入されているコンピューターを含めた、医療機器の会社のものしか使えないからです。
 そんな大きな資本とは、とうてい戦えません。
 私は袋小路に舞い込んでしまいました。

 2017年の12月から、このときのうつ病が始まりました。
 2018年の1月に行われた、町内会の新年の会合で
 「次年度の区長は田中くんにやってもらう」
と宣言され、何の反論も言い逃れもできず、ただ受け入れるだけでした。
 2018年の4月になって、実際に区長になったものの、うつ病の真っ盛りだったので、自分では何も決めることができません。
 区の役員は、区長と、各町の町代です。その町代の一人が、かつて私が教師をしていたころの生徒の一人でした。だからといって、その上下関係を利用したわけではありませんが、正直にうつ病だということを伝え、決断して行動しなければならないことについて、彼に相談して決めてもらいました。他の町代の所へもゆき、別の問題についての意見を聞くという形で、判断をゆだねました。
 やがて、5月になり、6月になるころ、今回のうつ病も好転するころだと信じ、いくつかの試みを自分に果たすことにしました。
 さいしょにしたことは、図書館で(かなり難解な)数学パズルの本を借りてきて、それを解くということです。解けなかったら、解答を見て学び、次へと進みました。
 決断力などは高まっていませんが、数学的な知能レベルは高まってきました。
 次に取り組んだのが、ホームページにもある、アインシュタインの特殊相対性理論の批判ページです。これは作品レベルとなり、ユニークかつ確かなものをいくつも生み出すことができるようになってゆきました。
 2018年の後半は、東京の地質調査の会社でやっていた、地震波形の解析を思い出し、日本で起こっている地震の波形を調べるということを行いました。
 得意な数値解析を手掛かりとして、うつ病の症状を消してゆくことができ、決断なども必要となる、ささやかな政治活動としての、区長の会合などで、地質調査の会社で見せていたような、するどい意見を生み出すことができるようになってゆきました。
 自分自身について、明らかにコントロールできているので、躁状態ではありません。
 まったく普通の、活動的な精神状態になったわけです。
 ゴブリンアイズを開発してゆくことはやめ、顕微鏡の画像を詳しく調べるための解析ソフトとして、ゴブリンアートを発展させることにしました。

 なってもおかしくない状況なのに、うつ病になりません

 2018年の12月から2019年の1月にかけて、ふたたび大きな問題があらわれました。
 これまでの経験に照らし合わせると、それは、私をうつ状態におとしてもおかしくないような、とびきりハードで、破滅的な問題です。
 かつて東京で味わったときのように、周囲の何もかもに、まったく意味がなく、何を目指して、何のために生きてゆけばよいのか、まったく分からなくなってもおかしくない状況なのに、うつ病になりません。
 これについての、つづきは、次のページで。
  (Written by TANAKA Takeshi, April 20, 2019)

 

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